5
扉が開かれる。
現れたのは、少し影のある女性だった。目は、後ろに居る陽太くんには向かない。
見えないのだ。
「……ああ、神城さん所の。何か、御用ですか?」
疲れきった声。
説明に困り、とりあえず陽太くんに渡したひき肉を差し出す。
「えーっと、あの、突然こんなことで信じられないと思うけど……届けに」
「っ!」
一瞬だった。
パックが宙を舞っている。
あの日、あの時。あの子が成し遂げようとした、おつかいの物。
まるで、スローモーションのように。くるくる回って、地に、落ちた。
何故そんなことをするのか。
何故そんなに怒っているのか。
瞬間の出来事と、驚きとで、声が出ない。
「…………やっと……やっと、忘れていたのに!」
叫び。
それは、悲痛にも似ている。心が、別の意味で痛かった。
「ど、して……?」
わたしの喉は、カラカラに渇いている。
やっとで搾り出した声は、震えた。
「私の子は、夕太だけよ! たった一人の子供なのに何故!」
「――聞くな!」
「え?」
「 」
彼の声と同時に、陽太くんの耳が塞がれる。
だけど行動は間に合わず、声は聞こえてしまっていた。
聞きたくない音。間違いなく、傷ついてしまう言葉。
「……あ」
振り返る。
陽太くんの声は聞こえない。けど、今、どんな声を出しているのか分かる。
悲しくて、悲しくて。
号泣、している。
声の聞こえる彼を見る。表情は、悲痛な叫びと同じだった。
その気持ちを、感じることが出来たら。
「……ねえ、アナタの力で癒すことは?」
首を振られた。
「この子の傷を癒せるのは、残された人たちだけだ」
「でも! でも、陽太くんの母親は……」
「ああ……だから」
泣き続ける陽太くんを抱きしめる彼の手から、『光』が零れた。
悲しさを『紡ぐ』力。
自然と、涙が零れた。
痛くて、切なくて、怖くて近づけない。
「キミの悲しみは、オレの中で紡いでいく。いつまでも、ずっと――忘れない」
陽太くんは泣いた顔のまま、光に溶けていくように消えて、逝った。
はっきりと見えた、滲んだ視界。
彼も……泣いていた。静かに、変わらない表情で。
「悲しさに慣れたなんて、ウソだよ。アナタは今、泣いている」
「オレが? 心は、何も感じないのだがな」
「でも、泣いているよ」
指摘され、彼は自分の頬に触れる。
「………………そのようだな」
指先が触れたのは雫。それが温かいのか、冷たいのかは分からない。けど、悲しさを感じて泣いたのだから、きっと温かなものだと思う。
優しくなければ、温かい涙は出ないから。
「悲しみを紡ぐって、どういうこと?」
「具体的に知りたいのか?」
「まあ、気にはなるから」
彼に受け入れられて、本当に救われたかどうか。
浄霊能力を信じていないワケじゃない。あれで本当に良かったのか、後悔したくないから聞くのだ。
「――今から起こることは、全て現実であると信じることだ」
「え? あ、うん」
浄霊が現実であるから、今更言われても。
そう思っていると、彼は一度拒絶されたドアを鳴らした。
きっと『しつこい』と怒鳴られるだろう。そしてまた、傷つくことを言われるだろう。
そう予想していたのに、
「どちら様ですか?」
反応は、全くの正反対だった。正反対と言うより、別物だ。
「突然すみません。陽太くんと言う子の家を探しているのですが、この辺で知りませんか?」
「いえ。うちの近くに、そんな名前の子は居ませんよ?」
「あーそうですか。もう一度住所を確認してみます。どうも、ありがとう御座いました」
彼は、彼じゃない言葉使いで話す。
それも信じられなかったが、一番はやっぱり母親の反応だった。
名前を出されても、ピクリとも反応しない。
演技じゃ、そこまで出来ないだろう。
本当に知らないよう。
閉じられた扉。
「これが、陽太くんの悲しみを紡いだ現実だ」
全て現実だと、最初に言っていた意味が分かった。
どうやっても信じられない。信じられるはずが、なかった。
「オレが受け入れる悲しみとは、霊から残された人たちへの『すまない』という念だけだ」
悲しさは、そこに存在していた証。今も、これからも忘れないための、シルシ。
彼は残された人の心に、悲しみを残す。それが、紡いでいくと言うこと。
一つ。また一つ。
あの時言った『オレの中で紡いでいく』の意味は、残された人に残さないこと。存在も全て彼が受け入れたことにより、真っ白になる。
だから、陽太くんを忘れた。最初から、存在しないものにされたのだ。
こんなことが、あるだろうか?
それでも……これが、現実。
「全部を受け入れたから、何も残らないってこと……そう解釈していいんだね?」
「……ああ。拒絶された霊が悪霊にならないため、今のオレにできる方法は…………それだけだ」
「でも、それも一つの救いなんだよね?」
「………………救われていることを、願うさ」
悲しそうに、空を見上げる。
いつもと変わらない色なのに、何故か『泣いている』のだと思った。
泣けない彼の代わりに、空が泣いている。
きっと、あの子は救われたんだと思う。悲しんでくれる人が、ここに居るのだから。
「――お腹、空いたね」
「え?」
「いや、『え』じゃなくて。もう夕方だからさ」
「あ……そう、だな」
差し出す手の代わりは買い物袋。受け取った彼はもう、いつもの彼に戻りかけていた。
その方がいい。
悲しむことも大切だけど、悲しむばかりじゃダメな時もある。乗り越えなければならない時だって、あるんだ。
多分、今がその時。
「帰ろっか」
「……ああ」
彼より先に振り返り、来た道を戻る。
背には沈みかけた夕陽。
前に伸びた影は、まだ一つ。
その少し後ろに頭が、
「それでも――それでも『ボク』は、お母さんが好きだよ」
二つ見えたのは、きっと気のせいじゃない。
振り返り見た彼の口は動いたけど、声が彼じゃなかったのも、錯覚じゃない。
今、彼は彼じゃない。
あの子が、在る。
「紡」
「…………ああ。オレ、だ。大丈夫だ。少し、陽太くんの想いに引っ張られた」
「それって、意識を乗っ取られそうになったって言わない?」
「いや。紡いだ想いにシンクロしたと言えばよかったな」
それでも、それを乗っ取られそうになったと言うと思う。
完全に誰かの想いに重なることなんて、ほとんど有り得ないだろうから。
「――オレの名前……呼んでくれて、ありがとう」
彼がここに居ることが嬉しい、なんて思ってしまった。