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用途のない犬と、悪名だけの令嬢 〜気だるげメイドは一人と一匹を見守りたい〜

作者: 詩永あえし
掲載日:2026/07/07

 あたしの朝は、メンドーの一言から始まる。

 まだ空が白みきらないうちに寝台から這い出して、冷たい石の廊下を歩く。


 使用人棟から本館まで渡り廊下を二本。冬は地獄で、夏でもまあまあ苦行。

 早朝の屋敷は静かで、足音を立てずにひっそりと。あたしはその静けさを壊したくない。


 カルスタイン公爵邸のメイドになって三年目。

 あたしの仕事は、この屋敷のひとり娘——レーナお嬢様の身の回りの世話を努めている。

 世話と言うと普通に聞こえるけど、実態はだいぶ変わっている。


 レーナお嬢様は、あたしに用事をほとんど言いつけない。

 朝の支度を手伝わせることもなければ、服を選ばせることもない。食事も一人で摂る。


 あたしが「何かご用はありますかー」と聞けば「ない」と返ってくる。

 一日の大半を温室か書庫で過ごして、誰とも話さず、どこにも行かない。


 じゃあなんであたしがいるのかって話だけど。


 旦那様——カルスタイン公爵が、三年前にあたしを雇ったときにこう言った。「あの子のそばにいてやってくれ」。それだけ。具体的な仕事の指示はなし。

 あたしは面接のとき「メイドの経験はありませんが」と正直に言ったら、旦那様は少し笑って「構わない。経験のある者はもう何人も辞めた」と返した。


 つまり、レーナお嬢様の担当メイドは、あたしの前にも何人もいて、全員が音を上げたということだ。

 理由は、たぶん「何もさせてもらえないから」。人は自分が必要とされていないと感じると、居心地が悪くなる。

 ましてそれが仕事なら尚更。


 あたしが三年もっているのは、そういうのが割と平気な人間だからだと思う。

 何もしなくていいなら何もしない。お嬢様が話しかけてこないなら話しかけない。

 温室にお嬢様がいて、あたしは渡り廊下の柱に寄りかかって欠伸をしている。


 それだけの日が何十日と続いても、まあいいかと思える。

 お給金は出るし、屋敷のごはんは美味しいし、仕事量は正直言って少ない。

 メンドーが嫌いなあたしにとっては、ある意味理想の職場ではあった。


 最初の半年くらい、お嬢様はあたしの存在をいてもいなくても同じ、という態度だった。

 半年経ったある冬の日、あたしが渡り廊下で自分でも笑ってしまうくらい大きいくしゃみを盛大にした。しかも三連発。

 そしたら温室のガラス戸が開いて、お嬢様が顔を出した。


「……風邪?」


 一言だけ。質問なのか心配なのか分からない。

 あたしは鼻をすすって答えた。


「いえ、埃っぽいだけです。大丈夫ですよ」


 そのままお嬢様は、あたしを見つめていた。

 それが、最初の会話だった。


 そこから少しずつ変わった。

 変わったといっても、月に数回が月に十数回になった程度で、世間の基準からすれば誤差みたいなものだったけど。

 お嬢様が「寒い」と言えばあたしは暖炉に薪を足したし、お嬢様が書庫から戻るときに渡り廊下で待っていると、ほんの少しだけ歩く速度が落ちた。


 そして三年目、あたしとお嬢様の関係は「主従」というより——何と呼べばいいのか分からない。

 友達と言うと、お嬢様は多分否定する。


 でも旦那様は、あたしがお嬢様の部屋の前で居眠りしているのを見ても何も言わないし、お給金の支払い日にはあたしに「レーナは元気か」と聞く。

 あたしが「今日は温室で芋虫を観察してました」と答えると、旦那様は少し目を細めて「そうか」と言う。


 旦那様はお嬢様を心から大切にしている。

 好きだけど、その好きの伝え方が壊滅的に下手で、お嬢様も受け取り方が壊滅的に下手で、結果として二人は同じ屋敷にいながらほとんど話さない。


 あたしはその間にいて、時々旦那様にお嬢様の近況を伝え、時々お嬢様に旦那様の動向を伝える。

 伝書鳩みたいなものだ。メンドーといえばメンドーだけど、嫌じゃない。


 さて、長々とあたしとお嬢様の取り巻く環境を話したが、本題に入ろうと思う。

 あの犬が来たのは、そういう三年目の雨の日だった。


 ****


 あたしはその晩、使用人棟の自室で寝ていた。


 雨がひどかった。屋根を叩く音が断続的に響いていて、風が窓枠をがたがた揺らしていた。雨季で雨が降り続けるのは珍しくない。

 あたしは毛布を頭まで引き上げて、明日の朝も寒いんだろうなあ、とぼんやり考えながら眠りに落ちた。


 翌朝、いつものように温室に向かうと、お嬢様が椅子に座っていた。

 いつもどおり。ただし、膝の上に何かがあった。

 泥だらけの小さな塊。あたしは目をこすった。


 赤茶色の毛。立った三角の耳。背中に巻きつくように丸まった尾。

 両手に収まるくらいの仔犬だった。


「……お嬢様」

「いた」

「いた、って……どこに?」

「通風口。昨夜、入ってきた」


 あたしは温室の奥を見た。壁の高い位置にある通風口の格子が、片側外れて開いていた。

 そういえば数日前から壊れていたのを、口下手なお嬢様が修理を頼めないまま放置していたやつだ。

 あたしが気づいて頼めばよかった。反省。


「種類は……猟犬じゃないですよね?」

「分からない。違うと思う」

「軍用でも、牧羊でもないですか?」

「ない」


 あたしはしゃがんで、お嬢様の膝の上の仔犬を観察した。

 目は真っ黒で丸くて、白目がほとんど見えない。鼻は小さくて湿っている。

 体は小さいのにやたらと密度のある毛が生えていて、触ったら硬くてふかふかを同時に感じそうな質感だった。


 なにこれ。めちゃくちゃ可愛いんだけど。


 あたしの心中はさておき、問題がある。

 この世界で犬というのは、必ず何かの役割を持っている。


 猟犬は猟をする。軍用犬は警備をする。牧羊犬は羊を追う。犬はすべて労働種であり、「ただそこにいるだけの犬」は概念として存在しない。

 動物は役割で呼ばれ、名前すらつけない家もある。


 つまり、「何の犬か分からない」は、「何の役にも立たない」と同義で処分の対象になる。

 使用人頭が温室に入ってきたのは、あたしがそこまで考えたときだった。


「お嬢様、その犬は——」

「——いる」


 お嬢様は使用人頭を見て、一言で言い切った。

 使用人頭はベテランで、お嬢様の「いる」が「ここにいさせる」の宣言だと一瞬で察したらしい。

 口を閉じて、一礼して出ていった。


 あたしはお嬢様を見た。

 三年間この人の傍にいて、お嬢様が自分から何かを主張したのを見たのは、これが初めてだった。


 ****


 仔犬の世話をどうするか。

 あたしはまず厩務長のところに行った。厩舎の裏口に立っていた厩務長は、白い髭に半分埋まった顔を傾けて、あたしの説明を聞いた。


「どんな犬だ」

「小さくて、耳が立ってて、尾が巻いてます。猟犬じゃないです」

「見てみないと分からんな」

「お嬢様と温室にいます」


 厩務長はため息をついて、厩舎から温室まで歩いてくれた。

 お嬢様はまだ椅子に座っていて、仔犬を膝から下ろして床に立たせた。


 厩務長はしゃがんで歯を見て、肉球を見て、巻き尾を指で伸ばして離した。

 尾は、ばねみたいに元に戻った。


「猟犬じゃない。軍用でも牧羊でもない。こういう巻き尾は大陸のどこにもいない。少なくともわしは見たことがない」

「何の犬か分からないと?」

「分からん。だが犬ではある。骨格も歯も犬だ。月齢は二ヶ月くらいだろう」

「食事はどうすればいいんです?」

「この大きさなら干し肉を湯で戻したものを朝と夕に。量は片手にひと盛り。猟犬用の餌は塩が強すぎるから使うな。水は好きなだけ飲ませろ」


 厩務長が去ったあと、あたしはお嬢様に向き直った。


「お嬢様、干し肉を厨房からもらってきましょうか」

「自分で行く」


 あたしは目を丸くした。

 お嬢様が自分から厨房に行くなんて、記憶のある限り一度もなかったことだ。


「……一応、道案内しましょうか?」

「知っている。西棟の石段を下りた先」


 知ってたんだ。

 あたしは少し笑って、「じゃ、行ってらっしゃい」と言った。


 お嬢様は温室を出て、渡り廊下を歩いていった。

 仔犬は椅子の下で丸くなったまま、その後ろ姿を見送っていた。


 そしてお嬢様が厨房から戻ってきたとき、胸に布包みを抱えていた。

 あたしは温室の外の柱に寄りかかってそれを見ていた。


 お嬢様は温室に入って、布包みから取り出した干し肉を小さくちぎって、湯で戻して、手のひらに載せた。

 仔犬が匂いを嗅いで、お嬢様の指先を一度舐めて、それから食べ始めた。


 お嬢様はその舐められた指先を、もう片方の手でそっと包むように触れた。

 あたしはガラス越しにその一連を見ていて、温室には入らなかった。

 あの空間には、お嬢様と仔犬しかいらない。


 代わりに、あたしは使用人頭のところに行って、通風口の修理を頼んだ。

 ただし「仔犬が逃げないように、でもお嬢様が開け閉めできるように」と注文をつけた。

 使用人頭は少し呆れた顔をしたけど、翌日にはきちんと直してくれた。


 ****


 仔犬が来て数日。

 あたしは温室の外で、お嬢様の朝の日課を観察していた。


 起きて温室に行く。仔犬を確認する。お嬢様を見た仔犬が尾を振る。

 しかし大げさには振らない。この犬は妙に落ち着いている。


 そして厨房に行き、干し肉をもらう。

 戻って子犬に食べさせる。


 この「厨房に行く」が、お嬢様の一日に新しい工程として組み込まれた。

 あたしが代わりに行きましょうかと何度か申し出たが、お嬢様は「自分で行く」と断った。


 事前にあたしは厨房の料理人に声をかけておいた。「これからお嬢様が毎朝来ますけど、構えなくていいですから。普通にしてて」。料理人は頷いた。

 おかげでお嬢様が厨房に来ても、料理人は「おはようございます」と言って布包みを渡すだけで、余計なことは何も聞かなかった。

 しかし、お嬢様は「おはよう」と返すようになった。


 おはよう。

 お嬢様の進歩が、ここに来て加速している。

 犬の力、侮りがたし。


 そんな子犬に、あたしは寝床を作ることにした。

 お嬢様は自分の古着を丸めて椅子の下に敷いていたが、あれでは薄いし、雨季の湿気を吸う。


 あたしは使用人棟の倉庫から厚手の麻布と羊毛の端切れを引っ張り出してきて、自室で犬用の座布団を縫った。

 縫い物は得意ではないけど、まあ座布団くらいなら。

 四角い布を二枚合わせにして、中に羊毛を詰めて、針目がガタガタにならないように気をつけて——結果、そこそこの出来になった。


 翌朝、温室に持っていった。


「お嬢様、これ。犬の寝床にどうぞ」

「……あなたが作ったの」

「まあ、倉庫にあった余り布ですけど」


 お嬢様は座布団を受け取って、椅子の下に敷いた。

 仔犬はすぐにその上に乗って、くるくると回って、丸くなった。


「ありがとう」


 あたしはちょっと驚いた。

 お嬢様があたしに「ありがとう」と言ったのは、正直覚えていない。

 あったかもしれないけど、こんなにはっきり聞いたのは初めてかもしれなかった。


「いえいえ。どうせ暇なんで」


 お嬢様はかすかに眉を動かした。あたしのぶっきらぼうな返しに、少し安心したように見えた。

 大仰にお礼を言い返したら、多分お嬢様は引っ込んでしまう。


 ****


 一週間が経った。

 仔犬はお嬢様に懐いていた。お嬢様が温室に入れば足元に駆け寄り、椅子に座ればその横に座り、立ち上がればついていく。

 ただし、べたべたとは寄ってこない。適度な距離を保っている。


 あたしはこの犬の性質が好きだった。

 猟犬みたいにぐいぐい来ないし、牧羊犬みたいにきゃんきゃん吠えない。


 お嬢様は仔犬を連れて温室に隣接する裏庭に出るようになった。

 石垣で囲まれた小さな空き地で、雑草が膝まで伸びている。仔犬はここで走る。


 あたしは石垣の反対側に腰掛けて、それを眺めていた。

 仕事かと聞かれると困るけど、まあ、お嬢様を見守るのがあたしの仕事だし。


「しかし、本当に何の犬なんでしょうね」


 あたしは雑草に埋もれかけている丸い背中を見ながら言った。


「厩務長も知らないってことは、もしかしてとんでもない魔物の類だったりして。成長したら頭が三つに増える冥界の番犬とか、山よりでかくなって月を食らう神話の狼とか」


 お嬢様は石垣に座ったまま、真顔で黙り込んだ。

 あ、やばい。真に受けたか。


「あー、冗談ですよ、ただの冗談——」

「——頭が三つになったら、食事の量は三倍必要なのだろうか」

「……え?」

「胃は一つだから今の量で足りるのだろうか。一度、厩務長に聞いてみないと」

「……」

「山より大きくなったら、温室にはもう入らないな。裏庭もそこまで広くない。父上に頼んで演習場を借りるしか」

「お嬢様、心配するところはそこですか。普通、人間が食べられちゃう心配とかしません?」

「食べない。この子は干し肉のほうが好きだ」


 きっぱり言い切るお嬢様。

 その視線の先では、神話の狼候補が雑草の根っこに短い足を取られて、ぽてっと無様にひっくり返っていた。


「ほら、どんくさい。どう見てもただの犬ですよ、あれ」

「どんくさくない。地面が悪いだけ」


 お嬢様はムッとしたように犬をかばった。

 その生真面目な過保護っぷりに、あたしは呆れつつも思わず笑いそうになった。

 まあ、相手が地獄の番犬でも神話の狼でも、この人が飼い主なら案外メンドーなことにならずに済むのかもしれない。


 仔犬が立ち上がり、また短い脚を忙しく動かして走る。お嬢様がいることを確認して、また走る。

 走ると巻いた尾がわずかにほどける。きつく巻いた螺旋が一巻き分だけ緩んで、すぐに戻る。

 ほどけて、巻いて、ほどけて、巻いて。


 お嬢様はそれを飽きもせずに見ている。あたしも飽きない。

 なにあれ。可愛いんだけど。


 ****


 旦那様があたしを書斎へ呼んだ。


「レーナが犬を飼っているそうだな」

「お嬢様が拾われたんです。温室の通風口から入ってきた仔犬で、種類が分かりません」

「使用人頭からは聞いている。レーナがあの犬を置くと言ったそうだな」

「はい。お嬢様が自分の意思でそう言いました」


 旦那様は書斎の窓から外を見ていた。灰色の目。お嬢様とまったく同じ色。

 この親子は本当に似ている。似ているのに、話せない。


「あの子が自分から何かをすると言ったのは、久しぶりだ」

「……三年いますけど、あたしも初めて聞きました」


 旦那様は少し間を置いて、こちらを向いた。


「犬の世話に必要なものがあれば、使用人頭に伝えて手配してくれ」

「了解です。あ、あと、お嬢様が毎朝厨房まで干し肉を取りに行ってます」


 旦那様の眉がわずかに上がった。


「レーナが……厨房に?」

「はい。自分で行くって言って、あたしが行こうとしても断られます」


 旦那様は窓に向き直った。背中が少し和らいだように見えた。


「……そうか」


 その声が、いつもより少しだけ柔らかかった。


 ****


 最近、お嬢様の行動範囲がじわじわと広がり始めた。


 厨房には毎朝行く。厩務長のところにも、犬の食事について相談しに行くようになった。

 月齢が進めば食事の内容も変わる。厩務長は猟犬の知識をもとに助言してくれるけど、この仔犬は猟犬ではないから、すべてが当てはまるわけではない。

「試してみるしかない」と厩務長は言った。


 お嬢様は試した。芋を蒸したもの。塩抜きと骨抜きの魚をほぐしたもの。仔犬が好むものと好まないものを観察して、組み合わせを変えていった。

 あたしの役割は、食事の材料となる下準備だった。


 お嬢様が仔犬の食事を作って食べさせるのをあたしは手出ししない。

 それはお嬢様の仕事だ。あたしは材料を揃えるだけ。

 でも、あたしにも役得はあった。


 お嬢様が温室で仔犬に食事をさせている間、あたしは柱に寄りかかって待っている。

 食事が終わると、仔犬が温室の中をうろうろ歩き回る。

 鉢植えの匂いを嗅いで、ガラス越しにあたしの顔を見つけて——。


 こちらを見ながらしっぽ振るんですよ、この犬は。

 たまらん。


 お嬢様がガラス戸を開けると、仔犬がちょこちょこと渡り廊下に出てくる。

 あたしの匂いを嗅いで、前脚であたしのすねを軽く掻いて、また温室に戻っていく。


 そのたびに「はいはい、あたしはとおりすがりのメイドですよー」と呟くんだけど、内心はかなりときめいている。

 メンドーだとか言ってる場合ではない。この犬、可愛すぎる。


 ただし、あたしはあくまで距離を保った。この犬の飼い主はお嬢様であって、あたしではない。

 あたしが可愛がりすぎると、犬の意識がお嬢様からずれてしまうかもしれない。

 お嬢様にとってこの犬がどれだけ大事な存在になりつつあるか、分かっていたから。


 ****


 裏庭で仔犬が走っているとき、あたしは石垣に座ってお嬢様を見ていた。


 お嬢様は石垣の反対側に座って、仔犬を見ていた。

 仔犬が急停止して振り返るたびに、お嬢様はかすかに体を前に傾ける。仔犬が走り出すと、体が元に戻る。

 気づいているかどうかも怪しい無意識の反復。


「お嬢様、犬に名前をつけないんですか」


 お嬢様の横顔が少し強張った。


「……まだ」

「厩務長も名前つけろって言ってましたよね?」

「聞いた」

「名前をつけないと呼べなくないですか?裏庭で走り回ってるとき、戻ってこいって言いたいのに、なんて呼ぶのか決まってないと不便じゃないです?」


 お嬢様は黙った。あたしはそれ以上突っ込まなかった。

 この人が「まだ」と言っているときは、考えている最中だ。考えがまとまるまで待つ。

 待つのは得意だ。何しろ三年間、ほぼ待つだけでお給金をもらっていたんだから。


 ****


 あたしとお嬢様の会話が少しずつ変わってきた。

 犬の世話に関する会話が増えたことで、業務報告以外の言葉がお嬢様の口から出るようになった。


「今日、芋と魚を混ぜたら魚だけ先に食べた」

「へえ。好き嫌いあるんですね」

「好き嫌いというより、匂いの強いものを先に食べる傾向がある」

「観察細かいですね、お嬢様」

「……見ていれば分かる」


 お嬢様は人と話すのが苦手なのであって、頭が悪いわけでも感性が鈍いわけでもない。むしろ観察力は鋭い。

 植物の微細な変化を見分ける目があって、天候の兆しを読むのも上手い。

 温室で育てている薬草の葉が一枚変色しただけで、水やりの間隔を変えたほうがいいと判断できる人だ。


 その目が、今は犬に向いている。

 犬の体調の変化、食事の好み、眠りの深さ、毛並みの状態。お嬢様は全て観察している。

 観察して、ぽつぽつとあたしに報告してくれるようになった。


 報告なのかどうか、お嬢様自身も分かっていないかもしれない。ただ、見たことを誰かに言いたくなっている。

 その相手があたしだった。それだけのことだ。

 でも、あたしにとっては嬉しいことだった。


 ****


 ある日、あたしは裏庭で仔犬と遊んでしまった。

 お嬢様が温室で薬草の手入れをしている間、仔犬が裏庭に出てきたのだ。

 ガラス戸の隙間から器用にすり抜けて、あたしの足元にちょこんと座った。


「……あー、駄目だよ。お嬢様のところに行きなよ」


 仔犬はあたしを見上げて、尾を何度も振った。お嬢様に対してはだいたい二度か三度なのに。

 あれ、あたし、もしかして好かれてる?


 あたしは石垣の上から小石を一個、雑草の茂みの向こうに投げた。

 仔犬はぱっと目を輝かせて走っていった。

 短い脚を忙しく動かして、茂みに突っ込んで小石を探して、見つけてくわえて、あたしのところに戻ってきた。


「……やるじゃん」


 もう一度投げた。仔犬はまた走った。

 今度はさらに遠くに投げた。仔犬は全力で走って、巻き尾がほどけて——。


「楽しそうね」


 振り返ると、お嬢様が温室の入口に立っていた。


「あっ、お嬢様。すみません、勝手に遊んでて」

「いい。あの子、あなたと遊ぶときは少し走り方が違う」

「違う?」

「速い。あなたのほうを見ずに走る。信頼しているんだと思う」


 あたしは仔犬を見た。仔犬は小石をくわえたまま、お嬢様のほうに走っていって、足元に小石を置いた。

 お嬢様は少し間を置いてから、その小石を拾い上げて遠くに投げた。仔犬はまた走った。


「お嬢様も上手いじゃないですか」

「あなたのを見ていたから」


 二人でしばらく小石投げを続けた。

 仔犬は疲れるまで走って、最後はあたしとお嬢様の間に座り込んで、満足気であった。


 あたしはふと、お嬢様の横顔を見た。

 この人はそう簡単には笑わない。でも、顔の筋肉がいつもより少しだけ緩んでいた。

 それがあたしの知る限り、お嬢様の一番やわらかい顔だった。


 ****


 あたしは再び、旦那様の書斎に定期報告へ行った。

 月に一度、お嬢様の様子を伝えるのをあたしが勝手に始めて、旦那様が拒まなかったから続いている。

 暗黙の取り決めみたいなものになっていた。


「犬の世話をするようになってから、お嬢様の生活が変わりました。朝ちゃんと起きて、厨房に行って、厩務長のところに相談しに行って、裏庭で犬と過ごして。温室に閉じこもっている時間が減ってます」

「そうか」

「あと、あたしとの会話が増えました。犬のことを話してくれるようになって——まあ、犬のことだけですけど、でも前は何も話してくれなかったので」

「……犬が来る前、お前はよく三年も保ったな」

「まあ、お給金はいただけてましたし。あたし、暇なのは嫌いじゃないんで」


 旦那様は少し笑った。この人が笑うのも珍しい。

 普段は仏頂面で、お嬢様以上に表情が動かない。似た者親子。


「旦那様、お嬢様が犬に名前をつけられないでいるんです」

「……つけられない?」

「つけたいとは思っているみたいなんですけど、何と呼べばいいか分からないって。理由は聞いてないですけど、たぶん名前をつけることが怖いんじゃないかと思います。お嬢様、イルマ奥様のことがあるから」


 旦那様の表情に入れ替わった。


「イルマの名前をこの屋敷で最後に口にしたのはいつだったか」

「あたしが知る限りでは聞いたことないですね」

「私がイルマの名前を避けてきたせいだ」

「旦那様のせいではないと思いますけど」

「……いや、私のせいだ。イルマの話をすれば悲しくなる。悲しくなるのが怖かった。あの子も同じだったのだろう。親子で同じ怖がり方をして、同じように黙って、時が経ってしまった」


 あたしは黙って聞いていた。

 旦那様がこんなに長く話すのも、かなり珍しい。


「犬に名前をつけるのが怖いか……私から何か言ったほうがいいだろうか?」

「あ、それは——」


 あたしは少し考えた。


「旦那様がお嬢様に直接言うなら、犬の名前の話じゃなくて、もっと別のことがいいと思います。名前はお嬢様が自分で決めることだから。でも、旦那様がお嬢様と話すこと自体は——あたしは、いいことだと思います」

「……お前は率直だな」

「旦那様からお給金をいただいてるメイドのくせにすみません」

「いや、助かっている」


 旦那様はそう言って、また窓のほうを向いた。


 ****


 仔犬が食事を残した。

 朝、お嬢様が用意した食事に、仔犬は匂いを嗅いだだけで口をつけなかった。昼になっても食べなかった。

 夕方、もう一度出したら一口だけ食べてやめた。


 翌朝も同じだった。仔犬は寝床で丸くなったまま動かず、尾も振らなかった。

 あたしが温室に入ると、お嬢様が仔犬を抱えて立っていた。


「昨日の朝から食事を食べない」


 それを聞いて、あたしはすぐに厩務長のところに走った。

 厩務長は温室まで来てくれて、仔犬を診て、「熱がある。腸かもしれん」と言った。


「……治せますかね」

「ワシは外傷は診られるが、内臓は手に余る。領都に薬草師がいる。家畜の病も診ているから犬も診られるかもしれん。南門を入って運河の手前。青い窓枠の家だ」

「お嬢様、領都に薬草師がいるそうです。あたしが行って——」

「——わたしが行く」


 お嬢様は仔犬を毛布で包んで抱え上げた。目がいつもと違った。焦りがあった。

 あたしがこの人の顔に焦りを見たのは初めてだった。


「……分かりました。ただし、あたしも同行します。メイドなので」


 正面玄関を出て門を抜けた。お嬢様が屋敷の門の外に出るのは、社交界の夜会以来だと思う。

 朝の空気は湿っていて、白樺の並木が水を含んで光っていた。

 お嬢様の歩く速度は速かった。いつもの温室をうろうろする足取りとは全然違う。


 領都の門をくぐった。石畳の通りを運河に向かって歩くと、人とすれ違う。

 お嬢様の服装が明らかに貴族のもので、ちらちらと見られる。あたしがメイド服で隣を歩いているから余計に目立つ。

 でもお嬢様は気にしていなかった。馬車の用意すら確認していないのだから、気にする余裕がなかったのだと思う。


 青い窓枠の家を見つけた。お嬢様が扉を叩いた。

 開けたのは四十代半ばの赤毛の女性で、前掛けに草の汁のしみがついていた。


「犬を診てほしい」


 薬草師は仔犬を見て、「中に入りな」と言った。

 仕事場は、天井から薬草の束が何十本も吊るされていて、空気が乾いた草の匂いで充満していた。

 あたしは入口の近くに立って、薬草師がお嬢様の抱えた仔犬を診るのを見ていた。


 腹を触り、体温を確かめ、口の中を見る。


「腸だね。食い慣れないものを食べたか、虫が入ったか。仔犬にはよくあることだ」

「死ぬのか」

「これくらいじゃ死なんよ。煎じ薬を飲ませれば落ち着く」


 薬草師は乾燥した草を三種類、紙に包んでくれた。

 ひとつまみずつ湯に溶かして、朝晩飲ませろ。嫌がるなら芋に混ぜろ。

 食事は軽く。肉はしばらくやめて、芋と麦を柔らかく煮たもの。


 お嬢様が代金を払った。

 薬草師は硬貨を受け取りながら、お嬢様の顔を見た。


「あんた、カルスタインの嬢ちゃんだろう。髪と目で分かるよ。その犬、見たことない種類だね。『何もしない犬』だ」

「何もしない犬で構わない」

「そっちのあんたは付き添いかい?」

「メイドです。まあ、付き添いみたいなもんですけど」


 薬草師は鼻を鳴らした。


「犬は飼い主に似るっていうけどね。あたしは逆だと思ってるよ。飼い主が犬に似ていくんだ」


 あたしはその言葉をなんとなく胸に留めた。


 帰り道、お嬢様の足が少し遅くなった。仔犬が死なないと分かって、肩から力が抜けたのだろう。

 あたしは半歩後ろを歩きながら、通りの景色をぼんやり眺めていた。


 運河沿いの柳。パン屋の匂い。子供が二人、石段に座って釣り糸を垂らしている。

 お嬢様もそれを見ていた。立ち止まりはしなかったけど、視線が通りの左右を行ったり来たりしていた。

 温室の中では見られないもの。ガラスの向こうにはなかったもの。


「お嬢様、パンでも買っていきます?あそこの店、焼きたてっぽいですよ」


 お嬢様は少し間を置いて、「いい」と言った。

「いい」が「いらない」なのか「いいよ」なのか判断に迷ったけど、お嬢様がパン屋の前で足を止めたので、あたしが勝手に買って一つをお嬢様に渡した。


 お嬢様は歩きながら小さくゆっくり噛んでパンを食べた。


「……温かい」

「焼きたてですからね」


 二人で、白樺の並木道を歩きながらパンを食べた。

 仔犬はお嬢様の腕の中で眠っていた。


 ——あ、なんかいいな、これ。


 メンドーとか言ってる場合じゃない。

 こういう時間のためにあたしはここにいるんだ、多分。


 そうして仔犬は数日で回復した。

 薬を飲ませたのはお嬢様で、あたしは芋と麦を柔らかく煮るための鍋を手配したりした。


 仔犬は煎じ薬に渋い表情をしてくるので苦労したが、サツマイモに混ぜたら飲んでくれた。

 再び元気を取り戻した子犬は、食事を完食して、裏庭を走り回って、石垣に登ろうとしてずり落ちた。


 あたしは石垣に座ってそれを見ていて、声を出して笑った。

 お嬢様は石垣の反対側に座っていて、鼻から短く息を抜いた。

 それがお嬢様の笑い方なのだ。


 ****


 お嬢様が領都に行くと言い出した。


「薬草師に礼を言いに行く。あと、乾燥魚を買う」

「あたしも行きましょうか」

「いい。一度行けた場所なら一人で行ける」


 あたしは少し驚いたけど、引き下がった。

 この人は嘘をつく必要を感じない人だ。行けないなら「行けない」と言う。

 お嬢様は一人で領都に行って、薬草師のところで礼を言い、乾物屋で乾燥魚を買って帰ってきた。


「薬草師が茶を出してくれた。苦かった」

「へえ、何か話しました?」

「犬のことを少し。あとは名前のこと。薬草師が名前はいつか呼びたくなったとき、最初に口から出た言葉をそのまま使えばいいと言った」


 あたしはうんうんと頷いた。

 いいこと言うなあ、あの薬草師。


「あと、乾物屋で魚を買うとき、店の人に『この魚、犬に食べさせても大丈夫か』と聞いた」

「お嬢様が?店の人に?すごい」

「……それくらい聞ける」


 お嬢様はあたしをじっと見た。


「褒めているのか」

「素直に褒めてますよ」


 お嬢様は少し間を置いて、「……変なメイド」と言った。

 あたしは笑った。三年目にして初めて「変なメイド」呼ばわりされた。


 ****


 あたしとお嬢様は、渡り廊下の日陰に並んで座ることが増えた。

 夏に近づくにつれて温室の中は蒸し暑くなるので、風の通る渡り廊下のほうが過ごしやすい。


 仔犬は二人の足元で寝そべっている。

 あたしが靴紐をゆらゆら揺らすと、前脚でちょいちょいと掻こうとする。

 可愛い。つい遊んでしまう。


「また遊んでる」

「すみません、つい。この子が寄ってくるんですよ」

「あなたが誘導しているように見えるけど」

「してないです。……してないですよ?」


 お嬢様はほんの少しだけ口の端を動かした。笑う一歩手前の何かだ。

 あたしたちは並んで座って、とりとめのないことを話した。

 仔犬の毛が最近少し色が変わってきたこと。赤茶から金がかった小麦色に移行しつつあること。裏庭の雑草が伸びすぎて犬が見えなくなること。


「刈ったほうがいいですかね、雑草」

「いい。あの子は雑草の中を走るのが好きだから」

「確かに。茂みに突っ込んでいくときの勢いは、すごいですよね」

「勢いだけは猟犬に負けない」

「猟犬や軍用犬、牧羊犬でもないし、今のところ『何もしない犬』なのに不思議ですね」


 あたしが何気なくそうこぼすと、お嬢様はそっと犬を見つめたまま、静かに首を振った。


「……何もしないわけじゃない」


 少し驚いて、あたしは隣を見た。

 お嬢様の声に、初めて感情の色がはっきり乗っていた。

 あの小さな存在を心から大切に思う、静かで真っ直ぐな熱だった。


「あの子は何かしなくていい。そこにいるだけでいい。そこにいるだけでわたしは、たぶん変わった。あなたの言い方を借りれば『すごい』ことになった。それはあの子がいたからだ。ただ、一緒にいてくれただけで」


 あたしは黙って頷いた。

 お嬢様がこんなに長く、はっきりと自分の内面を話すのを聞いたのは初めてだった。


「……それでもお嬢様が変わられたのは、お嬢様自身が動いたからだと思いますよ」

「犬がいなければ動かなかった」

「動いたのはお嬢様です。厨房に行ったのも、厩務長に聞きに行ったのも、領都まで歩いたのも。犬はきっかけで、歩いたのはお嬢様の足です」


 お嬢様はあたしを見た。

 灰色の目が、午後の光を受けて少し明るく見えた。


「犬だけではない、あなたもいた。三年間何も言わずに、柱に寄りかかって欠伸をしていた」


 あたしは耳が熱くなった。


「……欠伸は、まあ、すみません」

「謝るな。あの欠伸がなければ、わたしはもっと緊張していた。あなたが隣にいて、何も求めずにいてくれたから、わたしも何も返さなくてよかった。それが楽だった」


 お嬢様は視線を仔犬に落とした。

 仔犬はあたしの靴紐にじゃれるのを諦めて、二人の間に丸くなっていた。


「この犬も同じだ。何もしない。何も求めない。ただいてくれる。あなたとこの犬は、似ている」


 あたしは一瞬ぽかんとして、それから——。


「あたしが犬に似てるって言われてます?」

「良い意味で」

「良い意味で犬に似てるメイド……まあ、別にいいんですけど」


 あたしは笑った。お嬢様は笑わなかったけど、顔がほんの少しだけ柔らかくなった。


 仔犬があたしとお嬢様の間で寝返りを打って、腹を見せた。

 二人同時に手を伸ばして、あたしの右手とお嬢様の左手が仔犬の腹の上でぶつかりそうになった。

 あたしが手を引いて、お嬢様が仔犬の腹を撫でた。仔犬の後ろ脚がぴくぴくと動いた。


 あたしは引いた手を膝の上に置いて、ぼんやり空を見上げた。

 ——飼い主が犬に似ていく、か。


 薬草師の言葉を思い出した。なるほどね。あたしが三年間お嬢様の側にいて、お嬢様に似ていったのか。

 それとも、お嬢様がこの犬の側にいて、犬に似ていくのか。


 どっちでもいいか。

 似ていくということは、近づいていくということだ。


 ****


 お嬢様が旦那様の書斎を訪ねた。

 あたしはついていかなかった。お嬢様が「一人で行く」と言ったから。

 でも、書斎の前の廊下で待っていた。扉越しに、二人の声が聞こえた。


「父上」

「レーナ。珍しいな」

「犬を見に来てほしい。温室にいる。一度も見せていなかった」

「……ああ。行こう」


 短い会話だった。でも、旦那様の声は、柔らかかった。

 書斎の扉が開き、お嬢様と旦那様が並んで出てきた。あたしは廊下の柱に寄りかかっていた。

 お嬢様と旦那様はあたしを見て、二人とも何も言わなかった。あたしも何も言わずに、二人の後ろをついて歩いた。


 温室に入ると、仔犬は日向で丸くなっていた。

 旦那様が入ってくると、耳を立てて、すっと立ち上がった。

 しゃがんで手を差し出した旦那様。仔犬は匂いを嗅いで、鼻先を一度手のひらに押しつけて、離れた。


「気位が高いな」

「猟犬とは違う」

「ああ。猟犬はもっと尾を振る。こいつは自分で判断してから近づいている」

「父上は犬を見るのが上手い」

「人を見るのは下手だがな」


 あたしは温室の入口に立って、二人を見ていた。親子が並んで犬を見ている。

 ガラス屋根を通して午前の光が落ちていて、二人の灰色の目が同じ色に光っていた。


「……お前の母は、名前をつけるのがうまかった」


 お嬢様の背中がかすかに強張った。


「イルマは名前をつけるとき、一番最初に気づいたことを使っていた。レーナの名前もそうだ。生まれたとき、お前は目を開けてすぐ窓のほうを見た。イルマが『この子は光を見ている』と言ってレーナと名づけた」

「知っている。母の日記に書いてあった」


 旦那様は少し驚いた顔をした。


「日記を読んでいたのか」

「ずっと前から読んでいた」

「……そうか。わたしは怖くて読めなかった」

「わたしも怖かった。でも読んだ」


 仔犬は二人の間で座って、まっすぐ前を向いていた。


「私よりレーナの方が勇敢だ」

「……犬がいたから。この犬がいなければ、わたしはまだ温室にいた」


 旦那様は立ち上がった。

 仔犬の頭をぎこちなく一度だけ撫でた。


「良い犬だ」


 お嬢様は頷いた。

 あたしは温室の入口で、柱に肩をもたれて、同じように頷いた。


 旦那様が温室を出るとき、あたしの横で足を止めた。

 こちらを見て、ほんの少しだけ口の端を上げた。


「……今日は何故か日が眩しいな」

「はい。めちゃくちゃ眩しいです」


 旦那様はそれ以上は何も言わずに歩いていった。

 背中が、少しだけ軽く見えた。


 ****


 仔犬はもう仔犬と呼ぶのが苦しいくらいに育っていた。

 体高は膝の半ばに達し、毛は密で艶があり、巻き尾は堂々として、立ち耳がまっすぐ空を指している。

 丸かった頬が引き締まり、口元に凛とした線が出てきた。


 でも性質は変わらない。あまり吠えない。唸らない。

 お嬢様のそばにいて、お嬢様が動けば着いていって、お嬢様が止まれば止まる。

 べたべたとしない。


 あたしに対しても態度は一貫していた。あたしが裏庭で石を投げれば全力で取りに行くけど、あたしの膝には乗ってこない。お嬢様の膝にしか乗らない。

 その一線は犬のほうがきっちり守っていて、少しだけ寂しいけど、まあ、正しい。

 この犬はお嬢様の犬だ。


 体が大きくなった分、裏庭で走ると巻き尾がほどける瞬間が鮮明になった。

 螺旋がふわりと開いて、風を含んで、また巻かれる。

 お嬢様はそれを石垣に座って見ていた。


「お嬢様。そろそろ名前、決まりました?」


 お嬢様は答えず犬を見ていた。

 犬が石垣の周りを大きく回って走っていた。前脚がしっかり地面を蹴って、跳ねるように走る。

 巻き尾がほどけた。ふわりと螺旋が開いて、一瞬、尾がまっすぐ後ろに伸びた。

 夕陽を受けて金色に光った。また巻かれた。


 犬が急に止まり、振り返った。

 走ってお嬢様の足元に座って、口を開けて舌を出して、息を整えている。


「——ホドケ」


 あたしは目を丸くした。


「ホドケ」


 お嬢様はもう一度言った。犬が耳をぴくりと立てた。


「お前の名前は、ホドケ」


 犬の尾がゆっくり揺れた。

 お嬢様はしゃがんで、犬の顔を両手で挟んで、そっと額をつけた。

 夕陽の中で、美しい情景だ。感動的ですらある。……だけど、あたしはたまらず口を挟んだ。


「……いや、そのまんますぎません?」


 お嬢様が顔を上げて、真顔であたしを見た。


「薬草師が言っていた。最初に口から出た言葉を使えばいいと」

「言いましたけど。せめてこう、もうちょい可愛くもじるとか、なんかあるじゃないですか?」

「ない。ホドケがいい」

「いや、動詞だし……」


 あたしがツッコむと、犬は「わふっ」と短く鳴いて、お嬢様の頬をぺろりと舐めた。それから、ちぎれんばかりに尾を振った。

 ほどける、巻く、ほどける。


「……はぁ。まあ、本人が喜んでるならいいですけど」


 悩んだ末がそれかよ、と内心呆れつつ、あたしは短く息を吐いて笑った。

 変な名前だけど、お嬢様は自分の口から出た言葉でちゃんと名前をつけたのだ。

 巻き尾がほどけるのを見て、最初に口から出た言葉。本当に薬草師が言っていたとおりだ。


 ****


 近々、カルスタイン公爵家が主催する「園遊会ガーデンパーティ」がある。

 領地の祭の日に合わせて、領都の中心にある迎賓用の公館の庭園に領内の貴族や名士を招き、親睦を深める恒例の政務行事だ。


 領主の娘であるお嬢様は、本来ならホスト側として出席すべきだが、社交を避けてきたためここ最近は欠席していた。

 そのお嬢様が「今年は出てみてもいいかと思っている」と言ったとき、あたしは内心ではかなり驚いていた。


「ホドケも連れていく」

「紐つけなきゃですね。厩務長に引き綱作ってもらいましょう」

「頼む」


 厩務長は「変な犬の引き綱なんて作ったことないが」と言いつつ、丁寧な革の引き綱を仕上げてくれた。


 そして当日。

 お嬢様は堅苦しい夜会のドレスではなく、上質な生地だが動きやすい外出着を選んだ。

 濃紺のワンピースに革の短靴。髪は後ろでひとつに結んだ。


「お嬢様、本邸から公館まで馬車を使いますか?」

「天気がいい。歩く」

「了解です。あたしは公館へ行く途中の屋台の串焼きが楽しみでしょうがないです」

「……食べ物の話しかしないな、あなたは」

「腹が減ってはなんとやらですよ」


 本邸の門を出て、領都の通りを歩く。祭で賑わう通りには屋台が並び、旗が張られ、笛の音が聞こえた。

 ホドケは耳を立てたけど、吠えなかった。


 薬草師の店の前を通りかかったとき、お嬢様は足を止めて「ホドケと名付けた」とだけ報告した。

 彼女は笑って「いい名前だ」と言ってくれた。


 屋台通りを抜け、園遊会の会場である公館の庭園に到着する。

 手入れの行き届いた芝生には特設の天幕が張られ、招かれた他家の令嬢たちが談笑していた。


 彼女たちがお嬢様の姿に気づき、ハッとして足を止めた。

 途端に、向こうの空気がピリッと張り詰めるのが分かった。


「……カルスタイン家のレーナ様よ。今年はいらしたのね」

「相変わらず人を寄せ付けない冷たい目をしてらっしゃるわ……ご機嫌を損ねないようにしなきゃ」


 ヒソヒソと囁き合う声が聞こえる。

 お嬢様は社交界で「氷の令嬢」「愛想がなく気難しい」という悪名が立っている。

 招かれた側の彼女たちからすれば、領主の娘であるお嬢様は絶対に怒らせてはいけない「腫れ物」なのだ。


 しかし、傍にいるあたしからすれば、お嬢様はただの人見知りで緊張して、顔がこわばっているだけだ。

 現にお嬢様は、リードを握る手にぎゅっと力を入れて、見事なまでに仏頂面になっている。

 あーあ、こりゃまたメンドーな空気に——。


 と、あたしがため息をつこうとした瞬間だった。


「わふっ」


 ホドケがお嬢様の横から、トコトコと歩き出したのだ。

 まっすぐ向かったのは、一番手前にいた令嬢。彼女のドレスの裾についていたヒラヒラの飾りが風で揺れたのが、ホドケの興味を引いたらしい。

 ホドケは令嬢の足元に座り込み、前脚で「ちょいちょい」と飾りにじゃれついた。


「ひっ……!な、何この犬!?」


 悲鳴を上げる令嬢。

 お嬢様が「あっ」と声を上げ、慌てて駆け寄ってしゃがみ込んだ。


「ホドケ、いけない」


 お嬢様はホドケを抱き上げた。

 するとホドケは、お嬢様の腕の中で嬉しそうに尾をちぎれんばかりに振り、お嬢様の鼻先をぺろりと舐めた。


「……こら。ダメって言ったでしょう」


 それは、社交界の令嬢たちがかつて一度も聞いたことがない声だった。

 怒るどころか、砂糖よりも甘い声。

 お嬢様はホドケの頭に自分の額をすり寄せ、ふにゃりと、それはもうだらしなく頬を緩めたのだ。


『……え?』


 令嬢たちが全員、目を丸くして固まった。

 あの氷の令嬢が、犬に鼻を舐められてデレデレに笑っている。

 さらにホドケが、抱かれたまま令嬢たちのほうを振り返り、巻き尾をふわりとほどいて「くぅん」と小首を傾げた。


『(か、かわいい……!)』


 令嬢たちの心の声が、ハモって聞こえた気がした。


「……コホン」


 お嬢様はハッとして咳払いをし、いつもの仏頂面に戻った。しかし、手遅れである。

 氷の悪名は、たった一匹の犬によって完全にほどかれていた。


「……ようこそいらっしゃいました。楽しんでいってください」

「あ、ありがとうございます……!あの、レーナ様、その犬……お触りしても……?」

「……少しだけなら。慣れていないので優しく」


 令嬢たちがおそるおそる手を伸ばし、ホドケの耳の後ろを撫でる。

 ホドケはおとなしく撫でられていた。


 あたしは少し離れた庭園の端っこで、道中で買った三本目の串焼きをかじりながら、その光景を眺めていた。

 チョロいな、社交界。

 まあ、うちのお嬢様とホドケが最強なんで、ひれ伏すのは当然なんですけど。


 ****


 夕方になった帰り道。

 公館を出て、空が高いところから赤くなり始めていた白樺の並木を歩き、本邸へと向かった。


「あなた。来月も屋敷にいるか」

「当たり前じゃないですか。クビにでもするおつもりです?」

「しない。ただ、聞きたかった」

「いますよ。どこにも行きません。だってメンドーだし」


 お嬢様は前を向いたまま、かすかに息を抜いた。

 鼻から短く。お嬢様の笑い方。


「あなたがいなくなったら困る。誰が芋をもらってきてくれるのか分からなくなる」

「あたしの価値、芋係なんですか」

「芋係は一例で、それ以外にもある」

「たとえば?」


 お嬢様は少し間を置いた。


「石垣に座って何も言わずにホドケを見ている人がいること。それが思っていたより大事だった」


 お嬢様の言葉は少ない。でもたまに、こうやって真ん中に落ちてくる言葉を言う。

 あたしが三年間かけても引き出せなかった言葉が、ホドケが来てからぽろぽろとこぼれ落ちてくる。

 ホドケがすごいのか、お嬢様がすごいのか。たぶん両方だ。


「……あたしも、ここにいられてよかったです。メンドーなことばっかりですけど、嫌じゃなかったですよ。一度もね」

「一度もか」

「一度もです」


 屋敷の門が見えてきた。門の前に人影があった。

 旦那様だった。いつの間にあたしたちよりも早く戻っていたのだろうか。


 お嬢様の足が少し速くなった。ホドケも速くなった。

 引き綱が張って、ホドケは小走りになった。

 巻き尾がほどけた。ふわりと開いて、夕陽に金色に光って、また巻かれた。


「ただいま」


 旦那様はお嬢様を見た。

 少し日に焼けた顔の灰色の目の奥に、光がみえる。


「おかえり」


 お嬢様は門をくぐった。ホドケが横を歩いた。

 旦那様があたしを見た。


「ご苦労だった」

「仕事ですから。……旦那様、わざわざ先回りして門のところで待ってたんですか?」

「……たまたまだ」

「たまたまですか。じゃあ、そういうことで」


 旦那様は何も言わなかった。

 でも、口の端がほんの少しだけ上がっていた。本当にこの親子はよく似ている。


 温室に戻ると、夕陽がガラス屋根を通して落ちていた。

 空が紫で、最初の星がひとつ見えた。

 お嬢様は椅子に座り、ホドケは座布団に丸くなった。尾が鼻先に触れている。


「お嬢様。あたし、使用人棟に戻りますね。おやすみー」

「おやすみ」


 渡り廊下を歩き始めると、夜風が頬に当たった。

 廊下の真ん中で、あたしは足を止めて、振り返った。


 温室のガラス越しに、お嬢様が見えた。椅子に座って、目を閉じている。

 その足元でホドケが丸くなっている。


 お嬢様の温室はずっと静かだった。でも今は、ホドケの寝息がある。

 明日の朝の厨房のやり取りがある。厩務長の白い髭がある。薬草師の苦い茶がある。旦那様の「おかえり」がある。


 そして、あたしがいる。

 メンドーだとか、暇だとか言っていたあたしが三年間ここにいる。


 薬草師の言葉を思い出す。飼い主が犬に似ていく。

 あたしはお嬢様に似ていったのかもしれない。静かに、辛抱強く、ただそこにいることを覚えた。

 お嬢様はホドケに似ていくのかもしれない。正直で、静かで、でも信頼した相手にはちゃんと尾を振る。


 まあ、どっちでもいいか。


 あたしは温室に背を向けて、渡り廊下を歩いた。使用人棟の自室に戻って、寝台に倒れ込んだ。

 明日もまた、鐘が鳴ったら起きて、渡り廊下を歩いて、温室に行く。

 お嬢様は椅子に座っていて、ホドケが尾を振って、あたしは柱に寄りかかって欠伸をする。


 メンドーな朝だ。でも、嫌じゃない。

 一度もね。

子犬と触れ合う機会がありました。

なにあれ。可愛いんだけど。たまらん。

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物言わぬ動物が間に入ることで上手くいくこともある、ということで。柴っぽい外見を想像したけれど、性格は柴っぽくないね
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