八話 この手にあるべきもの
自分の家だというのに浮きまくる真貴に案内され、これもまた馬鹿が付くほど広い客室に通された二人は非常に居心地が悪かった。
何の気を利かせたのか、天蓋付きベッドが堂々と鎮座している。桜下がそれを興味深そうに観察している傍で、広い部屋にいると落ち着かない遊歌は飾られている絵画の裏を確認したりなど、窓から見える景色を眺めたりなどで部屋の中の一ヶ所に留まらない。
「このベッド、柔らかいなあ……」
「……落ち着かねえ……」
自宅にいる時は専ら自室で過ごしている遊歌には、この広い部屋をどう利用していいのか分からなかった。
屋外であれば好き勝手に運動をしたり、桜下に決闘を挑んだりなどができるのだが、いくら広いといってもここはあくまで室内。それもかなり良質な。良家の出でなくても馬鹿騒ぎすることは憚られる。
特大のため息を吐いた遊歌はベッドに腰掛ける。
「そっち行っていいか?」
「ばっちこーい」
この二人にやるべきことを与えなければいちゃつき始めるのは自明の理。やるべきことがあろうと、人目があろうと、いちゃつく時はあるのだが。
ベッドの上で抱き合っている。こうして字に起こすと意味深長に取られがちだが、二人は本当にただ抱き合っているだけだ。
坂上家で育った遊歌は貞操観念が比較的旧時代的だ。結婚するまで性交渉は厳禁とまではいかないものの、学生である内はそういったことは控えるべきであるという考えが根幹にある。
それでも、ちょうど今のようにキスはしょっちゅうしているが。
キスがエスカレートして、二人が互いの舌を貪り合っていると、部屋の戸がノックもなしに開かれた。
「坂上 遊歌様にお話がございます。応接室までご案内致しますので、準備ができましたらお呼びください」
それだけ言って、縁は戸の前から二人を見つめる。
「え、えと……」
人前でくっ付くならともかく、絡み合っているところを見られるのは流石に恥ずかしいのか、桜下が耳まで赤く染めて何か言いたげに言葉を漏らす。
遊歌は声も出さずに固まっており、口を開けて呆然としている姿が馬鹿のようだ。
縁はひたすらに無表情。二人のことなど見えていないのか、じっとベッドの上を見つめたままだ。
実に機械的。作法もろくになっていないことがその特徴を増長させる。時折瞬きを行っているおかげで、まだ人間味を感じることができる。
しばらくの間、恥ずかしさのあまりに動くことができなかった二人は、数分してから漸く我に返る。
「あ、ああ、じゃあ、行くか?」
何故か疑問形になってしまう。まだ動揺が収まっていない証拠だ。
遊歌のその台詞を聞いた縁は黙った踵を返し、着いて来いとすら言わずに先に進んで行く。それに着いて行く二人は恥ずかしそうに顔を互いに背けながら長い廊下を歩く。
廊下の壁を何の気になしに眺めていると、小さな写真が目に入った。
それには穏やかな笑顔を浮かべる女性と、その傍に立つ厳格な印象を受ける男性。そして、男性の手に撫でられている幼い少女の姿が写されていた。
遊歌は誰に言われたわけでもなく、その写真に写っている家族が大月家であることを直感的に感じた。
父に撫でられ、無邪気な笑顔を浮かべる真貴であろう少女の姿は、遊歌にとって少し羨ましく、物悲しいものだった。
「どうか、いたしましたか?」
いつの間にか足が止まっていたらしい。先を行く縁が前方で足を止めて問う。
「ああ、いや、なんでもない」
遊歌は父を、父からもらった自分の名の由来を、思い出していた。
◆
応接室の戸を開けると、先程とは打って変わって瀟洒な服に身を包んだ真貴がいた。
制服の遊歌はまだしも、普通に普通の私服を来ている桜下は非常に浮いている。居心地の悪い思いが一層増す。
「こちらにお座りください」
真貴に促されて上座に座る。礼をするという内容しか知らない二人は何が始まるのかと、そわそわした様子を隠そうとはしない。
一拍遅れて真貴が座り、その後ろに縁が立つ。態度はどうあれ、背を任されていることから、縁は信頼されているらしい。
「縁さんがご迷惑をおかけしました」
縁が迷惑をかけた前提で話し始める。その前提は決して間違ってはいないのだが、このメイドがそこかしこで迷惑をかけているのかと思うと、真貴の心労は計り知れない。坂上家には従者は存在しないため、その気苦労を理解してやれない。
申し訳なさそうな苦笑いが痛々しい。見知った人間のそんな顔は見たくない。遊歌はすぐにフォローを入れる。
「僕たちもまだ子供だし、そういうのはあんまり気にしなくていいと思うぜ」
「ありがとうございます。ですが、本日は大月家当主として坂上さんとお話がしたいのです」
今日の礼は、あくまで当主同時の会合という意味合いなのだろう。真貴の眼差しは普段とは一味違った真面目さが含まれているように見えた。
桜下が置いてけぼりになってしまうが仕方がない。ここは坂上家当主としての責務を果たすべきだ。
すうと、一度息を深く吸う。
「分かりました。では、お話とは一体どういう内容でしょうか」
遊歌の雰囲気が一変する。教師を始めとする目上の人物に接する時とはまた違ったものを、遊歌から感じる。この雰囲気を始めて感じた桜下は、遊歌が良家の出であることを再認識した。
「まずはお礼の話になります。申し訳ございませんが、現状、大月家の全権は伯父に任せている状況でして、つまらない礼になってしまうことをお許しください」
妥当だろう。遊歌はそう思った。
男である遊歌でも当主として矢面に立ち始めたのは十五の時。女である上に、まだ十四歳である真貴には荷が重いと親類が判断したのだろう。
任せている、という言動からして、権利を伯父の家系に奪われているということでもあるまい。いつになるかは分からないが、来るべき時が来れば、真貴は大月家として先頭に立つ日が来るだろう。
遊歌はしかし、金一封であろうと、土地であろうと、礼を受け取るつもりはなかった。真貴が助けてもらったと言うのなら、自分は真貴に命を救われている。
「お気になさらず。寧ろ、礼をすべきは私の方です。私は大月さんに命を救われているのですから」
「いえ! そんな! お礼だなんて!」
真貴が断ろうとした矢先、言葉に割り込む者が一人。
「でしたら、真貴様と婚約してはいただけないでしょうか」
縁が核弾頭にも匹敵する規模の爆弾を投下した。
どういう意図かは分からない。だが、その場にいる全員が三様に反応する。
真貴は今までの雰囲気が吹き飛び、一瞬にして顔を熟れたトマトのように紅潮させた。否定の言葉が出ないということは満更でもないようだ。
桜下は顔を引きつらせる。悪い印象を与えないようにと笑顔で話を聞いていたが、これには流石に表情を崩さざるを得なかったようだ。
そして遊歌。三人の中で一番反応が早く、そして三人の中で唯一言葉を発した。
「いや、僕、桜下と結婚するから」
即断。縁が言い終わった直後、条件反射の如く切り返した。
口調が崩れていることから、そこそこに怒っていることが窺える。
言ってから冷静さを取り戻した遊歌はああ、やっちまったとばかりに顔を左手で覆う。こうと決めても、上手くはいかないものだ。質問も質問だが、そこで態度が崩れてしまっては坂上家の顔に泥を塗ってしまいかねない。
一方、遊歌の即答に胸が熱くなる桜下は、遊歌を抱きしめたくなる気持ちを抑え込んで縁に問う。
「どうして結納の話になったの?」
「そ、そそ、そうですよ縁さん! 坂上先輩には藤原先輩がいるんですよ!?」
意味もなく両手を振って桜下の質問に同意する。真っ赤になりながらおろおろしている真貴は非常に可愛らしく、ささくれ立っていた桜下の心が少しだけ癒された。
仮にも主人に怒られているはずの縁はやはり表情を乱さない。
「真貴様のためです」
きっぱりと言った。
「真貴様は一族の会合の際、当主であるというのに端で黙って見ているだけ。賢治様が時折意見がないか問いかけて下さる時以外は何も仰りません。きつい物言いになりますが、賢治様の御厚意がなければ、真貴様はただの置物同然です。それに加え、恐らく、賢治様以外の親族の方々は真貴様のことを邪魔に思っておられるでしょう。ですから、坂上家の御当主である遊歌様と婚約することで、真貴様に発言力と影響力を持っていただこうかと、不肖ながら愚考させていただきました」
およそこの場にいる全員が予想していたよりも遥かに大真面目な理由が返ってきた。
真貴は縁の話を聞いているうちにどんどん縮こまっていき、最終的にはソファに座って俯いてしまった。
ド正論なだけに言葉が出ない。もちろん、遊歌と真貴の婚約が正解とは限らない。正解であっていいはずがない。他にも方法はあるだろう。縁の話を脳内で咀嚼した遊歌はその方法を模索する。
遊歌が口に手を当てて考える仕草を取るのを見た桜下は自分の駄目なところを徹底的に突かれて項垂れる真貴の背を優しく撫でる。
「貴方の言っていることは間違ってはいないだろうけど、あんまり責め立てちゃいけない。真貴ちゃんは天才でも、心はあくまでも十四歳の女の子なんだから」
思い返すようにして縁に語りかける。縁も思うところがあるのか桜下から目線を逸らした。
歯痒かったのだろう。主人が今までずっと邪険に扱われてきたことが。残念ながらその気持ちは遊歌にはまったくもって理解できない。
だがまあ、代案になるであろう方法は見つけた。
「代案は見つけました。伯父の、賢治さんと交渉が必要なのですが、何時お会いできるでしょう」
「賢治様は遊歌様に礼がしたいと、今日の十三時頃にこちらへ到着予定です」
深く落ち込む真貴の代わりに、縁が返答する。その瞳からは、遊歌が次にどんな質問をするかを見え透いていたように見える。
運が良い。こういった利権問題はなるべく早く済ましておくに限る。後々になって拗れてしまうと、絡まった関係を解くことが非常に面倒になる。話を聞いている限りでの賢治という人物は人が好過ぎるにしても、杞憂かもしれないが最悪は常に想定しておいた方がいい。
これは他人の家の問題。いくら恩人でも、先輩でも、名の知れた家の当主でも、簡単に踏み入ることはできない。それこそ遊歌と真貴が婚約でもすれば、すんなり話は進むだろうがそれは論外。最悪、「他所は他所、うちはうち」という魔法の言葉で片付けられてしまう可能性も大いにある。
そうなってしまえばもう打開策はない。遊歌も真貴も、黙って指を咥える以外に他ない。
「謝礼は如何しましょう」
「今回は互いに救われているので、御相子ということで構いませんか?」
「真貴様と賢治様が納得なさるかが疑問ですが、私としては構いません」
まあ、真貴の性格上、確実に何らかの謝礼はするだろう。それに対して礼をすれば、最早鼬ごっこ。突き付けられた時には素直に貰っておこうと決めて応接室を出る。
応接室から出た遊歌は大きく伸びをする。久々に他の家と対話して息が詰まっていたのだろう、体の中に溜まっていた空気を思い切り吐き出した。
「お疲れさま。格好よかったよ」
「そう言ってもらえると頑張った甲斐があるな」
続けて出てきた桜下が労いの言葉をかける。初めて見た遊歌の姿、そしてあの言葉。桜下は遊歌に惚れ直した。
昼食まではまだ二時間ほど時間がある。十三時頃に伯父が来ることを考えれば、まだ時間には余裕がある。部屋で時間を潰そうと来た道を戻り始めた。
途中で、やはり遊歌はあの写真に目を奪われる。写真に写っている人物を見て察した桜下は遊歌の手を握る。
「真貴ちゃんは、強いよな」
遊歌には遊七が、母がいた。真貴はそれすらも奪われ、独りきりだったのだ。その孤独は計り知れないだろう。
しかし、救われた。荒れていた遊歌は桜下に、臆病だった真貴は遊歌にと桜下に。
それが幸いだった。救いがなく、果てまで行ってしまった結果を桜下は知っている。
家族が揃っているという事実が、ある光景を、ある言葉をフラッシュバックさせる。暗い道で、紅い両手をひけらかす男の姿が――
「遊歌、行こう」
「桜下?」
「ごめん。でも、思い出しちゃったんだ」
静かに怒り、恐怖し、遊歌の手を引く桜下。「そいつ」を思い出してしまったのは、朝のニュース番組で「そいつ」の顔を見てしまったことが尾を引いている。
「そいつ」の名は藤原 桜雅。桜下の七歳上の兄にして。現在指名手配中の犯罪者。
遊歌の犯罪者嫌いが父を殺されたことに由来するのなら、桜下の犯罪者嫌いは桜雅に由来する。
家族や友人とは穏やかに接する反面、見ず知らずの人間にはひどく冷たい。桜雅とはそういう人間だった。
きっかけは桜雅が誤って他人を殺してしまったことに起因する。他人を殺した桜雅はその場でLv3として覚醒し、自身の根底にある欲望が殺人衝動であることを自覚した。
殺した。殺した。殺した。両親や妹に隠れて数え切れないほどの人を殺し、一人では償いきれない罪を背負った。もちろん、良心を持つ桜雅は自身が悪であることは自覚していた。しかし、良心以上に欲望が大きかった。大きすぎた。
そんなある日、桜下に人殺しが見つかる。
「兄さん……っ!」
桜雅はとびきりの、妹である桜下ですら初めて見る笑顔を貼りつけてこう言った。
「お前もやってみないか?」
今でもあの声が反芻される。Lv3となり、自身の心の底にある願いを知っている今でも、自分の中にはあの男と同じ衝動が眠っているのではと思うと、言い知れぬ恐怖が全身を襲う。
「待て、桜下っ。落ち着け」
「違う、僕は、違うんだ。信じて……信じてっ」
遊歌の肩を震える手で掴んで必死に訴えかける。
犯罪者が殺したいほど憎い。けれど、その思いはあいつと同じではないのかという自問が浮上する。あの日。真貴と買い物に出かけたあの日も、殺意が頭の中を支配していた。帰ってから、その事実に苛まれた桜下は自己嫌悪の念で圧し潰されそうになった。
だから、欲しい。愛する人からの否定の言葉が。「桜下は違う」とはっきりと。
遊歌はそれを理解している。桜下の憎しみも、恐怖も、すべて。
「大丈夫。違う。桜下は違うよ」
今にも泣き出してしまいそうな桜下を抱き締め、背を優しく撫でる。口調も普段のものとは違い、非常に柔らかなものに変える。
桜下がこうなった時にはいつも同じようにしている。できれば桜下が落ち着くまで抱き締めてやりたいが、ここは廊下。誰かが通るかもしれない場所を占領するのはよろしくない。
「今日は……できれば僕を離さないでほしい」
遊歌の胸に顔を埋めた桜下は震える声でそう言った。
久々に見た桜下の弱い部分は大きく膨らんでいるように思えた。きっと、この恐怖は桜下が強くなることに比例して、大きくなっていく。だから、遊歌は桜下が自分を失わないために傍にいなければならない。
互いに心が未熟だからこそ、二人は互いに寄りかかる。遊歌と桜下はどちらか一方が欠けてしまえば、そこで壊れてしまうだろう。二人は恋人を通り越し、共依存とも言うべき関係に至っている。
「ああ、離さない。ずっと、ずっと一緒だ」
大切なものを奪われた少年と、不要なものを押し付けられた少女は、いつまでも抱き合っていた。




