天結
龍平は全てを失った。肉親も財産も、思い出も、だが生きている。それだけを希望に、彼は夜の森を走った。途中、木の枝で足を切ろうとも、歩みを止めなかった。それは彼の生きようとする本能がそうさせているのかもしれない。
「はあ・・・・はあ・・・・」
龍平はついに力尽きた。渇きと空腹、そして疲労が一気に彼の肉体を蝕んだ。そして草むらの上に、大の字になると、ゆっくりとを閉じた。
「ねえ・・・・君、大丈夫?」
耳元で女性の声がする。それは今まで聞いたことのないような、若い澄んだ女性の声だった。
「ああ・・・・」
龍平はゆっくりと目を開けた。視界には20代ほどの美しい女性が、自分の顔を見下ろしている。ぼんやりとした意識のまま、辺りを見回すと、そこはどこかの建物のようで、ヒノキで造られた壁や天井がある。木彫りの家だった。そして龍平はベッドの上に仰向けに寝ている。
「もう三日も寝てるから、流石に心配になって」
女性は白いお椀にお粥を注ぐと、小さな木のテーブルに置いた。
「さあ、食べなさい」
「ありがとうございます。そう言えば、どうして僕はここに?」
「こっちが聞きたいわ。三日前、道端であなたが倒れているのを見かけたのよ。今時行き倒れなんて珍しいわ。でも放っておくことなんてできないでしょ。だから連れてきちゃったのよ」
「そうですか・・・・」
龍平はお粥を口に運ぶ。あれだけのことがあっても、腹は空くようで、あっという間にご飯一杯分を平らげた。
「それだけの食欲があれば安心ね」
女性はニコッと微笑んだ。
「ところでご両親はどうしているの?」
女性の質問に、龍平は口をつぐんだ。あの夜のことを思い出したのだ。
三日前、龍平は父を亡くしている。この世で龍平を最も理解している人物はもういない。そう考えると、寂しくて、どうにかなってしまいそうだった。
「父も母もいません。父は僕の目の前で死にました」
龍平はうつむきながら、涙をぽろぽろと流していた。そして女性は彼をを無条件に信じた。いわゆる悪がきのつくウソとは次元の違う、あまりにも重い彼の口調、話の内容に信じざるを得なかった。
女性は自らも涙を流しながら、静かに頷くと、龍平の右手を両手で包んだ。
「ここにいても良いのよ」
女性は間宮彩という、児童養護施設福音の庭の職員である。龍平は運良く養護施設の近くで発見されていたのだった。
「ありがとう・・・・」
龍平はベッドから起きた。そして覚束ない両足で何とか立ち上がると、彩の手を取り、ひたすらに、「ありがとう」という言葉を繰り返していた。
その日から龍平は福音の庭の住人となった。施設の子供達は、いずれも親に捨てられ、心に傷を負っていたが、その分、人の心の痛みの分かる優しい子供達であった。龍平もすぐに打ち解け、彩を慕い、職員に交じって、仕事の手伝いなどをしていた。彼は福音の庭では、最も最年長なのだ。
「行ってきます彩さん」
龍平は10歳にも満たない子供達を3,4人ほど連れて、いつものように空き地に向かった。
「お兄ちゃん、今日は何して遊ぶの?」
おかっぱ頭の少女が、龍平の服の裾を引っ張りながら、上目遣いにそう尋ねた。それに対して龍平は、優しく笑いかけた。
「さあ、着いてから決めよう」
天気は雲一つない晴天で、外で遊ぶにはこれほど良い環境はないだろう。
「もうすぐで着くぞ」
言いながら龍平は空き地を指した。
空き地に着くと、子供達は走ったり、土団子を作ったりと、好き放題に楽しんでいた。
そんな様子を微笑ましげに見ていた龍平であったが、ふと、空き地の奥に視線を移した。
「ん・・・・?」
空き地の奥に、人が立っている。それもここら辺では見かけないような神秘的な雰囲気を持った女性が、背中まで伸びた艶のある黒髪を靡かせながら、龍平をじっと見ている。彼はその女性に見覚えがあった。まだ父がいて、何も悩みなどなかった頃、草原の大木を挟んで、彼女と交流している。
「彼女は・・・・」
龍平を見透かしたように、空き地からフラッと何処かへ行ってしまった。
「あっ」
龍平は慌てて彼女を追った。まるで何かに縋るように、彼女と話すことによって、あの平和な日々が戻る気がしたのだ。
龍平は最早、子供達のことは視界から消え失せ、ひたすらに彼女の後を追った。そして気が付くと、あの時の草原に来ていた。そして初めて彼女を見た大木に、あの頃と同じように、木にもたれ掛かる彼女がいた。
「あの・・・・」
龍平は走って、大木の傍まで近づいて行った。彼女は息を切らしている龍平の姿を見て、微笑むと、彼の元へゆっくりと歩み寄った。
「私を覚えているのね。九条龍平・・・・」
「あ、あなたは何故僕のことを、そんなにも知っているのですか?」
「別にあなたのことは知らないわ。でも、あなたは私と関わることで、あなた自身の人生が変わってしまうかも」
「どういう意味ですか?」
「言ったままの意味よ。さあ話してあげるわ。全てをね・・・・」
黒髪の女性は、龍平に背を向けて、ゆっくりと歩き始めた。そして語り始めた。
彼女の名は有馬美園。古くから退魔を生業とする有馬一族の当主の娘、つまり現在の当主に当たる人物である。美園によるとこの世には、人と人ではない者、別名魔の者がいるらしい。そしてその魔の者を退治することが、有馬家の役目であった。魔の者は有馬一族によって、地上から消えたが、生前にある物を作っていた、それは黒水晶という。禍々しく輝く石。これには魔の者達の血液である、どす黒い油のような液体が封じ込められているという。そしてそれは、邪悪な人間の欲望を糧にし、一定限度までそれが蓄積された時に、中身が飛び出し、その黒い油を体内に入れてしまった人間は、魔の者と同じ、不死の怪物と化してしまうという。
「そんなことが・・・・」
龍平は信じられなかった。いや信じたくなかった。そんなおとぎ話でもないようなデタラメを聞きたいのではない。しかし美園の真剣な眼を見ているうちに、彼女の話を認めた。
「私は黒水晶を探していた。でも手遅れになってしまった。邪悪な人間が黒水晶を手にしてしまった」
「何とかできないのですか?」
「何とかと言ってもね。実は私病気なの。だから魔の者と闘えるほどの力はもうないの。ちなみに私の病気はね、体の免疫を少しずつ破壊していく恐るべき症状で、私を蝕んでくる」
美園は言いながら肩を落とした。しかし龍平はさらに続ける。
「魔の者を退治するってどうやるんですか?」
「本当は門外不出の話なんだけど、まあ良いわ、教えてあげる。私達有馬一族は、ある武術を使う。そしてそれは、この世で最強ゆえに、教科書にも載ることは決してない。まさに闇の存在。その名は天結という」
「て、天結・・・・」
美園は右手を龍平の前に突き出した。
「覚えてるかしら。あなたと初めて会った時、こうやって手を握ったわよね」
美園は龍平の手を強引に握ると、腕に力を込めた。
「見せるわ。これが天結よ」
美園の手が金色に光り輝く。直後に龍平の手から腕にかけて、電気のようなエネルギーが駆け巡った。
「痛っ・・・・」
龍平は思わず蹲った。そして掴まれた手を見ると、傷は付いていなかったが、焼け焦げたような煙が立ち上っており、腕の感覚がなかった。
「驚いたでしょ。これはね相手の体内にある「点」と言う名のツボに指を突き入れ、さらに、体内で生成した気を送り込むことにより、点に刺激を与えて破壊する。点はあらゆる生物の体内に存在していて、それはまさに急所。生きとし生ける者達の、生命の終わりの部分こそが点なのよ。だからそこを破壊することは、最低限の負担で急所だけを攻撃し、相手を殺すことと同じ」
「今、私は手を抜いていた。だからあなたの点を僅かに刺激しただけで、体は何ともない。でももし本気でやっていたら、あなたの右腕は砕け散り、二度とは元通りにはならなかったでしょうね。だって、点は、その体の部位の終わりを示すものだから、そこを破壊されたら、その部位は完全に死んでいるということになるのだから」
美園は、龍平の手を掴むと、彼を立たせてあげた。
「すごい、これがあれば、敵はありませんよ」
「だめよ・・・・」
美園の顔が暗くなった。彼女は急に体勢を崩すと、草むらに向かって血を吐いた。
「がは・・・・」
「み、美園さん」
龍平は美園の肩に手を伸ばして、自分の肩を貸した。彼女はふらつきながらも、龍平に体を預けた。
「この通り、技を使うたびに、寿命が縮んでるみたいだわ。私には闘うことは無理・・・・」
龍平は美園のを大木に腰掛けさせた。そして自分もその隣に座った。
「せめて僕が使えれば・・・・」
龍平は自分の拳を見つめた。何と頼りないのだろうと、自分が情けなくなった。さがそんな龍平の姿を見て、美園の顔付きが変わった。
「あなたが使えれば・・・・」
「えっ?」
「そうよ、確かに掟では天結を有馬一族以外の人間に教えることは許されていない。でも、もう当主が私しかいない以上、そんな掟は過去の遺物に過ぎない。そうよあなたが天結を使えるようになれば良いのよ」
美園は大木を支えに立ち上がると、龍平の眼をまじまじと見つめた。
「私はもう長くないけど、誰かにこの技術を残すことはできる。確かに技を教えるには、技を見せなければならない。それは寿命を減らすこととなるでしょうけど、でも、最後の力を振り絞り、天結の極意を伝授することなら、私はできるはず」
彼女の言葉を聞いて、龍平も立ち上がった。
「僕にも使えるようになるのなら、教えてください。僕の使命はそこにある気がする・・・・」
「良いわ。これからあなたには青春を全て犠牲にしてもらうわ。そしてその代わりに、私の全てをあなたに伝えるわ」
今まさに龍平の長く辛い修業が始まろうとしていた。その修行の末に龍平は何を見るのか。それは彼を取り巻く運命にしか推し量れない。