>>2 The first step towards a dream
家に帰るとゆかりは真っ先に机へ向かい、小説を書いた。時間も忘れて自分の描きたいストーリーを思いのままにひたすら綴る。静けさの中、ゆかりはあの子の歌声を思い出すたびに、自分の心もまた少しずつ動き出すのをゆっくりと感じていた。
何時間経っただろうか。ふと、トイレに行きたくなり立ち上がって1階に有るリビングへ向かうと、両親と妹が驚いたような顔でこちらを見ていた。
「あらアンタ。珍しく早起きだねえ」
時計を見ると、針はいつの間にか6時半を示していた。普段ならぐっすり10時ぐらいまで寝ているゆかりにとっては、この時間は異例だった。まあ寝ていた訳では無く、小説を書いていたからだけれど。
確かにねなんて会話を交わしながらトイレを済まし部屋に戻る。そして、小説の続きを書こうとペンを握った。だがその瞬間、昨日のあの子の歌声が再生される。
「あの子……今日もあの場所にいるのかな」
――――――
その日の16時頃、ゆかりはペンとノートを抱えて公園へ向かった。昨日の出来事が、胸の奥で何度も繰り返しよみがえる。
(また、あの子に会えるかもしれない)
そんな期待を胸に抱きながら、ベンチに腰掛けた。
「まあ別に、たまには気分転換に外で書くのも良いかな〜って思っただけだから! 別にあの子に会えたらいいなとか、そういうのじゃないからっ」
けれど、時間が過ぎてもあの子の姿はない。
「……昨日だけだったのかな」
小さく呟き、ノートを開く。
孤独の重みを紛らわせるように、ペンを思いのままに走らせた。
その時。
「昨日のっ! 」
聞き覚えのある声にゆかりは思わず顔を上げる。
そこに立っていたのは、やはり会えるかもと密かに期待を寄せていた彼女だった。
「また会いましたねっ!えっと……」
その笑顔に、胸の奥が一気に熱を帯びる。
しかし、それと同時にゆかりは彼女の名前すら知らなかった事に驚愕した。
「そういえば……自己紹介まだでしたよねっ! あたし、蒼空高校2年の、如月菜々(なな)っていいます! 」
蒼空高校。この辺だとかなり有名だ。
以前誰かが、文化部が特に凄いって言っていたような気がする。
「そうなんですね。私は日向ゆかりです。清翆高校3年です」
「ってことはゆかりセンパイですね! 高校も近いし、会えて良かったですっ! 」
そう言って菜々はゆかりの両手を取り、ブンブンと振り回した。いきなり距離が近すぎないかと思う所はあったが、不思議と嫌な気持ちではない。名前を教え合うだけで、心に温かい物を感じる。
だが、菜々の視線がノートに落ちた瞬間、ゆかりの胸はざわめいた。
「それ、何書いてるんですか? 」
心臓が強く脈を打つ。
笑われるかもしれない。子どもの遊びだと蔑まれるかもしれない。そんな恐れが脳裏をよぎる。
「……小説、です」
声が震えた。
でも。
「小説!? ゆかりセンパイ小説書けるんですか!? すごーいっ!! 」
ゆかりの恐れとは対照的に菜々の瞳が一気に輝く。
「見せてくださいっ! 」
「ダメ」と言う前に、菜々はゆかりからノートを奪いとった。そして隅々までじっくり視線を動かしているのを見て、ゆかりの心拍数が徐々に早くなっていくのを感じた。
(怖い……絶対嫌われた。こんな下手くそな文章、見られたらもう……)
「凄い……っ!! 」
「え……」
「ゆかりセンパイ! 凄いですよ!! こんな素敵な物語を書けるなんて、尊敬します!! 」
菜々のゆかりに対する眩しい程の瞳の煌めきに、ゆかりは思わず俯く。
「そんな、大したものじゃないよ…」
けれど頬は熱く染まり、胸の奥では何かが激しく震えていた。
──そうだ。
私は幼稚園のころ、大好きなぬいぐるみを主人公にして、初めて物語を書いたんだ。そしたら、両親はこの子みたいに目を輝かせて凄く褒めてくれた。
「凄いね! 」「将来は小説家だな! 」って言ってくれた。その笑顔が、私は本当に嬉しかったんだ。
最初はそんな理由だった。小説を書くのが楽しくて夢中で時間も忘れてひたすら書いた。
でも年月が過ぎて、現実の声が彼女を押し潰した。
「そんな下手くそな文章じゃ小説家になんてなれる訳ない」「夢みたいなこと言ってないで勉強しなさい」
言われるたびに心は冷め、ペンを握る手も重くなっていった。気が付けば、小説を書くことはただの逃げ場になっていたんだ。
「私は……大事な事を忘れていたんだ」
菜々の真っ直ぐな「凄い」が、あの時の記憶をよみがえらせてくれた。心の奥底で消えかけていた火が、再び燃え上がる。胸の奥が熱い。
「私、小説を書く事が好きだったんだ……」
気がついたら涙がポロポロとこぼれ落ちていた。
そんな様子を見て菜々はアタフタと、急いでハンカチを取りだして差し出してくれた。
「ゆかりセンパイ、すみません! アタシが勝手に小説見ちゃったから……昔っから人の気持ちを考えれないってよく言われるんです。良かったら使ってください……」
「ううん、違うんです。こちらこそ突然泣いちゃってすみません……嬉しいの。ほんとに。ありがとう」
「良かったら話を聞かせてくれますか?」
普段なら、何でもないよとこの場を交わすかもしれない。でも、彼女には、話したいと思わせてくれる不思議な温かさがあったんだ。だからゆかりは今までの事を包み隠さず全て話した。
「うーん……。それは違うんじゃないですか? 」
「え? 」
「その先生は、ゆかりセンパイの夢もちゃんと応援してくれてたと思いますよ? 勿論ご両親も。ちゃんと授業を受けてちゃんと勉強すれば将来の幅も勿論広がるし、何よりも小説を上達させる事にも繋がるんじゃないでしょうか? 」
「…………」
ゆかりは思わず無言になる。
「あたしは将来歌手になる事が夢ですけど…勉強もちゃんとしてますよ。それは歌手になりたいって夢への熱意が低いからじゃない。沢山勉強すれば、良い大学に行けるかもしれない。沢山勉強すれば、周りからの評価が上がってあたしの歌声を聴いてくれる人がもっともっと増えるかもしれない。そう思って勉強もちゃんとしてるんです。だから先生やご両親は……そう思って言ってくれてるんじゃないでしょうか? 」
(……否定なんて出来るわけない)
菜々の言葉は、ゆかりの心に真っ直ぐ届いた。
その通りだった。100パーセントその通りだった。
私は今まで何をしていたんだろう、とゆかりは自分を恥ずかしく思った。目の前の彼女はこんなにも大人で将来の事をちゃんと考えていたというのに……。
「ありがとうございます、菜々さん。私、今日から変わります! ちゃんと勉強も沢山頑張ります!! 」
「ふふっゆかりセンパイ、その調子です! でもゆかりセンパイはあたしに対して敬語使わなくていいんですよ? それにちゃん呼びで呼んでください。なんか悲しいので……」
そう言って泣き真似をする菜々に、ゆかりは心の底から感謝した。 この子との出会いが、私を変えたんだ。
(……ありがとう)
小説を書くことを、大好きだって思えるように。
勉強からも逃げず、未来を掴むために。
――――――
次の日。
「この問題、わかる人?」
教室に先生の声が響いた。
今までのゆかりなら、小説に頭を悩ませて話なんて聞く耳を持たなかっただろう。
けれど今、彼女の中には確かに炎があった。胸が熱く、あの子の言葉が、歌声が背中を押してくれる。
「……はい!」
ゆかりは今日、初めて手を挙げた。
真っ直ぐ。夢に向かって。