第四章 一つ目の真実
それらかまた六年後。アッシュは十二歳になった。明るく素直で活発なところはそのまま大きくなったので、中身は子供、姿は青年といった感じである。
相変わらず暇さえあれば、地下牢にアールネ達の目を盗んで行き、囚人たちと仲良くしている。なかなかあそこの域まで達するような悪人が出ないので、顔ぶれはあまり変わっていない。だが最近、ヴァザリの調子がすぐれない。本人は歳の所為と言っているが、心優しいアッシュは心配でそわそわしている。
小さなころからの問題児ぶりも成長を遂げ、たまに小さな問題を一つ起こしては地下牢に閉じ込められるが、近年余り効果が見られないことに気付いたクロウは、鞭打ちをするようになった。
「いい加減になさい。何度言ったらわかるのですか!あれほどいけないと言ったのに」
馬用の鞭でふくらはぎを叩く。
「うっ……ぅぐっ……ごめ、なさい……」
アッシュはどうしても外のことが知りたくて、また隠し通路を使って外出ていた。しかしどうしてもたどり着くのがあの森なので、人にかかわることができないのだ。
叩いたところから血が流れ出したところでクロウはアールネに鞭を渡して、マントを手に部屋を出て行ってしまった。出て行き際にトリスタンに地下牢に連れて行くように言って行った。
「大丈夫か?」
心配そうな表情を浮かべて二人が近寄る。
「大丈夫だよ。すごく痛いけどね、へへっ」
足の手当てをしてもらいながら、
「クロウ父さんは、僕の心配をしてくれてるんだよね。わかってるんだ、わかってるけどこれは結構くるね」
痛みに顔をゆがめながら言った。
「ほんとオメェは呆れるくれぇいい子だな」
「そうだな」
「ねぇ、クロウ父さんは何処に行ったの?」
「あぁ、きっといつもんとこだな。大丈夫、また明日になればいつものあいつだ」
ニカッと笑って歩くことのままならないアッシュをアールネの肩に担がせて、地下牢に向かった。
牢に入ると、壁から垂れている鎖をいじっているトリスタンにアッシュは聞いた。
「ねぇどうしてもそれつけなきゃだめ?」
「そうだなぁ。クロウがお前は細っこいから牢から抜け出るんじゃないかってつって、これを使うように言ったかんなぁ」
「すまんな、不自由な思いをさせる」
アールネが肩に担いだまま言った。本当に申し訳ないと思っているのか、声が思いのほか沈んでいた。
『おい!それをアッシュにつける気か!』
『テメェ等それでも親かよ』
囚人たちから非難の声が上がる。格子を揺すったり罵声を飛ばしたりと凄まじかった。
「おいおい、オメェいつからここの人気もんになったんだぁ?」
「さぁね」
壁に拘束されながらアッシュは顔をそむけた。そうしないと笑いそうになっているのがばれそうだったからだ。
「じゃあ、明日迎えに来っから」
そう言って二人が出て行く。それを横目で追いながら大きなため息をひとつついた。
「おい、アッシュ。お前、何やらかしたんだよ」
目の前の牢にはカーライルがいた。
「なんだ、そこは君の牢だったんだ。いつもと違う運ばれかたしたからわかんなかったよ。それに目の前にアールネ父さんがいたから」
「あの熊みたいなやつだろう?あいつはでかいよな」
「そういうカーライルも人のこと言えないよ。父さんみたいな体つきしてるもん」
「ははっ、あそこまでじゃねえよ」
自由の利かない中で楽な体勢を探しながら、鎖をじゃらじゃら言わせていると、他の奴らが怒鳴ってきた。
『なあ、俺たちとも話をしてくれよ、アッシュ!』
『そうだぜ。俺たち友達だろぉ!』
『カーライルばかりズルいぞ!』
「うっせぇ、黙ってろ!」
「あっはは!そうだね、皆は僕の大切な友達だもんね」
楽しいと感じながらそんな光景を見ていると、向こうの牢から咳き込んでいる音がしてきた。
「ヴァザリ、大丈夫かい?」
一発で誰かわかったアッシュは心配そうに聞いた。
「大丈夫じゃよ。今日は調子がいいからな」
元気そうな声が帰ってきて少し安心する。
「無理はしないでね。もう歳なんだから」
「ほいほい。わかっとるよ」
そうすると、声が止んでしまった。自分が無理をするなとは言ったものの、やはり反応がなくなると、今度はそっちの方が心配になってしまう。何とか覗けないかと無駄な足掻きをしてみると、下腹部に妙な感覚を覚えた。
「おなかでも壊したかな?」
「どうした」
「何でもない」
向かいの牢に頬笑みを返して、まだ騒ぎ続けている囚人たちをなだめた。
「今日は何を話そうか」
そういうと奴らは何でもいいと言って、とりあえず何でもいいから話せと言ってきた。だからアッシュは今日は何でここにこうしているかについて話しだした。
アッシュのことを突っぱねていた奴らや、隙あらば付け込んで利用してやろうと考えていた奴らも今ではそんなことも忘れて、ただの気さくないい奴らになっていた。
話してる間も時折下腹部の違和感に気を取られることがあった。しかし、それはきっと立派な男に成長しているんだと思った。最近、胸のほうもちょっとだが大きくなってきた。それもきっと、アールネ父さんのように立派な胸板になるんだと思っていた。その成長をすごく待ちわびていたアッシュは、とても喜んだ。立派になってから父さんたちに見せようと、ずっと隠してきたのだ。
「うふふっ」
思わず笑ってしまうと、向かい側でじっとアッシュを見ていたカーライルが話しかけてきた。
「どうした、嬉しそうだな。そんな風に拘束されて嬉しいのか?」
「違うよ。僕ももうすぐ立派な男になるんだなって思ってさ」
立派になったら何をするか、どんな戦士になりたいとか楽しそうにたくさん話すアッシュに温かい目を向ける。もし自分の子供が男で、大きく成長していたら、こんな風なのかと考えながら話を聞いていた。
『アッシュ、お前戦士になるのか?』
『なんであんなに厳つい奴らの仲間にわざわざなるんだ!』
『綺麗な姿のままでいてくれよ』
「僕だって男だ!カッコよくて強い戦士になるんだ。最強って言われてたセシタル建国の初代国王デル・ペンタゴンみたいに強い奴になるんだ!ねぇ聞いてるのカーライル」
「へっ?」
「もう!」
ここで急に何か思いついたようにアッシュは叫んだ。
「そうだ!僕が最強の戦士になったら、皆僕の戦士になってよ!」
これこそ皆は度肝を抜かれた。驚きすぎて、一同口がきけなかった。
「そうだよ、そうだ。僕がテルミドネになったら迎えに来るよ」
それを聞いた皆は大爆笑した。それぞれが腹を抱えて牢の中を転がりまわっていた。
『こりゃオモシれぇ』
『迎えに来てくださいよぉ、テルミドネ様ぁ!』
「もう、そんなに笑わないでよ。僕、何か変なこと言った?」
「プククッ……別に、大丈夫だ……ククッ……」
「もういいよ。フンッ!」
皆に笑われたことで拗ねたアッシュはそっぽを向いたような形で、寝る体制に入ってしまった。外はもう深夜だ。地上の人間は既に眠っている時間帯なのだ。だがここで生活している者たちは生物時計が地上の光にさらされないので皆がばらばらになっている。よって、地上が朝なのにまるで深夜にでもいるように眠っている者や、どちらでもないような不思議な人達もいる。最近はアッシュが頻繁に訪れ時間を教えたり、いろいろとしているので大分皆まとまってはきている。
『もう寝ちまったのか、アイツ?』
『そうらしい』
『あいつが寝るのは夜だから、俺たちも寝ようぜ』
『暇だしな』
そう言って続々と横になり始めた。まだ眠くない奴も他の囚人に合わせて横になるという行為を行っている。これもアッシュが起こした変化の一つである。
カーライルは他の奴らが眠るなか、起きていた。
「おい爺さん。起きてんだろ」
「なんじゃお前さん。起きとったんか」
「ずっと気になってたんだがアンタ、六年前にあの子に何かしたんだろ。アレはなんだ」
「気づいとったんか」
「まあな」
老人の力ない笑い声が聞こえてきた。
「わしは魔法使いじゃからな。あの子にちぃとばかし魔法をかけた」
カーライルの眉がぴくりと動いた。
「魔法だと?」
「そうじゃ。わしがあの子に話した魔法使いの話を覚えとるかえ?」
「ちょっとな。アレはあんたの過去だろ」
「そうじゃ。あの時手に入れた眼をあの子に譲った。わしはもう充分じゃからな」
「あんたはあの眼で何を見た」
老人はカラカラと笑った。
「この国の未来。そのためにわしがすることを見た」
ここまで言うと大きく深呼吸をする音がして、
「ここまで来るのに……随分待った――」
それがもうすぐ死ぬという人間が言うような遺言のように聞こえてきた。
それからあとは一切老人の声が聞こえてこなかった。
その頃、兵舎に戻ってきたクロウは部屋に明かりがついているのに気がついた。
「どうしてまだ起きているんです。訓練に響きますよ」
「将軍の仕事は訓練の監督と会議の出席だろ。昔よかマシだ」
「クロウ。アッシュはお前のこと、怒ってなかったぞ」
「そうですか」
外出時によく着用している、乗馬用の全身すっぽりと覆えるフード付きの黒いマントを片づけながら、二人に背を向けるようにして返事を返す。
「また……あそこに行っていたのか」
返事をしないところを了解とした。あそこというのは、少し離れたところにある墓地のことである。そこに殉死したクロウの恩師といえる人が眠っているのだ。何か辛いことがあると、馬を飛ばしてそこに行っていたのだ。
「大丈夫だよ。あいつはちゃんと育ってる。言いつけを若干守らないところはお前の所為じゃねぇって、なあ?」
「そうだ。これはトリスタンの所為だ」
腕を組んで、アールネが言いきった。
「ちょっそりゃねえだろ」
トリスタンがムッとした声で反論した。
ちょっと何か言ってくれよ、とばかりにクロウに顔を向けるが
「そうですね。貴方はアッシュが幼い時からいろいろ私の言いつけを破っていましたから」
誰にもフォローしてもらえず、部屋の隅で落ち込むトリスタン。
もうすぐ明け方になる。アールネ達は仮眠程度の眠りにつき、クロウはそのまま水を浴び、朝日を拝んだ。
「アッシュ起きろ。アッシュ」
自分を呼ぶ声で目を覚ますと、そこには自分を覗き込むようにかがんでいるトリスタンと、枷を外しているアールネと、腕を組んでうつむき加減で目をそらしているクロウがいた。
「おはよう父さんたち。今日の朝ご飯は何?」
「パンとスープとヤギのミルクだ」
「お腹すいたなぁ」
枷を外した手首を見て、アールネが呟いた。
「少し痕になったな。早く帰って飯にしよう」
牢を出るとき、今まで無言だったクロウが口を開いた。
「――アッシュ。その、少しやりすぎたかもしれません。すみませんでした……」
アッシュは一瞬キョトンとなったが、すぐに笑顔になってクロウの手を握った。
「早くもどろ?」
その行動にクロウは一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに柔らかい表情になった。
部屋に戻って食事を取りに食堂に行く前にアッシュはトイレに入った。アッシュが出てくるまでに支度を済ませようとしていると、突然悲鳴が聞こえてきた。そしてすごい勢いでアッシュが下着を片手に走ってきた。それはすごくおびえた表情だった。ズボンは一応履いていたが、きっとなかは何も身につけていない。アールネ達はそっちの方に驚いた。
「とっとととと父さんたち……どっどどどどうしよう……ぼっ僕、死んじゃうのかな、なっなななな何かへっへへ変な病気になっななななっちゃったのかな」
「どうした、何があった!」
一番近くにいたトリスタンがすぐに駆け寄った。
「昨日からお腹が変だったから、トイレに行ったんだ。そしたら下着に、まっ間々間々真っ黒な血がたくさんついてて、そ、そそそれで怖くって、それでそれで――」
涙を浮かべた今にも泣きそうな顔が、気まずい感じになっている三人の前に立ちはだかる。
「おい、どうすんのコレ。きっとアレだぞ」
「ですよね。そろそろ来るのではと思ってはいましたが、まさかこのタイミングで」
「もしかして、これがそうなのか」
こそこそと話している彼らの様子にさらに不安が増していくアッシュ。
「ねぇ、僕死んじゃうの!」
「いっいや、死なないからちょっと待ってろ」
いったん止めていから、また話しに戻る。
「ホントのことを話すのか」
「そうするしかないでしょう」
アールネも頷く。
「アッシュ――」
口火を切ったのはクロウだった。こういう役目はいつもクロウがナゼか請け負うはめになる。
「それは月経です」
「えっ?ゲッケイ?」
「ええ、あなたが立派な大人に近づいた証です」
「ほんとに!僕、立派な男に近づいてるの!」
ここで一度間をおいて、クロウは訂正した。
「いいえ。女性にですよ、アッシュ。あなたは女性なのです」
拷問部で習得した完全な無表情で説明していった。
「ジョセイ?女性って男になりそこなった人がなるんでしょ?僕、男になれなかったの……」
「違います。男と女は生まれた時から決まっています。だからあなたには子宮があり、私たちには子宮がない」
「嘘だ!だってアールネ父さん言ったじゃないか。大人になれば下のが生えてくるって。トリスタン父さんだって――」
ここできっぱりと、クロウは残酷にも言い放った。
「あなたは、何を言おうと女性に変わりがありませんよ。男にはなれません」
アッシュの目には何も映っていなかった。ただアッシュの中で何かが壊れたようだった。それは純粋な心を構成していた何かだったのかもしれない。
「……っ!」
アッシュは部屋を飛び出していった。涙は止めどなく両目から流れ出ていたが、その心は無だった。何も考えず、ただ走った。
まず向かった場所が厩舎だった。ガレスが声をかけたが、反応はなかった。心配になって顔を覗き込んだが、いつも輝いていた瞳に光はなかった。ただ何処までも吸い込まれそうな虚無な瞳がそこにはあった。
「……馬……準備して……」
ただそれだけ言うと、何処かに行ってしまった。もうその時には、彼女の目から涙が無くなっていた。枯れてしまったのか、泣くことすらできなくなったのかは分からない。ただ、冷たい表情の人形のような顔があった。
アッシュの向かった場所は戦士たちの服を洗濯し、干してある場所だった。アッシュは溢れだした血を吸いこんで濡れたズボンをそこで捨て、干してある下着とズボンを拝借した。ほとんど無意識の行動だった。溢れだす血を吸わせるために股と下着の間に分厚く折りたたんだ布を止血するようにしっかりと挟み込んだ。
鈍く重い痛みが下腹部にあるが、それすらも余り感じることはなかった。ただ、それがあることによって、自分が女であるという事実の認識と飛ばしたくなる意識を現実にとどめていた。
また厩舎の方へ向かうと、そこには準備の整ったアッシュの馬とガレスがいた。
「乗る準備は出来とるぞい」
それ以上でもそれ以下でもなく、ただ過不足なくガレスはそれだけ言った。
無言で差し出された手綱をとりとぼとぼと歩きだす。馬は利口な生き物。主人の感情がわかってしまう。
向かった先は裏庭の隠し通路の出入り口。そこを開けて中を進んでいく。どんどん進んで行って、ついにあの森にたどり着いた。空虚な瞳で馬を見つめ、愛おしげに撫で鞍にまたがった。
いつも通りの行動。しかしいつもとは違う。頭の中が今は無から、混乱、そしてやり場のないい怒り、憎悪、不安に駆られていた。
女、自分は女。
男じゃなかった。
何で今まで黙ってた。
どうして今まで嘘をついていた。
何で、どうして、僕は――僕じゃない。
わからない、分からない、ワカラナイ。
自分は女、男じゃない、僕は変だ。
自分は何者だ。
自分はいったい、誰なんだ。
そんなことを頭で考えながら馬を走らせた。何処までも走らせた。
今まで自分が信じてきたものはいったい何だったのか。自分の心よりも信じてきたもの。あの者たちが世界の全て、彼らがこの世の絶対だと信じてきた。信じてきたのに、裏切られた。信じてきたのに、嘘をつかれた。信じてきた唯一のものをあの一瞬で全て失ってしまった。自分自身と思っていたものも分からなくなった。自分はいったいなんなんだろう。――もう、何もわからなくなってしまった。
ずっと、ずっと遠くまで馬を飛ばした。行ったことのないくらい遠くまで来た。
すると森を抜け、大きめの村にたどり着いた。愛馬をおりて放す。黒馬は森の中へと小走りで行ってしまった。アッシュはそのままふらふらと村の中に入って行った。目的のないまま道を歩いていると、恰幅のいい男にぶつかって尻もちをついてしまった。
『痛てぇなガキ。ちゃんと前見て歩けよな!』
何も言わずに起き上がり進もうとするアッシュに男はキレた。
『このクソガキがぁ!』
アッシュは無意識に腰に手を当てる。しかし剣は城に置いてきている。そのまま身軽にひょいひょいとよける。空しく宙をからぶっていく男の拳。その光景を村人は、恐ろしげに眺めていた。これはアッシュが怖いのではなく、いつかアッシュが殺されてしまうのではないかという恐怖だった。
どんどん押されていくアッシュ。ちょっとずつ、ちょっとずつ後退していく。
男の仲間が、
『おいおい、こんなガキに何手間取ってんだ』
『お前、すんげぇ弱いなぁ』
と男を挑発するように騒ぐ。
『そんなこと言うんだったら手伝えよ!』
『しゃぁねぇな~』
そう言って、二人加勢した。
それでもアッシュにかすりすらしない。飛んだり跳ねたり屈んだりと、簡単によけられてしまう。その時、アッシュは鍬を見つけた。それを拳をよけながら取り、先の部分を道に叩きつけへし折り取り去った。長年使われ続けた鍬の頭部分は傷み、アッシュによって簡単に折られた。
その光景を見て、男たちの動きが一瞬だけ止まる。
『なんだよアイツ。あの棒を折りやがった』
『大丈夫だよ。あんなの俺らにもできる』
『さっさとやっちまおうぜ』
今度はまた別の連れが加勢して始まった。すると、小さくアッシュは呟いた。
「……槍の使い方……教わっといて、よかった……」
体勢を低くして拳をかわす。そのまま、梃子を使う要領で足に引っ掛け相手を転がし、胸を突く。しかし、先がとがってないのでアッシュの力では突き刺さらない。
次の相手は後ろから来た。棒を長めに持つ。ガラ空きの胴を狙ってフルスウィング。もろに脇腹に棒がめり込む。倒れた。止めを刺そうとする。棒を振り上げた。
『この、化け物!』
アッシュの頭に石が投げられた。それは直撃し、アッシュの顔面を赤く染めた。ぬるりとする、流れ出てくる液体を綺麗な細い指で少しぬぐい取り、形のよい小さな口に運んだ。口内では錆びた鉄の味が広がっていた。
「……マズイ」
うつむいたまま呟く。そして、石を投げてきた男のことをギロリと睨みつけた。恐怖で男たちの顔がゆがむ。いつの間にか周囲にいた村人はいなくなっていた。みんな家の中に逃げ込んだのだった。
『ひぃっ!』
これを合図のように、アッシュの意識は飛んだ。それからのことは覚えていない。ただ気が付いたら、目の前には顔が打撲で腫れあがり、血で汚れ、体中痣だらけになって倒れている男たちの姿があった。自分の手には血のついた棒と返り血で汚れた自分の身体があった。
そんなことはどうでもよかった。考えるのも面倒だった。ただ一つ思ったこと、
――化け物?
それだけだった。それですべてが片づくのであれば自分は化け物になろう、そう思った。わけが分からなくなっている今の自分にピッタリな言葉だとも。
立ち尽くしていると腹が鳴った。そういえばまだ何も食べていないことに気がついた。こんな時でも腹はすく。生き物とはなんと面倒で、不完全な生き物なのだろう。辺りを見回して食べ物を探す。ちょっと行ったところに果物が売られているのを見つけた。またふらふらと歩きだし、果物を目指す。途中で棒が手から滑り落ちたが気にしない。
果物にたどり着き、貪るように食べだす。また空虚な心に戻っていた。何も考えられない、何も感じない。ただ忠実に欲望に向かって突き進むだけ。
食べ終わると、また元来た方へふらふらと帰って行った。途中で意識を取り戻した男がアッシュを見て仲間を放り出して逃げて行った。だがそんなもの興味はなかった。
森にたどり突くと、近くに愛馬がいた。鞍にまたがり歩かせる。何の指示もアッシュは与えない。しかし馬は帰省本能に従って元来た道を帰っていく。その間、馬にしがみつくような姿勢で乗っていた。ただ何も考えることも、感じることもなかった。
隠し通路のところまで来ると、馬をおりて歩き出した。いつも通りに進んで行った。ただしいつもよりは歩行速度が格段に遅かった。そこを出た時に既に日は落ちかけていた。どれほど長い時間外をさまよっていたことだろう。
馬を送りふらふらと歩きだす。その姿を事情を聞いていた父親仲間が見つけた。
『おいアッシュ。お前どこに行っていたんだ?』
『その傷どうした!』
『大丈夫か?』
何を言っても反応しないアッシュに、戸惑いを覚える。目の前に立ちはだかると、一瞬だけ足を止めるがそのまま歩いていこうとする。
『おい!』
手をアッシュの肩にかけると、はじかれた。
『ホントにどうしちまったんだ』
『とりあえず、アイツらんとこ連れて行こうぜ』
『いくぞアッシュ』
手を引こうとつかむと、それもはじかれる。そして歩いていこうとする。ならば抱えて行こうとして抱き上げようとすれば腕をひねりあげられた。痛みの所為で膝をつきアッシュより体勢が低くなる。放せと言おうと顔を上げると、そこにはアッシュの顔があった。そこにあったのは以前の表情ではなかった。それを見て言いようのない恐怖を感じた。
『こいつイッていやがる。二人がかりくらいで捕まえんと無理だろう』
腕を両脇から抱えるように捕まえると、存外大人しかった。むやみに暴れずにそのままアールネ達のところへ連行されていった。
部屋につくと、彼らは入ってきたアッシュの状態に驚いた。
「どうしたんです!なぜそんな風に連れてきたんです!」
「それよかその怪我どうしたんだ」
「帰ってきてよかった」
アッシュの周りに群がろうとすると、連れてきた奴らに止められた。
『気をつけろ。こいつイッていやがる。暴れても知らんぞ』
その言葉に酷く驚いた。下から覗きこむようにうつむいている顔をみると、無表情で目には光がともっていない、世捨て人のような顔があった。覗いていることに気づくと目がぎょろりと動いて顔を睨みつけた。
「ぅあああああああああ!」
目が合った瞬間、叫びだし暴れた。掴まれていた腕を振りほどき、アールネ達につかみかかろうと迫って行った。まるで獣のように叫び、歯をむき出し、掴みかかろうとする。しかし相手も正規の訓練を受けた戦士。間合いも広いし腕っぷしも立つ。あっという間に抑えつけられてしまった。
「ぅあああ!ああ、ああああ!僕は何なんだ!何なんだよ!誰なんだぁっ!ああ、あっあ、ああああああ!」
半狂乱どころではなく、完璧に狂乱状態だった。涙や涎で顔はぐちゃぐちゃになり、押さえつけられた状態でもなおもがいていた。
「このままじゃヤバいって。どうすんだよ」
「まさかここまでショックを受けるとは。悪いことをしました。もっと早くに言っていれば」
「とりあえずここじゃなんだ、地下牢に連れて行こう。あそこだったら誰にも邪魔はされんだろう」
一番力の強いアールネがアッシュを肩に担ぐ役を担い、皆で地下牢に向かった。その間もアッシュは暴れ、アールネの背中に爪をたり引っ掻いたり噛みついたりと暴れた。
「放せ!放せええええええ!」
彼の服の背中には血がにじんでいた。
一同は無言のまま監獄棟まで行った。そこにはいつもは囚人たちの声が響いているが、今回はアッシュの声がそれをかき消した。
カーライルの牢の前に入れられ、この間のように枷で自由を奪われた。最後まで暴れていたが、つながれてしまうと大人しくなってしまった。
「かわいそうだが、しばらくこのままの方がいいだろう」
「そうだな」
「気持ちの整理をここでしなさい。食事はきちんと運んできます」
それだけ言うと、出て行ってしまった。地下牢の扉が閉められると、囚人たちが騒ぎ出した。いつものようにアッシュに話しかける。しかし、アッシュからの返事はない。囚人たちは心配した。いつもと明らかに違う様子に今度は騒ぎ出した。
カーライルも心配になった。向かい側で手枷に縛られてぐったりとしている子供を放っておくことができなかった。
「おい、アッシュ。大丈夫か」
相変わらず何の反応もない。死んでしまったのかと思い、格子に近寄り、できるだけはっきりとその姿を確認しようとした。
「どうしたんだ、アイツ……」
カーライルは言葉を失った。彼女は笑っていたのだ。口元を小さく釣り上げ、笑っていたのだ。ぐったりとした体をゆっくりと起こして座りなおし、何かをしゃべりだした。
「ばぁか……くくっ……馬鹿どもが――」
それは明らかに正気ではなかった。ここに集められた囚人たちにもそれはわかる。それほどにおかしかったのだ。全身から禍々しい気配が漂っていた。それは素人でもはっきりと感じ取ることができるほどに、どす黒くその辺り一帯を這うように満たしていった。
「最後の確認もせずに出て行く間抜けどもが……。手枷が緩いよ?トリスタン……クックック――。ほぉら……手が抜けちゃったぁ――あっははははははははは!」
手のひらを手首と同じくらいにすぼめると、緩めにはめてあった枷から腕が解放された。それを天にかざすようにして上げ、見上げて笑っていた。
「誰かなぁ……最後の確認を怠るなって、いつも言ってた奴はぁ――」
ゆっくりとふらつきながら立つ上がったアッシュは格子に近づいて行った。そして格子を指でなぞるようにゆっくりと端から触れて行った。それはまるで何かを選りすぐるように。
「あぁ、これだぁ。ここって古いみたいだから、これが外れるんだよねぇ」
そう言って格子を引き抜いてしまった。それを投げ捨てる。カーライルのところまで来ると、この光景から目が離せずに格子につかまって固まっている彼の顔を両手でがっしりと挟み込んだ。
「ねぇカーライルゥ。この世界って、ホントに変だよねぇ。僕って女だったんだって。あいつらが僕に言ったんだよ?おかしいと思わないかい?」
彼は彼女から目が離せなかった。何度も離そうとしたができなかった。
憂えに悲しさと怒りと憎悪が混ざり合い、不思議な輝きを大きな目が放っていた。その妖艶な姿に見入られていた。
彼女は舞を舞うように他の牢にも行ってしまった。そこに響くのは彼女の足音と笑い声だけだった。
どのくらいたったのか、彼女はふらつきながら帰ってきた。
「おい、大丈夫か」
思わず話しかけてしまった。アッシュは静かに振り返った。いくらか落ち着いた感じには戻っていたが、もう以前のような明るさはなかった。あの輝くような光も目に宿ってはいなかった。暗い影を落としたような、疲れたような、そんな目をしていた。
「ねぇ、僕って何だと思う?」
声はすごく落ち着いていた。一気に歳をとったような感じさえした。一体この時間の間で何が起こったのか、それを知ることは彼らにはできない。
「――お前はお前だ」
かろうじてそれだけ言うことができた。
改めてアッシュの恰好をみると、それは悲惨なものだった。解けば腰の少し上までのびていた髪。頭のてっぺんでいつも結っていたその長い太陽のような金色の髪は、糸が切れた所為で解けて乱れていた。服には血がたくさんついているが、それは彼女のモノではない。靴は泥と血で汚れていた。
「ふぅん」
虫けらを見るような目で彼を見下げる。
「なんか、僕の中空っぽだ。何にもない、何にも残ってない。どこにいったんだろう」
そういうと、近寄ってきた。
「ねえ、知らない?僕の中身」
カーライルは首を横に振った。
「そっかぁ、知らないかぁ。大切な何かだと思うんだけど、わかんないんだぁ」
ふらふらとカーライルから離れた。足元は覚束ず、泥酔した人を見ているようだった。
「お前の親父たちに聞いたらいいだろう」
これを聞いて、アッシュは怒鳴った。
「それを言うなあああああああ!」
息を荒げ、カーライルのことを醜いものをみるような目で見た。そうかと思うと、頭を抱えて苦しみだした。
「――うっ……うぅ……」
「おい、どうした」
「ねえ、カーライル。僕のモノになってよ。僕だけのモノになって!お願いっ!」
目には涙を浮かべ、顔をくしゃくしゃにして、必死の形相で訴えてきた。一瞬戸惑ってしまうカーライル。言っている意味がよくわからなかった。
「カーライル。何か言ってよ!お願いだ、僕だけのモノになって!僕だけを見て僕の声だけ聞いて、僕を裏切らないで!」
ここでようやく意味を理解できた。アッシュは今まで絶対と信じてきたものに裏切られた、嘘をつかれていた。そう思っている。今までのアッシュを作っていた何かが、崩れ去った現在。彼女は分からなくなっているのだ。自我が崩壊し、自分を見失っている。そのために無意識にすがるものを探しているのだ。それがないままだと彼女は――。
「わかった、お前のモノになってやる」
「ほんとう?」
「ああ。俺はお前を裏切らないし、嘘をつかない。お前だけのモノだよ」
格子の間から手を伸ばし、頭を撫でてやる。すると他の牢からも、
『俺もアッシュのモノになるぜ!』
『俺もだぁ!』
『俺の嫁になってくれてもいいぜ!』
『いや、俺の嫁だ!』
『それは、立場が逆転してんだろうが!』
一斉にアッシュの所有物宣言が飛び交いだした。アッシュはそれを聞くや否や崩れるように眠ってしまった。それでも気付かずに騒ぎ続けている奴らに、カーライルは怒鳴った。
「お前ら黙れ!アッシュが眠ったんだ!静かにしろ!」
すると、一斉に静かになった。これは使えると思いながら、そっと布団代わりの布をまくらにしてやり、その姿を見守った。その寝顔は安らかだった。
次の日の朝、アールネがアッシュに朝食を運んできた。しかし牢の中にアッシュはおらず、代わりに通路で横になって眠っていた。
それを見て、起こそうとすると牢の中の囚人が話しかけてきた。
「どうしてここで眠ってるのか」
何も言わずに中を横目で見た。中では男が壁にもたれて座っていた。
「知りたくないか?何でこいつがここにいるのか。教えてやってもいいぜ」
「必要、ない」
アッシュを抱きかかえようとすると、
「今のこいつは――俺達の主は以前のアッシュじゃねぇ。壊れちまってる。あんたらの所為でな。あんたらのことはどうでもいいが、こいつは学ぶところはきっちり覚えてるぜ。だから気をつけな」
話声で目が覚めたのか、むくりと起きあがった。目をこすり大きな伸びをする。
「おはよう、カーライル」
アールネのとこをマジマジと見てアッシュは、考え込むように呟いた。
「何だったっけ?思い出せないや。あはっ、あはははははは!」
そして急に背伸びをしてアールネの顔を覗き込むように睨んだ。
「でも、なんだか凄く不愉快」
それだけ言うと、自分が閉じ込められていた牢ではなく、ヴァザリの牢に向かった。
「ヴァザリ。ねえヴァザリ。起きてよ」
「うん?どうした」
「なにかお話ししよう?」
「よいぞ」
明るい声が聞こえてくる。これだけであればいつものアッシュに見えなくもない。
「あいつ、昨日のことあんま覚えてねぇと思うぞ。ただし、元に戻ったかといえば違う」
「どういう意味だ」
カーライルの牢の前で二人は話す。
「あいつは、あんたらに裏切られたと思っている。それを無意識に無理やり閉じ込めちまってるからな。危ないところだ」
「どうすればいい」
すると、ヴァザリの牢から声が聞こえてきた。
「時間がたつのを待て。そうすれば、お前さんたちの関係は修復される。どうして今まで黙っていたのかをいずれ理解するじゃろぉ」
アッシュに微笑みかけながらヴァザリは言った。
それを聞いてアールネは静かに戻って行った。
部屋には二人ともいた。
「どうでした、アッシュの様子は」
クロウが聞いてもアールネが黙っているので、
「何か言えよ」
とトリスタンが促した。
「あいつをしばらく自由にさせておこう」
「正気ですか?」
クロウは座っていた椅子から、思わず立ち上がった。
「ただし、問題を起こしたらきちんと罰を与える。問題を起こした戦士と同じような罰を与える。これでいいだろう」
「だがよぉ」
さすがに突拍子もないことなので、柔軟な考えをしているトリスタンでさえ心配そうな様子を示した。
「もういいだろう。あいつのことは隠しきれることじゃないし、ほとんどの戦士があいつの存在には気づいてる」
ここで一度言葉を切った。感情の高ぶりを抑えるように、唇をギュッと噛みしめる。
「あいつの気を紛らわせてやらなくちゃならん。あんなアッシュは見てられん。かわいそうだ」
「そうですね」
「わかったよ」
アールネの強い希望に二人は承諾した。
その日の昼、食事を持っていく代わりに解放した。好きにしろと言って、牢を開けたまま訓練に行ってしまった。その代り、そこには戦士たちの普段着がアッシュのサイズで置いてあった。
「カーライル。これは何?」
「お前の着替えだろう」
おもむろに着替えを始めるアッシュに、目のやり場にこまったカーライル。
「おい、ちょっとお前。場所を考えろよ」
「何で?」
裸のままカーライルのほうに向き問いかける。
「少しは羞恥心を持て!」
「う~ん?」
着替えを済ませ、昨日と同じように下着と股の間に布をきっちり挟んだあとカーライルの牢の前まで来た。
「ちょっと行ってくる」
そう言って出て行った。
外に出ると、日の光がまぶしかった。水浴び場に向かっていると、戦士数人とすれ違った。彼らは振り返り、アッシュを呼びとめた。
『おい、お前。新入りか?』
それを無視して歩き続けるアッシュにいらだちを感じた戦士の一人が、肩をつかもうとする。すろと、かわされ腕を掴まれた。
「触るな」
強い語気でそれだけ言うと、また歩きだそうとする。
『くそっ!先輩に向かってそんな口きいていいと思ってんのか!』
それを無視し続けていると、殴りかかってきた。それをたやすくよける。
「後ろから来るなんて、卑怯な人だ。そんなに僕と遊びたいんだったら相手してあげるよ。ほら、全員でかかっておいでよ」
余裕たっぷりで自信満々に挑発する。この時戦士たちは、初めてまともにアッシュの目を見た。その目には戦慣れした戦士特有の言いようのない威圧感と、それとはまた別に殺人鬼が放つ隠された殺気を放っていた。彼らはそれに畏れを感じ一瞬動くことができなかった。しかし、一
人が意を決して突撃した。それを合図に一斉に拳を振り上げて襲いかかる。アッシュは踊るようにかわす。軽やかなステップを踏み、迫りくる拳をいとも簡単に回避してしまう。ただその表情はつまらなさそうだった。拳が空を斬る。怒号が反響する。だがアッシュは避けるだけ。すべてを紙一重で回避する。ひらりひらりと、右に左に。
「あんたたちまだ、訓練ちょっとしかしてないだろう。それに出身はそこら辺の貴族。実力で入団したっていうよりは、金の力ってことない?」
そろそろばててきた彼らは、痛いところをつかれて焦った。
『そっそれがどうしたっていうんだ!』
「基礎の基礎しかできてなくて僕の相手をするにはまだ早いってこと」
顎を下から思いっきり手のひらで突いた。突かれた相手は後ろに吹っ飛んだ。その続けざまに別の相手に金的。その他もろもろあっという間に片づけてしまった。
「つまんねぇの」
倒れた奴らをそのままにしておいて、さっさと水浴びに行ってしまった。
次の日も、また次の日も。ほとんど毎日のように殴り合いの喧嘩に没頭した。なぜだかは分からなかったが、そうしてないと、自分がいることが分からなかった。生きているのか死んでいるのか。自分が生きてそこに存在しているという感覚が欲しかった。
騒動がばれるたび、尋問棟にある拷問部屋に連れて行かれ、上を裸にされ、磔にあい、背中を鞭で打たれた。血が滲み流れ、傷だらけになろうとも、彼女は決して泣かなかった。悲痛な叫びも上げなかった。時折呻き声が漏れるがそれだけだった。罰が済んだ後、連れて行かれた兵舎の部屋はアッシュが育ったあの三人の部屋。しかし三人とは会話をすることはなかった。目覚めると、何も言わずに部屋を出て行く。鞭打ちで肉が裂けようが傷が深かろうが、そんなものは関係ないと言ったように。さもそれが当たり前のように。
アールネ達はその行動が、どんな傷よりも痛かった。ただ踏ん張ることができた理由は、あの地下牢で出会ったヴァザリという老人の言葉があったからである。
そして二年後――。