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重い、真綿で首を絞められるような眠りから意識が浮上した。
最初に感じたのは、嗅ぎ慣れない濃密な薔薇の残り香。
次に、肌にまとわりつくような滑らかな絹の感触。
……ここは、どこ?
ゆっくりと目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、見上げるほど高い天井と、そこに描かれた緻密な女神のフレスコ画だった。鈍い金色の輝きを放つシャンデリアが、窓から差し込む朝陽を受けて煌々と輝いている。当然、いつもの天井じゃない。
身体を起こそうとすると、沈み込むような柔らかな寝具が動きを拒む。
横たわっていたのは、精巧な彫刻が施された巨大な天蓋付きベッドだ。壁際を見渡せば、象牙や黒檀で彩られた見たこともないほど豪華な調度品が整然と並んでいる。
少なくとも、自分の知る、どの場所でもない。
混乱する頭を抱え、ふらつく足取りで床に降りた。足裏を包み込む絨毯の毛足は驚くほど深く、一歩踏み出すたびに現実感が遠のいていく。
やがて、部屋の隅に置かれた大鏡の前にたどり着き、私は息を呑んだ。そして……悟る。
どうやら、転生したみたい……。
鏡の中に映っているのは、夜の闇を溶かし込んだような艶やかな黒髪と、冷徹なまでに整った美貌を持つ少女だった。
うん、知ってる。これはいわゆる「乙女ゲームの悪役令嬢」のお決まりの顔ね。
けれど決定的に、お決まりじゃないものが一つだけあった。
頭を抱えて、しばらくすると。
侍女のアンという女性が、私の身支度のために部屋を訪れた。
記憶が戻っただけで、ここの世界では普通に生活していたみたい。 この世界の記憶を普通に思い出せてくる。
「……ねえ、アン。これ、見える?」
「はい、お嬢様。……ええと、非常に申し上げにくいのですが、先ほどからお嬢様の頭頂部から三センチほど浮いた場所に、『【種別:悪役令嬢】(点滅中)』という、どぎついピンク色の文字が浮かんでおります」
侍女のアンが、引きつった笑顔で教えてくれた。
やっぱり見えるんだ。幻覚じゃないんだ。
「……これ、取れないかしら?」
「試してみますが……えいっ」
アンがその文字を掴もうと手を伸ばしたが、彼女の手は虚空をすり抜けた。
アンの顔から血の気が引いていく。指先が震え、彼女は祈るように胸の前で手を組んだ。
「お嬢様……これ、失礼ながら……何かの呪詛ではありませんか? 聖職者を呼ぶべきでは……」
「いいのよ、呼んでも無駄だと思うわ」
私は吐き捨て、苛立ちを鎮めようとサイドテーブルのティーカップに手を伸ばした。
その瞬間、――ガガガガガッ!! と、鼓膜をかき乱す不快な雑音が響く。
高級な白磁が、突如として毒々しいピンクと黒の格子模様に変色した。それだけではない。カップは凄まじい速度で振動し、あろうことか大理石のテーブルを泥のように「貫通」して、めり込んだまま固定されてしまった。
「ひっ……!? お、お嬢様、お離れください! テーブルが、テーブルがカップを喰らいました!」
アンが悲鳴を上げ、私の体を突き飛ばすようにして引き離す。
パッと手が離れた瞬間、カップは何事もなかったかのように元の白磁に戻り、テーブルの上でコロンと転がった。貫通していたはずの場所には、傷一つ残っていない。
「……アン、見たわね。今の」
「は、はい……。空間が歪みました。お嬢様、やはり強力な呪いが……」
アンの目は本気で怯えている。それが正常な反応だ。
私は、ただの悪役令嬢として転生したのではない。世界そのものを蝕む「歩く欠陥」として、この第二の人生を始めてしまったのだ。
「お嬢様、とりあえず落ち着いて……お着替えをしましょう。学園への登校準備をせねばなりません」
「そうね。……って、アン。その顔、やめてくれない?」
アンは必死に無表情を装っているが、視線がどうしても私の頭上のポップアップに吸い寄せられている。
【種別:悪役令嬢】(点滅中)
しかも、よく見るとそのポップアップの隅に、小さな『×』印がついている。
私は淡い期待を込めて、自分の頭の上にあるそのボタンを指でタップしてみた。
――ピコンッ!
軽快な音が響き、文字が消えた!
「やったわ! 消え――」
喜んだのも束の間。消えたはずの場所から、さらに巨大なポップアップが飛び出してきた。
【警告:致命的なエラー。このオブジェクトは削除できません】
【理由:ストーリーの進行に不可欠な属性です】
「……余計にひどくなったわね」
「お嬢様、なんだか頭の上が賑やかになっておられますよ」
アンのツッコミが痛い。
私は泣きたい気持ちを堪えながら、着替えのためにクローゼットへ向かった。
だが、この「バグ」の本当の恐ろしさは、ここからだった。
私がクローゼットの取っ手に触れた瞬間、今度は部屋中の家具が『浮いた』
「ひっ!? 椅子が! ベッドが天井にめり込んでる!?」
「落ち着いてアン! 私が手を離せば戻るはず……っ!」
慌てて手を離すと、家具たちはドガシャーン! と凄まじい音を立てて元の位置(の数センチ隣)に落下した。
どうやら私は、触れた物の「重力設定」や「座標」をめちゃくちゃにする能力……というか、不具合を持っているらしい。
「これじゃ、まともにドレスも着られないじゃない……」
私は震える手で、とりあえず「何にも触れない」ように細心の注意を払いながら、立ち尽くした。
鏡の中の【悪役令嬢】は、相変わらず無慈悲に点滅を繰り返している。




