オリンピックに誤審はあったか~ふたたび中立主義のすすめ~
パリ・オリンピックの閉幕が近づいている。ここ最近、テレビの報道はオリンピック一色であり、中東情勢の緊張、バングラデシュの革命、九州の地震は本来の報道量を獲得していない。もちろん、オリンピックの時期はオリンピックの話題ばかりになるのがいつもの日本である。だが、今回のオリンピック、なぜか低評価が多い。その原因には、開会式の思想がおかしいとかセーヌ川が汚いとか食事がまずいとかいろいろあるようだが、やはり一番は「審判が不正だ」である。日本人の大部分の主張によると、多くの日本選手が誤審によって不当に負けたのだそうだ。柔道のルーレットで日本が不利になるように細工しただの、サッカーで不当にオフサイドを取って日本のゴールを取り消しただの、まあ数え切れないほど誤審とされる例がある。しかし、本当にそうなのだろうか。
まず注意しなければならないのは、ほとんどの日本人が「日本人が勝ってほしい」と考えていることである。一般的な日本人は、日本人の選手に強くあってほしい。日本選手は実は弱くて、負けて当然だということはあってはならないのだ。しかし、もちろん日本人の中には負けてしまう人もいる。そのとき、思い通りにいかなかった日本人は、どうにかして自分の欲求不満を満足させようとする。緊張していたとか調子が悪かったとかいうことにしてもよいが、最もダメージが少ないのが「判定が不正だったことにする」ことである。日本人は実は勝っていたはずなのだが、アジア人差別やら何やらの影響によって不当に負けてしまった、ということにすれば、日本人は本当は弱くないということにして納得できる。
さて、この流れ、どこかで見たことはないだろうか。そう、「選挙」である。たとえば前回のアメリカの大統領選挙だ。当時現職であった大統領は選挙で敗れ、再選を逃したが、選挙結果は政敵の不正によるもので実際は自分は勝っていたはずだと主張し、議会に彼の支持者が乱入する騒ぎになった。日本では驚くべきことにほとんどの政治家が素直に自分の落選を認めるが、アメリカに限らず多くの国では、選挙に負けた政治家が選挙の不正を主張することはよくあることである(そしてその流れでクーデターを狙う)。このような出来事を第三者である日本人が見れば、ほとんどが「おかしい。素直に負けを認めればよいのに」と感じるだろう。ところが、いざ自分に関係することになると、まんまと陰謀論にとりつかれてしまうのだ。
とはいえ、日本人の考えが偏ってしまうのは、別に原因がある。それは「批判者がいない」ということだ。普段のスポーツでは、いろいろな人やチームを応援する勢力がある。たとえば、阪神と巨人が野球の試合をして、審判がきわどいボールをストライクにし、阪神バッターが三振したとしよう。ある阪神ファンが「審判の不正だ! 巨人は裏で審判に金を握らせていて、ボール球をストライクにしたのだ!」と言ったとする。だが、この場合すぐに巨人ファンが「あのボールはどこからどう見てもストライクだ。素直に審判の判定を聞かないなんて往生際が悪いぞ」と反論するだろう。これをリーグが違うのであまり関係ないソフトバンクのファンが見れば、また別の意見が出るだろう。これは阪神ファンも巨人ファンもソフトバンクファンも同じ日本人であり、自由に母国語で議論できるからだ。しかし、日本語が使われているのはほとんど日本だけである。つまり日本人が日本代表を応援するときは、基本的に日本を応援する声しか聞くことはないのだ。当然今回のオリンピックでは、相手国は「日本は素直に負けを認めるべきだ」という意見がほとんどであり、第三者の国にも日本に批判的な意見がある。ところが、そんなことを日本で報道したところで人気が出ないから、報道機関は外国人の意見を伝えるときも日本に好意的なものしか報道しない。もちろん向こうの国の言葉が読めればそれは当たり前のことなのだが、ほとんどの日本人は日本語以外をまともに読めないし、もし読めたとしても、わざわざ自分が気に入らないことを読もうとは思わないだろう。
それでも、多くの日本人は自国の代表選手が弱いとは認めたくないだろう。まったくもってその通りである。テレビもインターネットも、あの日本人選手は王者だ、金メダルを狙っていると言っていた。それなのに、なぜ負けたのだろうか。やはり審判が……いや、本当にそうだろうか。そのメディアが言っていることは、本当に正しいのだろうか?
ではここで、早々に敗退して号泣したので大炎上した阿部詩氏の世界ランキングを見てみよう。まああれほど優勝候補であるように報道されていたのだから、当然1位なのだろうか。実は、全くそんなことはない。この人は10位である。これはオリンピックの前のデータであるから、オリンピックで負けたことで順位が下がったわけではない。ちなみに、優勝した一二三氏は9位である。そして、どの階級にも世界1位の日本人はいない。正直団体戦で決勝に進出し、フルセットまで持ち込んだのが信じられないほどである。
ところがこの事実を日本人は知らない(メディアは伝えない)し、指摘しても信じようとしない。私が実は阿部詩は弱かったのではないかということをXで言ったところ、「お前は阿部を侮辱している」と批判された。私は当時は炎上が怖くてすぐにこのポストを消してしまったが、現在はそれを後悔している。勘違いしないでいただきたいが、「日本選手が弱いこと」を私は批判しようとしているわけではない。「日本選手が実際はそこまで強くないのにもかかわらず、さも強いかのように報道する」ことが危険であると言いたいのだ。我々は日本人がそこまで強くないことをわかっていれば、無理な期待はしない。たとえばラグビーでは日本は負けてばかりだったが、ラグビーで日本が上位に入ったことなどこれまでにないので、それは当然のように受け入れられた。
確かに、昔は日本は柔道が強い国だったのだろう。日本は柔道発祥の国であり、アドバンテージがあったのだ。だが、その覇権は時代の変化とともに終わりつつあるのではないだろうか。ちょうど最近のブラジルがなかなかサッカーで良い結果を残せないように、柔道王国日本も陽が沈みつつあるのではないだろうか。それでも、日本人はそれを認めたくないだろう。かつて強かったものが弱くなることほど、かつて覇権を握ったものが没落することほど、認めたくないものはない。
失敗を誰かのせいにすることは簡単だ。だが、こちらの非を認めることができなければ、次につなげることはできない。判定に文句を言ったところで、ほとんどの場合判定は覆らない。また、自分が応援している人の失敗を認めることさえできなければ、自分の失敗を認めることはできない。
ところで、あれだけ時事問題に首を突っ込む人が多いなろうエッセイ界隈で、意外と誤審問題を取り上げる人がいなかったのは、もしかすると心当たりがあったのかもしれない。それはランキング問題である。「なろうのランキングは不正である! 面白くないテンプレ作品が、作家グループの相互ポイントによって不当にランキング上位を独占している!」という批判はよく見られるが、やはりこれは「それなら自分で面白い小説を書いてみろよ!」ということになってしまう。スポーツ選手もそれは同じだ。ルールに文句を言う前に、どうすればルールの中で結果を出せるかを考えるべきである。
また、今回のオリンピックはフランス開催であるから、フランス人をはじめ西洋人の審判が多い。審判も人間であり、つい自国に有利な判定をしたくなるのは当然である。もし審判が日本人であれば、日本人に有利な判定をしがちになる。公正であるはずの審判がそんなことをするはずがないと思うかもしれないが、この事実はすでに科学的に証明されている。前回の東京大会で日本が普段より強かったのは、その効果もあるのかもしれない。
そして、我々はスポーツの本来の意義を忘れてはならない。そもそもスポーツとは、人間がどれだけ上手に体を動かせるかを研究することである。どうすれば速く走れるか、美しい演技ができるか、正確に的を撃ち抜くことができるかを必死に考え、その考えに合うように体を鍛えて実践することが、本来のスポーツへの取り組み方である。決して敵をやっつけるためのものではない。世界新記録が出たとき我々が日本人でなくても喜ぶのは、それは日本人の功績ではなく、人類全体の功績であるからだ。もちろん母国を応援する気持ちはあってもよいが、それによって見境を失うことはあってはならない。勝者を讃え、敗者をねぎらい、良いプレーが出れば国籍にかかわらず称賛するべきだ。
……ということを私が言ったところで、おそらく何も変わらないだろう。確かに私は純粋に人を応援することができない社会不適合者の非国民で、国のムードをぶち壊しているのかもしれない。だが、私はこのオリンピックの熱狂に、戦争の勝利に喜ぶかつての日本人の姿を重ね合わせてしまうのである。オリンピックは平和の祭典であるはずなのに、逆に国どうしの対立を煽っているように感じてしまう。中立主義を実践することは、あまりにも難しいことなのである。