悲劇の夜
「フフフフ・・・・」
裕人の姿をした化け物は笑った。彼は裕人としての自我を失ってはいなかったのだ。
(何だこの全身から溢れ出るパワーは、なんて清々しい気分だ。まるで日曜日の朝のように、晴れ渡るこの気持ちはいったい何なのだ)
裕人は胸ポケットに閉まっていた黒水晶を取り出した。黒水晶は色を失い、ただの透明なガラスになっていた。どうやら水晶が黒かったのは、黒い油が入っていたかららしい。
「どこの誰が、こんな物を作ったのか知らないが、感謝するぞ。この石は、一番僕の欲しかった物をくれた」
信者の一人が裕人を下から見上げた。そして震えた声で言った。
「か、神だ・・・・」
周りの信者も口々に、裕人を神と崇め始めた。恐怖は畏怖となり、驚愕は尊敬となった。裕人は信者達の姿を順番に見下ろした。そして自らの服を破った。
バリバリという音と共に、均整のとれた肉体美が姿を現した。そして裕人は祭壇の上に立つと叫んだ。
「愚かなる人間どもよ。私を神と呼んだな。良いだろう。今日から私はこの世界の支配者となる。崇めろ私を、恐れろ私を」
天井から降り注ぐスポットライトが裕人の身体を照らす。信者達は裕人の威光の前に膝を突いた。
この日以来、プリズム教団の活動は世間の話題から消えた。そして裕人が学校へ行くこともなくなった。
龍平はいくつもの絵画が飾ってある大広間にいた。彼にとって気がかりなこと、それは神崎裕人が、サッカーのあの日以来、学校に一切登校していないという事実だった。あの日、傷を見た徹平が、強引に龍平を引っ張り、神崎家に殴り込みに行ったのには驚いた。子煩悩というものは、どの時代も盲目だったのだ。
「彼はどうしてるだろう」
龍平は黒電話を見つめた。無意識にクルクルとダイヤルを回し、裕人の家の電話番号にかけていた。彼に謝罪したい。それが今の龍平の気持ちだった。
「・・・・」
受話器に耳を当て、裕人が出るのを待つ。しかし一分待っても彼は出ない。諦めて電話を切ろうとしたその時、聞き覚えのある声が、龍平の耳をくすぐった。
「もしもし・・・・」
間違いなく裕人の声だった。
「もしもし、裕人かい?」
「ああそうだけど」
「最近学校に来ないから心配でさ、大丈夫?」
「ああ、平気だよ」
「あの時はごめん、君のお母さんに可哀想なことをさせてしまって・・・・」
龍平が話していると不意に電話が切れた。不審に感じた龍平はかけ直すも、裕人は出なかった。
裕人は明かりもなしに、薄暗い部屋の中にいた、畳の上に寝転がり、左右には青い肌をした、まるで楼人形のような美女を侍らせている。裕人が指を鳴らすと、同じく青い肌のまるで死人のような老人が、彼の足下に膝を突いた。
「裕人様、何故電話をお切りになったのですか?」
「ふん」
裕人は美女を払いのけるように立ち上がった。
「今夜、行動を開始する。目的地は九条邸だ。世界征服の第一歩として、あの屋敷を拠点にする」
(フフフ、見ていろよ龍平。進化した私が貴様に地獄を見せてやる。俺と母を侮辱した貴様に、俺の靴の味を覚えさせてやるぜ)
* * *
その日の夜中、龍平はいつになく胸騒ぎを感じていた。何故だか分からないが、鼓動が強く脈打ち、額からは脂汗が滲み出ている。外から聞こえる激しい雨の音と雷の影響もあるかもしれない。
龍平は耐え切れなくなり、ベッドから起きた。まだ夏と呼ぶほどの時期ではないはずだが、毛布もパジャマも、汗でビッショリと濡れていた。
ふと、違和感に気付いた。何やら視線を感じる。張りつめた空気が寝室全体を覆っている気がした。恐る恐る、龍平は視線を感じる方向へと視線を移動させて行く。
「・・・・」
龍平は天井を見上げると、反射的にベッドから跳ね起き、赤いカーペットの上を転がった。つい今横になっていたベッドは、くの字に折れ曲がっており、その上に、龍平と同じぐらいの背丈をした人間が、ベッドに爪を喰い込ませながら、ニタッと笑った。
「うへへへへえ」
龍平は本能で気付いた。こいつは人間ではない。
彼はとっさに部屋のドア付近まで走り、部屋の電気を付けた。さっきまで暗闇の中にいたので、居ように眩しく感じる。しかしもっと驚いたのが、ベッドの上にいる人型の怪物の姿だった。
口はヘの字に歪んでおり、涎が垂れている。瞳は赤く充血し、肌は真っ青だった。生気を感じないとはこういうことを言うのだろう。眼前にいるのは人知を超えた存在。爪は異様に長く、そして尖っている。あんなもので、体を傷つけられたら、肉ごと削ぎ落とされてしまうだろう。
「う・・・・あ・・・・」
極度の緊張で呼吸が苦しくなる。もたれ掛かるようにドアノブを掴んだ龍平は、T字の長い廊下に出た。廊下には巨大な窓が付いており、外の様子は雷雨の影響で確認することが出来ない。
「父さん・・・・」
龍平は前後を見回した。既に家の者達は全員寝静まっている時間帯なので、当然廊下も明かりは点いておらず暗い。
「みんな寝ているのか」
龍平は懐中電灯を探して、手探りで歩き始めた。すると廊下の奥の方から、グチャリグチャリと、何かを貪るような、気味の悪い音が聞こえてくることに気が付いた。
龍平は恐る恐る近づいて行く。ゴロゴロと雷が鳴る。同時に廊下が雷の影響で一瞬だけ光った。そして同時に気味の悪い音を発する原因が分かった。
「ああ・・・・」
龍平は腰を抜かして床に尻もちを突いた。あまりに恐ろしく、おぞましい光景に、大声で叫びそうになった。それは半裸の人の形をした者、さっき寝室にいたような、青い肌をした化け物が、3,4人で奪い合うように、何かを喰っていたのだ。
何を食べているのかは見当がつく。しかし龍平の本能が、それについて思考するのを拒んでいる。彼からは3、4人の青い肌をした怪物の背中と、その下に投げ出されている、二本の人間の足だけだった。彼らは上半身に夢中のようで、全員が全員とも、頭部や首の辺りに、顔を突っ込んでいる。そのため手つかずの下半身は、彼らが被りつくたびに、上下に激しく揺れ、八の字に開かれている。
ふと、化け物の一人が龍平の視線に気付く、首だけを動かして、龍平の方を見た。口にはサーモンピンクの皮が咥えられている。恐らく人の一部だと考えられる。
「来るな・・・・」
龍平は腰を抜かしたまま後ずさりをした。そして背中に何かが当たり、今度は背後を見た。
「へえええええ」
ぶつかったのは、さっきベッドの上にいた化け物の足だった。化け物は涎を垂らしながら、龍平を見下ろしている。
「あああ・・・・」
龍平は心のどこかで諦めた。体の緊張が解れ、力も入らなくなった。もう死ぬのだと諦めかけたその時、廊下の明かりが一斉に点いた。
「あれ?」
突然のことに龍平は驚いた。しかしそこに間髪入れずに、バンッという銃声が響き渡った。硝煙の匂いと共に、彼を襲おうとしていた化け物の一人の額に、金色の鉛玉が撃ち込まれている。化け物の両目は、衝撃のあまり飛び出し、床の上を転がって行った。そして目玉のあった部位は、ただの黒い穴となり、大量の血を噴出しながら背中から、後ろへひっくり返った。
「龍平こっちだ」
現れたのは徹平だった。彼は銃口から煙の出ている猟銃を持ち、必死な形相で龍平を見ていた。そして龍平にうつ伏せになるよう促すと、さらに彼の背後にいる化け物達に、銃弾を浴びせていった。
「父さん」
龍平は立ち上がると、徹平の右腕を掴み、走り始めた。
「無事で良かった。原因は分からないが、家の様子がおかしい。あんな風な化け物が、あちらこちらにいるんだ。どうなってるんだくそ」
徹平は龍平を引っ張りながら廊下の角を曲がった。すると玄関につながる螺旋階段を降り始めた。途中で階段にもたれ掛かっている、執事を発見した。
「爺、無事か?」
「はあ、坊ちゃんすいません・・・・」
執事は青白い顔で告げると、階段と階段の間から出現した青い手に、両足を掴まれ、吸い込まれるように、隙間の下に落ちて行った。
「うああああ爺」
龍平は絶叫すると、自分も隙間から下に降りようとした。
「だめだ龍平」
徹平は龍平の腕を掴み止めた。階段のすぐ下からは、グチャリグチャリと貪るような音と、骨を砕くような音が聞こえてきた。そしてしばらくすると、下品なゲップ音とと共にそれは鳴り止んだ。
洋館の中に静寂が走る。だが休んではいられない。徹平と龍平は螺旋階段を下りきり、玄関に来た。
玄関は大広間になっていて、いくつもの部屋に繋がっている。
「さあ、出よう」
徹平は龍平を連れて、玄関のドアに手を掛けようとした。その時だった。螺旋階段から足音が聞こえてきた。
「だ、誰かいるよ父さん」
「無事な奴がまだいたか」
徹平はドアから手を離すと階段の方へ走って行った。しかし降りて来たのは、生き残りなどではなかった。
「やあ、二人とも楽しめたかい?」
現れたのは、美しい銀髪に、切れ長の眼をした端正な顔立ち、他の化け物とは違う、けれども人間ではない、不思議な雰囲気を纏った男がそこにいた。
「誰だ君は?」
徹平が男に尋ねる。男はそれを笑って受ける。
「フッ、そうか、あの石のせいで急激に年を取ったので分からないのか」
男の背後には、青白い肌をした化け物達が立っている。
「裕人様、こいつらは我々にお任せを」
化け物の一人が、前に出る。しかしそれを裕人は静止した。
「待て。こいつは私が直々に相手をする」
二人の会話を聞いて、龍平は驚いた。
「今、裕人と言ったのか?」
「ほう、ようやく気付いたか。そうだ私は神崎裕人だ」
「いや、それはない。だってどう見ても君は14歳には見えない。少なくとも18歳以上に見える」
「フフフ、私は最高の力を手に入れたんだよ龍平。お前を殺すために、この私を可哀想などと言っておいて、何もせず、ただ見ていた、最低の偽善者以下の偽善者を成敗するためにね」
裕人は静かに徹平の元へ近づいて行った。
「来るな。撃つぞ」
「やってみろ」
「くっ・・・・」
徹平は引き金を引いた。バンッという銃声共に、裕人の額に銃弾が炸裂した。
裕人は後ろに大きく仰け反ると、額から血を流し、頬まで落ちてきたそれを、舌でなめた。
「な、聞いていない・・・・」
徹平は思わず猟銃を床に落とした。裕人は額から弾丸を抜くと、それを徹平に見せた。驚くことに彼の額の傷は、既に治癒している。恐るべき再生能力。最早彼が人間でないことは誰が見ても明白だ。
「私をそんな玩具で殺せると思ったのか。悪いが私は人間とは違うのだ」
裕人は徹平のこめかみを両手で挟むように触れた。
「楽にしてやる」
裕人が徹平のこめかみに力を加えた。
「ぐああああ」
裕人の爪が、グイグイと徹平のこめかみから内部に喰い込んで行く。
「そうだ龍平。良いことを教えてやろう。私がこれから何をしようとしているのか、お前に分かるかな?」
「分からない・・・・」
「だろうな。だから教えてやる。これからこいつの脳に、私の体内で生成した黒い油を注入する。するとどうなるか、簡単なことだ。今、私の後ろに控えている化け物になるのだ」
龍平は戦慄した。裕人は自分の意志で人間を自由に化け物に変えることができる。もしそれが本当ならば・・・・。想像するだけでも恐ろしい。
「私の黒い油を注入された者達は、痛みも感情も消え失せ、私のためだけに動く我が下僕となる。副作用として、常に絶え間ない飢餓感に襲われ、放っておくと、勝手に共食いを始めるのが難点だが、それを除けば、実に役に立つ連中さ」
「や、やめて・・・・」
龍平は床に膝を突いた。彼の行為を何としても止めさせなければならない。
「ふん、嫌だね。おいグール(食人鬼)共、お前達は龍平と遊んでやれ」
「はっ」
グール達は一斉に龍平に襲いかかった。そしてその鋭い爪が、龍平を傷つけようとしたその時だった。
「な、何だ?」
突然上の階から爆発音が響いた。洋館全体が揺れ、さらに玄関の広間まで火の手が上がった。
洋館が炎によって朱色に染まっていく。おしゃれな絵画も、銀の装飾品も全部、炎に包まれている。
「な、どうしたのだ?」
裕人は思わず手を離した。同時に徹平が床に倒れ込む。
「はあ、年のために仕掛けた時限装置が役に立つとはな・・・・」
徹平は肩で呼吸しながら、龍平を見た。そして玄関を指した。
「龍平よ、今のうちに逃げろ」
徹平は息子を逃がそうと必死だった。もう彼に息子と逃げる体力は残っていない。そして資産を投資して完成させた洋館も、亡き母との思い出の品も全てが消えようとしている。しかし息子だけは、龍平だけは助けなくてはいけない。それが父としての最後の役目。龍平は父の姿に涙した。
「嫌だ。僕は逃げない。もう全部終わりだ。たとえ助かっても僕には何も残らない。父さんと別れるぐらいなら、僕もここで・・・・」
言いかけたところで、徹平が怒鳴った。それは龍平が初めて見る父の姿であった。
「龍平・・・・。貴様・・・・。分からないのか。たとえ財がなかろうが、孤独であろうが、命が、お前には無限の可能性を秘めた生命がある。その幸福が理解できないのか。何のために父が、洋館を爆破しようとしたのかよく考えろ」
龍平は泣いた。徹平も泣いた。二人の間を裂くように天井から屋根の一部が落ちてきた。
「ああ・・・・」
「行け龍平よ。母さんとあの世でお前の活躍を見守っている。たくましく生き延びてみせなさい」
それが父の最後の息子への言葉であった。龍平は玄関のドアを開け放ち、雨の中を走った。徹平はそれを見て満足そうに微笑んだ。
「これならば、龍平は生きていけるだろう・・・・」
徹平の身体を瓦礫が押しつぶす。だがそこに苦痛はなかった。既に父の魂は天にめされたからだ。
「ま、まずい。くそが、龍平を逃がしてしまったぞ」
「大変です裕人様。この建物はもう限界です」
「ち、畜生。この肉体は屋敷の爆発に耐えられるのか。あの蛆虫どもめ舐めやがって。このまま犬死するなど、私の、神崎裕人のプライドが許さん」
「もうだめです・・・・」
「ち、ちくしょおおおおおおおおおおおおッ」
洋館全体を眩い光が包み込む。そして一瞬の静寂の後、洋館は文字通り、木っ端微塵に吹き飛んだ。龍平の思い出が、全て跡形もなく消え去ったのだ。しかし希望はまだある。龍平は生きているからだ。
洋館は僅かな礫を残して地上から消滅した。だが恐るべき悪の魂はまだ潰えてはいない。
「はあ・・・・はあ・・・・」
瓦礫の山の隙間から黒焦げになった腕が一本飛び出した。
「危なかった。咄嗟にグール共を壁にして、爆発のダメージを最小限に食い止めたが、これではいくら再生能力に優れていたとしても、火傷の傷はそう簡単には治癒しない。それにグールが全滅してしまった。早く新たなグールを生成しなければ。だが時間はある。私は不老不死なのだからな・・・・」
龍平は何処かに消えた。そして悪運の強い裕人も生き延びていた。二人の戦いはまだ始まってすらいない。