「戸惑う」と「途惑う」 その語源と遊び心
ワープロで「とまどう」を変換すると、「戸惑う」と「途惑う」という二つの候補が出てきます。一般に、「戸惑う」のほうが多く見かけますね。
しかしわたしは、長いこと「途惑う」を使っていました。その理由は、字から受けるイメージの問題です。「戸惑う」という表記からは、戸口、ないし建物がたくさん並んでいて、その前で右往左往しているような様子を想像します。他方、「途惑う」には、道がいくつにも分かれている分岐点で、どちらへ進んだものか悩んでいるというイメージを受けます。わたしが「とまどう」という語から思い浮かべるイメージは、どちらかといえば後者なので、「戸に惑う」ではなく「途に惑う」のほうを使っていたというわけです。
しかし最近、「途惑う」という表記になんとなく違和感を覚えるようになりました。この違和感の正体がどうもはっきりしないのですが、このままきちんと考えずに「途惑う」を使い続けるのは何やら気持ちが悪い。ここはひとつ、調べてみることにしましょう。
そもそも「とまどう」の語源は、「戸に惑う」なのか「途に惑う」なのか。こういう問題で頼りになるのが、小学館の『日本語源大辞典』です。……あれ、残念、「とまどい」も「とまどう」も載っていませんでした。
ここは世界最大(多分)の日本語辞典、小学館『日本国語大辞典 第二版』の出番ですね。国語辞典ですから、当然「とまどい」も「とまどう」も載っています。ただ残念ながら、語源説についての記述がありません。
語義については、このように書かれています。
と-まどい[戸惑](名)
①夜中に目をさまし、寝ぼけて方角がわからなくなってまごつくこと。ねまどい。
②はいるべき家、部屋などがわからなくてまごつくこと。
③手段や方法がわからなくてまごつくこと。勝手がわからないで躊躇すること。
と-まど・う[戸惑](自ワ五)
(名詞「とまどい」からできた語か)
手段や方法がわからなくて困る。どうしてよいかわからないでまごつく。
「自ワ五」はワ行五段活用の自動詞ということです。
表記については、見出しには「戸に惑う」しか書いてありません。しかし用例には、永井荷風が『夢の女』(1903)で「途惑ひ」と、大原富枝が『婉という女』(1960)で「途惑って」と書いている例が載っています。
語源について考えると、名詞の二番目の語義は「戸」と関係がありそうです。「途」と関係ありそうなものはないようです(あえていえば、名詞の一番目の語義は、「トイレまでの道筋がわからなくてまごつく」と捉えられるかもしれませんが)。「とまどい」という語の成り立ちを考えると、おそらく先に「まどい」があってそこへ「と」が付いたのでしょうから、この「と」が何なのかというのが問題になります。果たしてこの「と」は、「戸」なのか「途」なのか、それとも何か別の語で、後から「戸」や「途」という字を当てたのか……あれ、語?
日本語の語彙において、「戸」はひとつの単語ですが、「途」はそれ単独では語として使えない、形態素です。「と-まどい」の成り立ちが「トという何らかのもの」に「惑うこと」であるとして、「戸に惑う」が「戸惑い」になるのは理解できますが、「途に惑う」という言い方はしませんから、そこから「途惑い」という語ができたというのもちょっと考えにくい。
「トという何らかのもの」について、それ以外の可能性というのも特に思いつかないので、とりあえず語源として「戸」が最有力であるとしておきましょう。
語源の話から少し変わりますが、「とまどい」という語を「と」と「まどい」に分解して考えているうちに、わたしが「途惑い」という表記に感じていた妙な違和感の正体に気付きました。「惑い」は和語です。「戸」も和語です。漢字の読みとしては訓読みです。ですからこの二つがくっついているのは大変据わりがよろしい。ところが「途」は音読みです。つまり、和語である「惑い」の上に音で読ませる「途」という字がついているから、何となく落ち着かなかったわけです。
もちろん、上の字を音読み、下の字を訓読みする「重箱読み」というタイプの熟語もあるわけですが、ほとんどの熟語は音と音、訓と訓で構成されていますから、そちらのほうが自然に感じるのではないかと思います。また、そちらのほうが自然に感じるから、ほとんどの熟語は音と音、訓と訓で構成されるということでもありましょう。和語である「恋」の下に「人」がついたら「恋人」に、漢語である「愛」の下に「人」がついたら「愛人」になるわけです。
さて、とりあえず「戸惑う」のほうが語源に即した表記であるとしましょう。そうなってくると次に考えなければならないのは、なぜ「途惑う」という表記が生じたか、ということです。しかしこの問題については、どんな資料に当たったものか判断がつかないので、想像してみるよりありません。
ひとつの可能性として思いつくのは、語源よりもイメージを大切にした人が「途惑う」という表記を考案し、そして継承したのではないかということです。本稿の初めに、「とまどう」という言葉に対するわたしのイメージについて述べました。戸口と分かれ道の話です。わたしと同じように、「とまどう」という言葉から戸口よりも分かれ道をイメージした人が、あるいは戸口よりも分かれ道のイメージをこの言葉に付与したいと考えた人が、一種の遊び心で「途惑う」という表記を使いだしたのではないでしょうか。けっこうありえる話のようにわたしには思えるのですが、いかがでしょう。
以上、簡単ではありますが、「とまどう」という語の表記のゆれについて考察してきました。ところで、この問題の発端は、わたしが「途惑う」という表記に違和感を感じたということでした。「現代日本語として不自然でない限り、なるべく語源を尊重する」というのが漢字表記に関するわたしの方針ですから、これらのことを検討して以降、わたしは「戸惑う」のほうを使うようにしています。
もちろん、これは個人的なスタイルの問題でして、本稿は「途惑う」という表記を否定するものでも、永井荷風や大原富枝のスタイルを否定するものでもありません。
この観点を見逃している、ということがもしありましたら、ぜひご指摘を願います。