>>3 Impatience
菜々は目を覚ますと、いつものように布団から顔を出して声をかけた。
「おはよ、おばーちゃ──」
言葉の途中で、彼女の表情が曇る。
返事はない。部屋の中は静かで、窓から差し込む朝の光だけが白いカーテンを揺らしていた。
「あ、そっか……」
昨日の出来事が蘇る。
夕食の最中、おばあちゃんが箸を持ったままぐらりと倒れた。菜々は泣きそうになりながら救急車を呼び、病院に運ばれたおばあちゃんの手を必死で握っていた。
医者の「大丈夫。命に別状はありませんよ」という言葉に胸を撫で下ろしたものの、当然不安は消えない。
「……大丈夫、大丈夫。学校終わったらお見舞い行こう」
自分に言い聞かせながら、菜々は冷蔵庫を開ける。
中身は少し寂しい。卵を焼いて、ご飯を盛り、味噌汁を温める。
一人で食卓に座り、両手を合わせた。
「いただきます」
声が少し震える。
誰も返事をしない食卓に、胸の奥がじんと痛む。
――――――
学校に着くと菜々は咳払いをしてから、いつものように笑顔を作った。
(今日こそは! )
勇気を出して、隣の席の女子に声をかける。
「ねぇねぇ、昨日の宿題難しくなかった? 」
相手は一瞬、ちらっと視線を寄越したが、すぐにノートに視線を落とし、何も答えなかった。
菜々の笑顔が、少し揺らぐ。
「あたし、すっごく難しかったんだ〜! 今度良かったら一緒にお勉強会しない?? 」
聞こえなかったのかなと思ってもう一度話しかけてみる。しかし今度は菜々を見る事も無く、ひたすらノートに何かを書いていた。
それを見つめていると、後ろから背中に刺さるような声が聞こえてきた。
「あー、うざ。そういうとこだよね」
「ほんとほんと。いちいち距離近いし、喋り方もなんかわたし可愛いんですぅって感じがして気持ち悪いよね!! 」
きゃははと笑いを含んだ声に、クラスの空気が少しざわめく。
しかし菜々は振り返らなかった。聞こえていない振りをする。振り返ったら、泣いてしまいそうだったから。
(そんなつもりじゃないのに。ただ仲良くなりたいだけなのに……)
胸の奥に、冷たいものが広がる。
笑い声の中、机に座った菜々は必死でノートを開いた。ペンを握りしめて震える手を隠すように。
---
(今日も、友達出来なかったな)
学校が終わり、菜々は鞄の中に荷物をまとめる。
「おばーちゃん、あたしを見てきっと笑ってくれる。だから、元気そうな顔見せなきゃ」
自分に言い聞かせるように、彼女は声に出して呟いた。泣き出しそうになる自分を、言葉で押しとどめるように。
---
病室に入ると、白いシーツに包まれたおばあちゃんがベッドの上からにこやかに手を振った。
「菜々ちゃん、来てくれたんだね」
「うん! 心配だったから、会いに来ちゃった! 」
菜々は椅子を引いて、ベッドのそばに腰を下ろす。元気そうなおばあちゃんを見て心から安心するが、どこかぎこちない。
おばあちゃんはじっと菜々の顔を見つめる。
「……菜々ちゃん、元気ないね。学校で何かあったのかい?」
「え? う、ううんっ! 何もないよ。すっごく楽しいよ、毎日っ! 」
慌てて声を弾ませる。けれどその瞳の奥に沈んだ影を、おばあちゃんは見逃さない。
「そうかい……ならいいんだけどね。でも、おばあちゃん心配なんだよ。菜々ちゃん、友達はいるの? 」
その言葉に、菜々の心臓が跳ねた。
いつもなら「うん」と笑って誤魔化すところだ。でも今日は違った。咄嗟に口が動いてしまった。
「い、いるいるっ! ゆかりセンパイっていうんだけど……!」
言ってしまってから、ハッとする。
(あ……ゆかりセンパイは友達っていうより……まだそんな関係じゃ……!)
けれど言葉は止まらない。
「すっごく優しくてね、ゆかりセンパイ小説書いてるんだけどすっごく天才って感じでね!! もう鳥肌立っちゃって! 一緒に帰ったこともあるんだよ! あたし、センパイといると毎日すごく楽しいの! 」
思い出が溢れるように、菜々は身振り手振りを交えて楽しそうに語る。話している間だけは、心が本当に温かった。
おばあちゃんは安心したように笑った。
「そうかいそうかい……良かったよ。菜々ちゃんにそんな素敵な子が出来て。今度会ってみたいな。おばあちゃんが退院したら家に連れてきておくれ」
「えっ……!」
菜々の笑顔が一瞬で固まる。
(ど、どうしよう……! 本当に連れてこれるのかな……)
「ま、まあ……いつか、ね! 」
慌てて取り繕いながら、心の中ではぐるぐると不安が渦巻いていた。