【7】
部屋で一人で過ごしていた夜、スマートフォンに通話の着信があった。
もともと燈里は、あまり通話はしない。
というより、プライベートの友人や知人とは基本アプリのメッセージを利用していた。
仕事関係で時間外に連絡が来ることなどまずないが、必要ならばメールが入ることになっている。
通話はよほど親しい、それこそ『声を聴きたい』相手でもないと使わない手段になった。
あるいは『緊急事態』か、だ。
手にした端末のディスプレイには、〇八〇から始まる携帯番号が表示されている。つまり、アドレス帳に登録していない相手からということだ。
非通知なら無条件で無視するが、番号を通知しているから問題がないとは限らない。
燈里がどうしようか、と逡巡するうちに不意にメロディが止まった。
とりあえず安心してスタンドに戻そうとした時、突然再度の着信で音が鳴り始める。
油断していてスマートフォンを取り落としそうになり、掴み直した弾みで応答ボタンに触れてしまった。
「あ、っ!」
『……波多、燈里さん?』
探るような女性の声。
セールスという雰囲気ではない。何故、この番号と名前を知っているのだろう。
「……どちらさまですか?」
肯定でも否定でもなく問いで返した燈里に、電話の向こうは一瞬沈黙し一気に話し出した。
『柳 京介、知ってるでしょ? あたし、今彼と付き合ってるの。──後藤 千晶って言います』
「知って、ますけど。もう関係ない人です」
『ホントに? まだ会ってるんじゃないの? ──京介はあたしのよ! 取らないで。ねえ、お願い……』
半ば泣いているかのような彼女の声に、どう対応すればいいのか迷う。
「会っていません。……三月始めでしたから、もう四か月以上前に別れてそれっきりです、本当に」
終始落ち着いた燈里の対応に、彼女の方も多少興奮が覚めて来たらしい。
『ごめんなさい、いきなりこんな。……ごめんなさい』
「えーと、後藤、さん? 何かあったんですか? 何故私に?」
燈里に問われ、彼女がしゃくり上げながらぽつぽつと話し出した。
『京介の友達に、──前の彼女のアカリちゃんは超美人で頭もいいのに控え目でレベル高かったけど、今度の相手は落ちたな、って』
涙声で告げられる内容に絶句する。
「……まさか面と向かって言われたんですか? どちらにしても、そんなこと口にする方がどうかしています」
『お店で化粧室に立った時に、彼の友達が立ち話してたの聞いちゃったの』
あの、恒例らしい恋人同伴の会か。
燈里のときはそんな不躾なメンバーは居なかった気がするのだが、向こうが燈里を知っているということは必ず顔を合わせている筈だ。
あのときも、裏では言いたい放題だったのか?
「それは柳さんに知らせた方がいいです」
陰での話なら京介の耳には届いていないだろう。
解決に繋がるかどうかは別として、友人が恋人を侮辱した事実は報告した方がいいのではないか。
『言えないわ。立ち聞きするような女だって思われて京介に嫌われる』
「一緒にお食事したお店ってことですよね? そんな誰が通るかわからない場所で陰口叩く方が悪いんです。わざと聞いたんじゃなくて、聞いて『しまった』って、後藤さんもご自分で仰ったじゃないですか」
ゆっくりと言い聞かせるような燈里の言葉に、千晶が息を飲む気配がした。
『……波多さんの番号、京介のスマホ勝手に見たの。まだアドレス消してないんだ、絶対まだ会ってるんだ! って頭に血が上っちゃって、──本当にごめんなさい』
本来彼女は、攻撃的なタイプでも何でもないのではないか。
京介への気持ちが強すぎて疑心暗鬼になっていただけなのだろう。
「あの、アドレスって消すものなんですか? ……私も柳さんのアドレス残してます。すみません、すぐ消しますから」
正直すぎる燈里の言葉に、千晶の声に微かに笑いが混じる。
『なんかあたし、バカみたい、ってかただのバカよね。波多さんが京介とコソコソ会ったりする人じゃないってちゃんとわかったわ。だから消さなくて大丈夫』
「……後藤さん。私、今お付き合いしてる方が居るんです。だから柳さんは、こう言っては失礼ですけど完全に過去の存在なんです」
おそらくこれを聞けば彼女もより安心できるのではないか、と思い切って告げた。
「そう、なのね。波多さん、あたし、──本当にごめんなさい」
謝罪の言葉を繰り返し、千晶は通話を終わらせた。
日曜の夜、スマートフォンに通話着信。
ディスプレイに表示されているのは『柳 京介』の文字だった。
突然だったらさぞ動揺しただろうが、先日の千晶の件があるのであっさり応答する。
「はい」
『……燈里?』
京介の声。懐かしい。でも、ただそれだけだ。
「ええ。久し振りね」
『千晶に、……あ、今の彼女、にいろいろ聞いたんだ。なんか燈里にも迷惑掛けたって気にしてたから』
「迷惑なんて全然。気になさらないでって後藤さんに伝えて」
本心から答えた燈里に、京介が少し躊躇ったのち尋ねて来た。
『もしよかったら会えないか? あ、俺と二人きりって意味じゃなくて、千晶と。……あいつを安心させてやりたいんだ。そのために燈里を巻き込むのはホント申し訳ないんだけど』
「……会うのは構わない、けど。私、今お付き合いしてる方が居るの。だから黙っては会えないわ。その方と話してから──」
『わかった。……もしその彼が疑うようなら、俺が直接頼んでもいいからさ』
「とにかく彼に話してみる。また返事するから」
通話を終えて大きく息を吐く。
京介に告げた通り、樹に黙って行く気はなかった。彼が気にしないとしても燈里の気持ちとしてあり得ない。
ただ、──何と言って切り出せばいいのだろう。
◇ ◇ ◇
「燈里ちゃん、どうかした?」
ごく普通にしていたつもりだったが、挙動不審だったらしい。二日後の火曜の夜、二人で会ったときに樹に訊かれてしまった。
「あ、その。……樹さん、私、以前付き合ってた人がいて、あの」
しどろもどろの燈里に、彼はいつも通り穏やかな声を掛けてくれる。
「落ち着いて。言えるようならまず結論から聞かせて」
「結論、あ、……以前の、もちろんもう別れて一度も会ってないんだけど! その人が、今の彼女を安心させたいから私に会って欲しい、って」
誤解されたくない、と不安が先立つ燈里に樹はわかっていると言いたげだった。
「燈里ちゃんのことは信じてるから心配しないで。……つまり、その彼、と彼女と三人で会うってことでいいの?」
「そ、そう」
話を整理してくれる彼に頷く。
「行って来たらいいよ。僕はまったく気にしない。あ、燈里ちゃんが嫌じゃなければね」
「ありがと。……最初にその彼女さんから電話があって、ちょっといろいろ参ってるみたいだったから」
千晶がぶつけられた暴言はなるべく打ち明けたくなかった。
彼女の名誉に関わることだからだ。
「えーと、例えば彼の浮気を疑ってるとかそういう?」
「もともとの話は別なんだけど、私に掛けて来た理由はそうね。でも電話で話して、もう私のことは気にしてないと思うのに」
具体的なことに触れずにどこまで話せばいいのか迷う。
「彼が彼女から何か聞いて、その上で燈里ちゃんと会いたい、ってことかな?」
「たぶん。詳しくは私もわからないの。根掘り葉掘り聞いて、やっぱり行かないじゃ悪いから」
燈里の台詞に樹が少し呆れたように口にした。
「……燈里ちゃんは僕が『行くな』って言ったら行かないの?」
「え? 当然じゃない?」
きょとんとした燈里に、彼は少し憮然とした顔を作る。
「そこは『行くから』って報告でいいよ。僕は制限する気ないけど、そういうのは自分で決めることなんだ」
「あ! そう、ね……」
なんでも彼に『お伺い』を立てるのは、かえって卑屈に映るかもしれない。
彼にしてみれば、まるで自分が燈里を縛り付けているようで気分が良くない可能性もある。
そんなつもりはないのだけれど、気をつけなければ、と心に留めておく。