第二章 出会い
数年の月日が流れた。
あの後も、何だかんだ言いながら、秘密を分け合った友人たちは、赤子の世話を手伝ってくれた。
戦争が起これば、招集をされていない戦士たちが赤子の世話をし、調査団率いる探査部の部屋点検があるときは全員で、あの手この手を使い隠し通した。
その甲斐あってか、赤子はあの日落としていたかも知れない運命を乗り切った。
ある日、気持ちのよい陽射しが、石造りの兵舎に差し込んでいた。
庭のようになっている広場や、近くにある闘技場では、戦士たちが小鳥の可愛らしいさえずりをかき消す勢いで声を張り上げ訓練していた。
兵舎の隣にも小規模ながら闘技場がある。それは旧闘技場で、今はもう使われていない。
しかし、そんな闘技場から大きな声が聞こえてきた。
「おらおら!いつまでそうしているつもりだ。そんなことじゃいつまでたっても終わらんぞ、アッシュ!」
そこではアールネが木製の太剣を振り回し、幼い子供に斬りかかっていた。
その六歳くらいの子供は、同じく木製の剣を持ち、攻撃をひょいと身軽によけていた。
しかしその顔はとても不機嫌だった。激しい動きで上気したバラ色の頬をプクっと膨らませ、ブルーダイヤをはめ込んだような円らな瞳は、アールネのことをキッと睨みつけ、形の良い小さな唇を尖がらせていた。
「ねえ、まだ遊びに行っちゃいけないの?」
「駄目だ。俺に降参って言わせたらいいと言っただろう」
「ケチっ」
「はははっ。何とでも言え、このやんちゃ坊主が!」
「僕は禿げてなぁい!」
子供は尚も自分から切りかかることはしなかった。ただ、相手の攻撃を舞うようによけるのみ。
幼子が相手であっても、手加減をしない。それが彼の流儀であり戦士としての礼儀だと考えていた。フェイントを織り交ぜた多彩な攻撃を仕掛ける。彼の一撃はすべてが重い。食らえば一たまりもない。木製の太剣を振り回すたび、空を斬る音がする。
「なあ、もう許してやれよ。こいつも遊びたい盛りなんだろう?お前にもあったんじゃねぇの?」
「そんなものは知らん!」
「ハァ~」
旧闘技場の客席に座って、気だるそうに訓練を見つめているのはトリスタンだった。膝に肘をつき頬杖をついて暇そうに、だがどこか心配そうに眺めている。
彼はこの訓練の監督者として来ていた。
「諦めなさい、トリスタン。彼は訓練や特訓や演習になると、途端に人が変ったようになりますから。それ以外ではアレなんですけどねぇ」
「何だよアレって。気になんだろ」
訓練を早々に終えたクロウが合流した。トリスタンが座っている席の隣に立ち、アッシュをじっと見つめる。
「似た者同士だからわかるはずですが?」
しばらくアッシュを見つめた後に、トリスタンに目を移した。
「わかんねえから聞いてんじゃねえか」
なおも頬杖をついたまま、つまらなそうに訓練の様子を眺める。そんな彼にため息交じりでクロウは言った。
「アッシュにとても甘いところですよ」
「な~るほど。別にいいだろう、かわいんだから。甘やかしたくなんだよ」
トリスタンがアッシュを見つめながら言うと、
「あの時、男だと勘違いしていたのは何処のどなたでしたっけ?」
と小さな声で呟いた。
そう、このアッシュはあの時の赤子だった。
アールネは宣言通り立派な戦士になるように、男として育てていた。御蔭でアッシュは自分のことを男だと思い込んでいる。普通なら気づいてもいいころ合いにも関わらず、気づいていないのかといえば、それはこの環境のせいだろう。
アッシュは物心ついた時から、女性にあったことがない。この戦士たちの生活空間から外へ出たことが一度もないのだ。
それにアッシュがアールネら戦士たちと共同風呂に入る時も、
「それは、お前が一人前の男になったら生えてくるから、心配いらない」
といった感じに回避し続けた結果だ。
嘘に嘘を重ねた結果、本当の見た目可愛らしい男児のように育ってしまった。
「ホントにこれでいいのか?クロウ」
「さあね。そんなことはなるようになってからじゃないと分かりませんよ」
トリスタンの方へは顔を向けずに、護身用の銃に弾を装填しながら言った。
彼はそんなクロウの目を見て「そうだな」と呟く。
「ところで、何でオメェは弾を装填してんだ?」
「それはですね、こうやって使うためです」
銃口をアッシュに向けた。
「アッシュ!訓練中に他事を行うとはどういうことです!集中なさい!」
そう叫んで、アッシュの足元に発砲した。アッシュは剣を避けることを止めてフィールドの片隅に咲いていた花を摘んで、アールネの注意も呼びかけも存在も無視して一心不乱に上の空で遊んでいた。そんなところに突然の銃声。気を抜き切っていたせいで尻もちをついた。
「もう!危ないじゃないか。クロウ父さん」
発砲されたことでようやく意識がこちらに帰ってきたアッシュが怒った。
「ホントだぜ。テメェ何考えてやがる!」
トリスタンも怒鳴る。しかし銃を何事もなかったかのように腰のホルスターに片づけるクロウ。そしてケロッとした顔を彼に向けた。
「イヤですねぇ。威嚇射撃に決まってるじゃないですか」
「でも当たったらどうすんだよぉ」
「おバカさん。当たりませんし、当てませんよ。地面を狙ったんですから」
そんな漫才のようなやり取りを聞きながら、アッシュは再び剣を構えて時を待っていた。
そんな考えを察したのか、アールネは太剣を振りながら呟いた。
「俺はお前よりも体力も力もある。俺が疲れるのを待つのはよした方がいいぞ」
それを聞いて、ますます不機嫌な顔になる。
「じゃあ遊びに行かせてよ。アールネ父さん」
「駄目だ」
「そればっかりじゃん」
「そればっかりとはどういうことだ」
「斬り合い。戦闘訓練」
「それがどうした。楽しいだろ?」
「楽しくなぁい!僕は遊びに、行ぃきぃたぁいぃのぉ!」
地団駄を踏み、ここで止めの一撃。
「僕のこのとってもイヤな感じ。どうしてくれるの?これが終わったらとか、お前が勝ったらとか、そんな返事は絶対に言っちゃイヤだよ」
「どうするもこうするも――」
言葉で責められ続けて、アールネの脳はキャパシティーを超えた。剣を操り身体を動かすという動作と、言葉を収集、分析し、その回答としてふさわしい返答をするということが、それほど器用ではないアールネには負荷をかけすぎたことになる。
これをアッシュは待っていたのだ。アールネの脳の活動が、確実な答えを出すために戦闘行為を中断したのだ。今、彼の視野は恐ろしいほど狭くなっている。そして、視界から入ってくる情報を脳は遮断し、解析しなくなった。今の彼の目はただの鏡のようなものにすぎない。
「なるほど。あの子も考えましたね」
客席からクロウは見た。
「彼は単純な男ですからね。二つのことを一遍にするのができないんですよね」
「なんだか、かわいそうだな」
「いいえ、これが勝負じゃないんですか?いつも貴方はアールネにかけごとでやってるじゃないですか」
「えっ。何のことかな?」
「彼が集中すると周りが見えなくなるのを知っていて、ズルしているでしょ」
「なっ何のことかなぁ」
「まあ別に構いませんが、今は関係ありませんので」
フィールドでは、アールネがアッシュに降参したところだった。
二人の元に向かったトリスタンとクロウは、どうやって降参と言わせたのかを聞いた。
「そんなの簡単だよ。アールネ父さんが完全に集中して、話しかけても聞こえてなかったから、背中によじ登って首元に模擬刀押し当てて、降参って言わせたんだ。どう凄いでしょ?」
愛らしい笑みを浮かべて、褒めてと訴えかけてくる。それを見つつ、トリスタンはアールネの様子を横目に伺った。こんな幼い子供に降参させられたのだ。あわよくばからかってやろうとの思いからだった。そして彼は見た。アールネが涙ぐんでいたのだ。無言で驚き、こっそりと涙の訳を聞いた。するとアールネは自分が負けたことよりもアッシュが勝ったことがどんなものよりも嬉しいのだそうだ。彼は自分の所為で負け、アッシュが勝ったのに不思議なことだ。そしてこういうときほど、彼の集中力が哀れになる。
「いったいオメェは誰に似たんだろうな」
クロウのことを横目に見て呟くと、彼は足の小指をピンポイントで踏みつけられた。彼の履いている薄い革のロングブーツはクロウの履いているヒールのついた厚い革のロングブーツによる攻撃をダイレクトに近い形で受ける。
「それはこちらの台詞ですよ、トリスタン」
痛みに声にならない叫びを上げて悶絶するトリスタンに冷ややかな眼差しを向ける。
横からクロウの細くて美しい中指を引っ張る者がいる。そちらに三人が顔を向けた。
「ねえ、もう行ってもいい?」
待ちきれないとでも言うように、うずうずしながらアッシュが聞いた。三人とも優しい気持ちになった。
「いいですよ。でも、いつも言っているように――」
「『兵舎の敷地からは出るな』でしょ。わかってるよ」
そう言いながら、あっという間に走って行ってしまった。
「元気ですねぇ」
「元気だなぁ」
「俺らは年だなぁ」
「やめてくださいよ。悲しくなってきます」
「今何歳だっけか?」
「二十九だ」
「アッシュの話しだっつの!そのくらいわかれよ!」
「六歳くらいですが」
「もう六歳か。あいつ随分強くなったよなぁ。力は弱いけど俊敏だし動体視力が半端なくいいよな」
「ああ。俺達の振るった剣が、全部見えているようだからな」
「まだまだこれからですよ。成長の余地がまだありますから」
しみじみと、成長を喜んでいた。この国で強いといわれている自分たちと、ここまでやり合えるのだ、という喜び。ここまで育て上げたのだという喜び。それをかみしめていた。
するとまたいつものように、
「ところでさ。アッシュって何処遊びに行ってんだ?クロウ」
トリスタンがクロウを見る。
「さあ、私は知りませんよ。アールネが知ってるんじゃないんですか?こういうことは全部彼に報告していますし」
二人はアールネを見た。
「いや、俺はてっきりトリスタンが知ってるものかと。楽しいことは、全部トリスタンに一番に言ってるから」
彼は慌てた様子で、すぐさま話をトリスタンに戻した。
「俺ぁ知んねぇぜ。だってよぉ、さっきまでクロウが知ってるものと思ってたんだからよ」
ここでしばらくの沈黙が生まれた。三人はあらゆる可能性を考えた。
その結果、クロウ以外まともな意見が生まれなかった。
「探しましょう」
「でも、どうやって探すってんだ?兵舎の敷地内だけたぁ言ってもよ、かなりの広さがあんぞ」
「三人でどう探しても、必ず死角ができる」
「三人?誰が三人で探すなんて言いました?この秘密を知っている者を総動員して探せばよいでしょう」
「なぁるほど。俺ら早すぎる出世をした甲斐があったってもんだぜ」
三人は戦争などで数々の功績を上げた御蔭で、この若さにして異例の将軍にそろって昇格していた。
「確かに、別に人を動かしても、部下を使っているくらいにしか見えんからな」
「そうと決まれば、早く探しますよ」
三人はそれぞれ声をかけ、何をするかを隠密かつ迅速に回していった。
アッシュは敷地外にでて、空を見上げた。
流れていく雲が太陽を一時隠し、またすぐに顔を出させる。水の匂いがした。いつもの場所に、自由の場所に出られたのだと感覚する。
生きているから、身体は疲れを感じる。それは例え幼くても。筋肉がパンパンにはる、などという言葉は知らないが、自分が疲れていることくらいはわかる。
ふいに何かがいる気配がした。すぐそばに何かがいた。
一頭の黒馬が湖の水を飲んでいた。
「見つけた」
小さな声で呟く。
アッシュは馬の良し悪しがよくわからない。しかしこの馬を初めて見たとき、一目惚れしてしまったのだ。この馬に出会ってから二年間。雨の日も風の日も、アッシュはこの馬を追いかけ続けた。
静かにそっと、相手に警戒心を持たせないように近づいていった。
一定の距離まで近づくと、馬が顔を上げた。そしてアッシュのことを見つめる。
アッシュも立ち止まって馬のことを見つめる。
――昨日はあとちょっとだったんだ。今日こそは触るぞ!
心にそう決め、そっと足を延ばす。一歩、また一歩と徐々に距離を縮めていく。
馬はその場でじっとしている。だが決して自ら近寄ってくることはない。それでもアッシュは進んでいく。
「――やった」
ついに馬に触れることに成功した。優しく顔を撫でてやり、喜びをかみしめる。
「触れた、触れたよ。うふふ、嬉しいなぁ。君に触るのに、僕は二年間も通ったんだよ?」
そう言って、逃げない馬を抱きしめた。
「そういえば、お前は一人なのか?」
馬の横に腰掛ける。水辺の柔らかい草が、クッションのようで気持ちいい。
「僕にはね、家族がいっぱいいるんだ。ホントの家族じゃないけど、みんなとっても優しくしてくれるんだ。アールネ父さんはとても力持ちでコワいんだ。特に自分の身長よりも大きな剣を簡単に振り回してるとき。ああ、でも普段はすっごく優しんだ。自分の意見が強く言えなくて、よく無視されてる。トリスタン父さんはね、変なんだぁ。なんか変な目で見られてるって言うか何というか。とりあえず変なんだ。お風呂も最近一緒に入ってくんないし。クロウ父さんはねぇ、すっごく綺麗な人で、美の神プルスィアロンみたいなんだ――」
馬が返事をしてくれるわけでも、相槌をうってくれるわけでもないが、とにかく次から次へと言葉があふれた。言葉とともによくわからない感情もまた、溢れだしてきた。
熱い液体が頬を伝った。それは止まるところを知らず、次から次へと流れていく。終いには、声まで出ていた。それを止めることはできなかった。
その間も、馬はアッシュのそばにずっと立っていた。立ってただじっと、泣きじゃくっているただの子供を優しく見つめていた。
そのあとは、止まらない涙を必死で抑えながら兵舎へ帰った。馬は連れ帰ることができないので、また会いに来ると言い残して、来た道を帰って行った。
黒馬はそんなアッシュの背中が見えなくなるまでそこに立っていた。