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「……あれ?」
痛みがない。確かに鈍い音だったはず。
顔を上げると、私が衝突した壁が、まるでスライムか豆腐のように「ふにゃふにゃ」になっており、私の体を優しく受け止めていた。
私が離れると、壁は波打つような動きを見せた後、何事もなかったかのように元の硬い石壁に戻った。
「……もう分からない」
私は壁に手をついたまま、魂が口から抜け出しかけていた。
「お嬢様、ご無事ですか!? ……その……お怪我がないようでよかったです」
「よくないわよ……心臓に悪すぎるわ……」
フラフラになりながら、なんとか食堂にたどり着いた。
父である公爵と母が、すでに席についていた。
「おはよう、リゼッテ。……なんだか、今日は妙に『賑やかな』雰囲気だな」
父が私の頭上を見て、引きつった笑みを浮かべる。
鏡を見ていないが、きっと【種別:悪役令嬢】の下に、【現在の状態:バグ暴走中】とか出ているに違いない。
「魔法で遊んでいるのかしら」
「君の若い頃にそっくりだな」
「まあ♪ あなたったら♡」
「……その……おはようございます、お父様、お母様」
私は無表情を装い、席に着いた。
朝食が運ばれてくる。最高級の……何かだ。
私はスプーンを持つ手に全神経を集中させた。
落ち着け……餅つくのよ。感情を動かすな私。これはただの食事。私は無だ。私は虚無なのだ……。
心の中で呪文のように唱え、感情を完全にフラットにする。
スプーンを何かに差し入れる。……貫通しない。市松模様にもならない。
口に運ぶ。……味がする! 砂の味じゃない!
「……っ!」
あまりの美味しさと、普通に食事ができていることへの感動で、つい涙がこぼれそうになった。
――ガガッ。
危ない! 感情が動いた瞬間に、高級な何かが紫色に変色しかけた。
私は慌てて真顔に戻り、感情を殺す。食材は元の黄色に戻った。
そうか……。この世界で『普通』に過ごすためには、一切の感情を捨て、平常心を保ち続けなければならないんだわ……!
それは、悪役令嬢として生きるよりも遥かに過酷な修業のように思えた。
けれど、その執念が功を奏したのか、私はそれ以上のバグを起こすことなく、無事に朝食を完食することに成功したのだ。
よくやったわ、私……!
心の中でガッツポーズを決めつつ、私は感情を出さないように注意しながら、学園へ向かうため、屋敷の玄関を出た。
公爵家の紋章が入った立派な馬車が待機している。
私は「何事も起きない」と信じるのではなく、「何が起きても動じない」という、悟りを開いた僧侶のような心境で馬車に乗り込んだ。
――……。
馬車は静かに動き出した。
……バグらない。座席に体が埋まることも、馬車の車輪が四角くなることもない。
どうやら、平常心を保つ作戦は成功しているようだ。
ふぅ……。これなら、学園に着くまでに少し心を休められそうね。
私は安堵し、馬車の窓から外の景色を眺めた。
王都の街並みは美しく、多くの人々が行き交っている。
「……?」
何かがおかしい。
街の人々が、皆一様に、こちらの馬車を見て、顔を引きつらせているのだ。
それだけじゃない。彼らは私の顔を見るなり、怯えたように道を空け、あるいは指をさしてヒソヒソと囁き合っている。
いくら悪役令嬢だからって、ここまで、国中から嫌われているの……?
いくらなんでも、登校前の令嬢に対して、街中の人間がここまで拒否反応を示すのはおかしい。
私は不思議に思い、御者に声をかけようとして――窓に映った自分の姿を見て、凍りついた。
窓ガラスに映る、私の頭上。
そこには、これまで点滅していた【種別:悪役令嬢】の文字が、さらに巨大化し、赤黒く禍々しいフォントに変化して浮かんでいた。
そして、その下には、電光掲示板のように流れる文字で、こう記されていた。
【悪役令嬢・学園へ登校中】
【災害(歩くシステムエラー)】
……これ、街の人全員に見えてるわね。
私は、自分自身がバグるだけでなく、周囲に「存在自体が災害」であることを知らせる、生きた警告ビーコンと化していたのだ。
……学園、行きたくない。
私の(感情を殺したはずの)呟きと共に、馬車の天井がゆっくりと、静かに剥がれ始めた。




