樹氷の魔女クレメンティアの回想
リントヴルムシリーズの外伝的エピソードです。完結済の連載「リントヴルムの揺籠」の本編第三十六話に登場する「樹氷の魔女」のサイドストーリーとして書きました。外伝の方に投稿しようかと思ったのですが、完結してしまったので、短編としてアップします。お楽しみいただければ嬉しいです。
帝都から遠く離れた、一年中雪が降り積もる「常冬の森」。針葉樹が白銀の衣を纏い、まるで時間が凍りついたかのような静寂の中に、その館はあった。人々に『樹氷の魔女』と尊敬されつつも恐れられている隠者クレメンティアは、窓の外を眺めながら、ふと半世紀以上前の記憶を辿っていた。
♢♢♢
魔法学院の制服を纏った13歳のクレメンティアは、豊かな亜麻色の髪をなびかせ、真剣な面持ちで魔法陣を描いていた。その強力な魔力のために幼児期に下級貴族の家へ引き取られた彼女は、美しく成長したが、その眼差しは誰よりも鋭い。
一年前、不心得者の義兄に襲われ、手篭めにされそうになった事件を機に、養家の邸宅を飛び出して学院の寮に身を寄せて以来、彼女は一度も家に戻っていない。今や魔法だけが、彼女の唯一の「拠り所」であった。
「君の魔力操作は、相変わらず隙がないね。見ていて惚れ惚れするよ」
放課後の課外授業。声をかけてきた黒髪の青年は、帝都大学に通う年上の貴公子、エルヴィンだった。彼は帝国の皇子でありながら、エルフの血を引くと噂される知的好奇心のせいか、この年下の少女が通う魔法学院の教室にしばしば顔を出していた。
「……殿下。ここは大学の講義室ではありませんし、遊ぶなら他所へ行ってください」
「手厳しいな。でも、君から学べることは多いんだ。本当だよ」
エルヴィンはサファイアブルーの瞳を細めて笑う。魔法と孤独を鎧にしていたクレメンティアには、その屈託のない明るさが眩しく見えた。
その年の初秋のことだった。エルヴィン殿下を含む大学生たちと合同で行った、岩山で希少な魔石を採集する課外授業の途中で、事態は急変した。季節外れの雷雨が視界を奪い、生徒たちは迷い込んだ先で「竜の巣」に遭遇したのだ。岩陰から現れた巨大な影に、生徒たちは悲鳴を上げ、腰を抜かした。エルヴィンが一人、鋭い抜き身の剣を構えて立ちはだかる。
「皆、下がるんだ! 私が時間を稼ぐ!」
だが、クレメンティアの目は別のものを見ていた。巣の奥。鈍い銀色の鱗と緑がかったヘーゼルの瞳を持つ母竜が、暴風で飛んできた岩に打たれ、血を流しながらも、生まれたばかりの子竜を翼の下に守っていた。母竜の鳴き声は威嚇ではなく、切実な救いを求める「悲鳴」であった。
「殿下、待って! その竜に戦う意志はありません!」
クレメンティアは叫び、剣を構えるエルヴィンの横をすり抜けた。カバンから自作の薬を取り出し、怯える子竜に歩み寄る。その瞬間、彼女の脳内に古の言葉が直接流れ込んできた。
『……人の子よ。生まれたばかりの我が子は、凍えて、魔力が尽きようとしている。助けて、くれるか……』
「竜の言葉……? ええ、もちろん助けます。何をすればいいの?!」
母竜は舌先で自身の鱗を無理やり数枚剥ぎ取り、クレメンティアの掌に落とした。血の滲む銀の鱗と、彼女を覗き込む宝石のようなヘーゼルの瞳。そして、竜の魔力を爆発的に高める秘薬、『竜香』の作り方が、映像のように彼女の意識に流れ込む。
「殿下! みんな! 手伝ってください! 私の魔力では足りない。光の魔法を、これから攪拌する魔石の粉末に注ぎ込んで!」 「わかった。君の指示に従おう!」
エルヴィンのサファイアの瞳が青い光を放つ。クレメンティアが母竜の鱗をすり潰し、魔石の粉末といくつかの薬草を混ぜたものと一緒にして、必死に練り上げる。そこへエルヴィンと、光魔法を得意とする生徒たち数人の魔力が注ぎ込まれた。ようやく完成した白金色の薬を、子竜の口にこぼさぬよう慎重に流し込む。母竜が心配そうに見つめている。
数分の静寂の後、弱っていた子竜が「キュイ」と首をもたげ、母竜の鼻先に顔を寄せた。母竜はクレメンティアを見つめ、静かに首を垂れた。
「凄いな、クレメンティア。君は今日、竜を救ったんだ」
雷雨が去り、雲間から差し込む光の下で、エルヴィンは誇らしげに彼女の肩を叩いた。クレメンティアは学院に来て以来初めて、皆の前で小さな笑みをこぼした。
♢♢♢
十数年後。クレメンティアは帝都教会の登録魔法士として、辺境の村々を回っていた。傷病人の治療、魔道具の作成、土壌改良……彼女は全てを難なくこなす優秀な魔法士となっていた。ある冬の夜、彼女はまだ歴史が浅く貧しい新興の獣人の村で、何日も高熱に苦しんでいた2歳の少女を自家製の薬で救った。その父親は、名をルチウスといった。
「……これを、お礼に。魔女様には、貴重な材料になると聞きました」
差し出されたのは、以前自ら折ったという「竜人の角」だった。治療費として渡せるものが他に何もないのだろう。クレメンティアは彼の正体に気づきつつ、静かにそれを押し戻した。
「それは、あなたの一族が継承すべき誇りでしょう。受け取れないわ。でもその代わりに……私に、竜人の国の話を聞かせてくれないかしら。私は竜の研究をしているの」
夕食後の焚き火の前で、ルチウスは語った。樹氷のように輝くシルバーの髪を揺らし、緑がかったヘーゼルの瞳を輝かせて。竜人族の歴史や習慣、船でこの大陸へ渡ってきた経緯。二人の歓談は幾晩も続いた。彼には美しい黒髪の狼獣人の妻がいた。そっと二人に茶を供する彼女の髪色は、クレメンティアにかつての親友――帝国皇子のエルヴィンを思い出させた。
家族のために己のルーツを偽り、竜人族の誇りである角を折ってまで愛する者たちを守る男。クレメンティアは、ルチウスの不器用で情熱的な生き方に深い敬意を抱くと同時に、彼のような夫を持つ妻を、少しだけ羨ましく思った。
辺境での任務を終えて帝都に戻ったクレメンティアが感傷に浸る間もなく、エルヴィン殿下から内々に呼び出しがかかった。
「息子リヒャルトの魔法の家庭教師をしてくれないか。我が母の血によってクォーターエルフなんだが、私もこの子もエルフの血を引くことはあまり公にしていないから……君に頼みたいんだ」
再会したエルヴィンは相変わらずの瞳で微笑んでいたが、今や「皇太子」となったその肩には、いずれ帝国を統べる者としての責任が乗っていた。
エルヴィンとよく似た面差しの教え子、リヒャルト皇子は、魔力は少なかったものの、驚くほど賢い子だった。クレメンティアは彼の適正をよく理解し、攻撃や防御の魔法よりも、大地の気脈や水脈、風の流れを読む術を教えた。
「リヒャルト殿下、よく聞いてくださいね。魔法とは力ではなく、この世界との対話なのです」
数年後、リヒャルトの成長を見届けたクレメンティアは、やはり研究と放浪の日々が自分には合っていると言って、宮廷を去る決意をした。エルヴィンは彼女を惜しんで言った。
「君の才能は計り知れない。しかるべき家との縁談を用意しようか。君なら宰相夫人としてもやっていける」 クレメンティアは少女の頃と同じ、鋭い眼差しで笑った。
「お断りしますわ。殿方の世話になることも、その世話をすることにも興味がないのです。できることなら、私は竜になりたい。孤独で、誇り高く、ただ世界を見守るだけの……」
エルヴィンは少し寂しげに、しかし納得したように頷いた。
「……君らしいな。いつか私が隠居したら、君の隠れ家へ招待してくれるかい?」
「考えおきますわ。気が向いたら、ですが」
♢♢♢
今、クレメンティアは『樹氷の魔女』と呼ばれている。彼女の画期的な発見やこれまでの研究成果は、今や世界中の人々に活用されている。あの時救った子竜は立派な成竜となり、彼女の住む森よりさらに高い頂で世界の魔力の源泉である「竜脈」を守っている。時折、頭の中に「元気か、クレミー」と語りかけてくる友の声が、彼女の孤独を心地よいものに変えていた。
手元には、既に故人となったルチウスの娘、ルチアからの手紙がある。ルチウスの後を継いで獣人村の族長となったルチアには、折に触れて助言をするようにしている。そしてもう一通。こちらは、引退した前皇帝エルヴィンから、端正な文字で「そろそろ、そちらの雪景色が恋しくなった」と綴られている。
クレメンティアは窓を開けた。冷気が頬を叩く。彼女はもう亜麻色の髪の乙女ではない。髪は樹氷のように白く輝き、目元には深い皺が刻まれている。だが、その背筋は一度も曲がったことはない。
「……仕方のない人ね。お茶の準備でもしておきましょうか」
彼女は杖を取り、魔法で火を暖炉に灯した。誰にも媚びず、何者にも縛られず。ただ自分自身の意志で、竜の住処へと続く雪の森を守り続ける魔女。その樹氷のような輝きを持つ「誇り」は、積もる雪の下で今も静かに燃え続けている。
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本編:https://ncode.syosetu.com/n4031lt/
外伝:https://ncode.syosetu.com/n4253lx/




