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【5】

 本当のところ、どうしても来てみたかったわけでもない公園。

 しかし実際に訪ねた花で満たされた空間は、『好きな人と二人で初めて』という特別感を加味しなくても十分素晴らしかった。


「『薔薇園』というほどの規模じゃないですけど、この一角は薔薇だけなので。少しずつ開花時期の違うものを植えてあるので長く楽しめますし、近場でこれだけのものがあるのはいいですね」

 さすがに樹は地元に近いこともあるのか、もともとこの公園に関する知識があったらしい。

 特に観光名所というわけでもなく地元住民の憩いの場なので、混雑しているというほどではなかった。

 それでも土曜の午後で天候にも恵まれているため、それなりの数の人々が散策している。


「……もしできれば、燈里さんのお話も伺いたいです。あ、どこかに落ち着いてからの方がいいでしょうか?」

 しばらく薔薇を眺めた後の樹の言葉に、燈里は静かに首を振る。


「いえ、とりあえずここで。長引いて立ち話もどうかと感じたらどこか入りましょう」

「わかりました。疲れたらすぐ仰ってくださいね」

 彼に頷いて、燈里は話し始めた。


「本当に何もお知らせしてませんでしたね。私はメーカーで経理をしています。出身は千葉で、大学は東京でしたけど自宅から通ってました。あ、商学部の経営学科なんです。……見えないってよく言われますけど」

「え~と、すみません。失礼ですけど全然見えません」

 恐る恐るといった風な樹に、思わず笑みが零れた。


「そうですよね。……私、実家には帰れないんです。実母は早くに亡くなって、父と再婚した義理の母と、その後生まれた弟が居るので」

「……、あの──」

 あまりにも唐突過ぎて驚かせてしまったらしい。言葉を失っている樹に、燈里は慌てて弁解する。


「あ! 別に『継母に苛められた・差別されて育った』わけじゃないですよ! 義母(はは)には本当に良くしてもらったと思ってますし、感謝してるんです。でも、──自分の本当の子の方が大事なのは当たり前ですから。私がいたら気を遣わせてしまうので。……別に縁を切るとかいう話じゃなくて、連絡も取ってますし、年末年始なんかは普通に顔出してますよ」

 義母に何か言われたわけではなく、あくまでも自分の判断だ、と念を押す。


「ただとにかく、『ずっとひとりでも生きて行ける』力が欲しかったんです。最初は何となく『役立つ資格』で看護師さんとか考えてたんですけど、そんないい加減な気持ちで選ぶお仕事じゃないと思って」

「でも、そういう動機の人珍しくないでしょう? 僕の同級生にもいましたよ。今はバリバリ働いてるみたいです」

 樹が言葉を添えるのに答えた。


「もちろん、切っ掛けがなんでも本気でお仕事されてる方は問題なんかないですよ。でも私には無理そうだなって。そうしたら、高校の先生が『波多は几帳面で努力家だから経理なんかどうだ?』って。でも大学に入ってから、経理って自分で選んでつける仕事じゃないってわかったんですよね」

 こんな話を続けて良かったのだろうか。

 たかが自己紹介、「会社員です。経理をしています」程度で十分だったのかもしれない、と不安が過りつつも、ここで当たり障りのない対応は取りたくなかった。


「会社に入ってから、いろんな部署に振り分けられるんですもんね」

「ええ。私はたまたま希望が通って、経理部門に配属されたのでラッキーだったと思ってます。どの仕事もそうかもしれませんけど、経理って向き不向きがかなりはっきりしてるんですよ。まず、派手な目立つことが好きな人には向きません」

 これは日々の勤務でも痛感していることだ。


「ああ、燈里さんはとてもお綺麗なのに、凄く落ち着いた、地に足のついた印象だったんですが、そのせいだったんでしょうか」

「地味って言ってもらっていいんですよ。地味な自分は結構好きなんです、私」

 自虐でも何でもなく口にした燈里に、樹も言葉を繋げた。


「僕も見てわかるように地味な人間ですから。……僕たち、意外とお似合いだったりするんでしょうか」

「それ、すごく嬉しいです」

 顔を見合わせて、自然と笑い合う形になる。

 公園の周りにはちょうどいい食事処がなかったため、地元の駅まで戻って来て商店街の洋食店で夕食を済ませた。

 家まで送るという樹に、すぐ傍なので甘えることにする。

 自宅マンションのエントランスで、上がっていくよう勧める燈里の誘いを彼は全力で固辞した。


「それはまた今度。今日はこれで失礼します。……燈里さん、今日は本当に楽しかったです。これからもどうぞよろしく」

「はい、こちらこそ。樹さん、メッセージお送りしても構いませんか? お返事は気になさらなくていいので」

「いつでもどうぞ。僕もできる限り送りますよ」

 笑顔で手を振り合って別れる。

 互いに初めての恋人でもない二十代同士だというのに、まるで十代のような初々しい風景。



    ◇  ◇  ◇

 実母が亡くなったのは、燈里が四歳のとき。

 幼子を抱えた父のために、父の姉である伯母二人がよく来てくれていた。

 日中は保育園に通っていたため、燈里の世話というよりは家事の補助だ。日々の料理はまだしも、掃除や片づけまでは父もなかなか手が回らず、かなり助かったようだ。


 特に次姉である栄子(えいこ)伯母は、父に何度も見合いを勧めていたらしい。後に義母になる女性に引き合わされてから、伯母本人の言葉で初めて知った。

 それまで断り続けていたという父が、彼女には惹かれるものがあったのか。


「燈里が嫌ならもう佐和子(さわこ)さんとは会わないよ。正直に言って」

 当時小学二年生になっていた燈里には、父が結婚を真剣に考えているのが伝わって来た。何よりも燈里()の心を尊重したいと気遣ってくれていたことも。

 彼女は「いい人」だった。その想いは今も変わらない。

 だからむしろ、父の後押しさえした。

 義母が身籠ったとき、燈里は小学五年生だった。

 それを知った栄子伯母が、義母を詰ったのもよく覚えている。流石に同席はしておらず、二人とも燈里が聞いていたとは思ってもいないだろう。


「妊娠なんて何考えてるの!? 佐和子さんは子どもができなくて離婚された(・・・)人だから安心してたのに! 第一、あなたもう三十六だか七でしょ? 燈里の母親になって欲しくて再婚を勧めたのよ。なのに、自分の子どもなんて産んだらまた燈里が……!」

 ただ俯いて、「すみません」と繰り返すだけの義母が痛ましかった。

 子どものいない栄子伯母は、燈里を我が子のように可愛がって何かと気配りしてくれていた。それは間違いない。

 伯母二人と父は年が離れていて、上の厚子(あつこ)伯母の娘である従姉は燈里より一回り以上年上だ。

 だから同じ姪でも、母親のいない幼い燈里に思い入れが強くなったのは子ども心にもわかっていた。


「お義母さん。私は赤ちゃんが女の子だといいな。お友達にも妹がいて羨ましかったの。あ、でも弟もきっと可愛いよね」

 陰で涙を零しはしても、燈里の前では気丈に振る舞ってくれた義母に向けた台詞は本心だった。

 彼女は再婚以来それまでのニ年間、燈里の「母親」として本当に良くしてくれていたと感謝しかない。


 小学校の参観日に、初めて来てもらったときの喜びは今も薄れていない。

 父はいつも、仕事で行けないことを気にして侘びてくれていた。「来てもらえない」ことよりも、父が自分を責める姿がかえって苦しかった。

 義母を初めて学校で見たとき。

 本当は燈里も親に来て欲しかったのだ、という自分でも気づかなかった感情と、これでもう父が余計な負い目を感じずに済む、という安堵が同時に襲って来た。


 様子のおかしい義母を問い詰めた父が栄子伯母に抗議したらしく、気まずくなったのか彼女はしばらく家には来なくなった。

 それでも、父や義母はともかく燈里には会いたいとそのうち訪問は再開する。

 しかし、おそらくは父の条件だったのだろうが、義母に対して敵意や悪感情を出すことは一切なかった。

 無事生まれた弟には、同じ父の子で実の甥にも拘わらず大して気持ちはなかったようだが、あからさまに邪険にすることもしない。


 栄子伯母は義母や弟を嫌っているわけではなく、ただ燈里の幸せを願ってくれていたのだと理解していた。やり方は決して良くなかったにしても。

 今も燈里は父と義母や弟、伯母二人にも親愛の情は変わらず持っている。

 ただ、「結婚」というものに純粋な憧れや夢を抱くことはできない気がしていた。

 それが進路選択にも深く関わっている。

 恋愛は別として、燈里は現実に結婚を我が事として意識したことはなかった。

 別れた彼と交際していた期間でさえも。



    ◇  ◇  ◇

 火曜の夜は『Florist Shiraishi』の店休日の前日なので、待ち合わせて夕食を一緒に取るのが習慣になった。

 大抵は地元の商店街の中の店を選んでいたが、燈里の会社を見てみたいという彼に、本社ビルの外観を眺めるついでに会社周辺の店を訪ねたこともある。

 とはいえ燈里は翌日も通常勤務なので、それ以上特別なイベントは何もかった。

 そもそも二十時の閉店後に会っているので、何をするにも無理があるのだが。


 樹が以前話していたように、彼は父と交代で休みを取っているらしいが、できるだけ土曜日にしてもらうように頼んだらしい。

 当然、理由を訊かれたので燈里とのことを打ち明けて、快く融通を利かせてもらえているそうだ。

 おかげで、燈里の休日にゆっくり会えるのはとてもありがたい。

 お礼の気持ちも込めて、二人が付き合いだしてしばらくした週末に店を訪ね、樹の父に簡単に報告は済ませてあった。

 平日会うのは火曜の夜のみと決めているわけではないけれど、どちらにしても時間的に近場で夕食を共にするくらいしかできない。

 食事を終えて店を出たあと、燈里が樹を部屋に誘っても「もう遅いので」「燈里さんは明日もお仕事でしょう?」と丁寧に断られるのが常だった。

 そんなつもりはある筈もないが、まるで様式美のようなやり取りだ、と燈里は思っていたのだ。


 燈里の一人暮らしのマンションは1DK。

 部屋自体は結構気に入ってはいるもののキッチンはそれほど広くもないし、何よりもわざわざ招いて料理を作ってもてなすほどの腕でもない。

 どうしても手料理を食べさせたいわけでも何でもなく、単に樹を部屋に呼ぶ口実が欲しかっただけなのだが。

 ……実は京介(元彼)はこの部屋に来たことはない。

 誘ったことはあるが、「そのうち」とはぐらかされてそれきりになった。夜のデートは、いつもホテルを利用していた。

 互いの部屋という『所帯じみた』場所は彼の好みに合わなかったのだろう。


 初めて樹が燈里の部屋を訪れたのは、付き合い始めて一月は経つ七月に入った頃だった。

 ……その間、彼とは所謂『恋人らしいこと』は何もしていない。そう、何も。


「お邪魔します」

「狭いところだけど」

 玄関を上がってすぐはダイニングキッチン。

 夕食後なのでお茶でも出そうと思ってはいたが、それよりもまず優先することがある。


「樹さん、こっち。ベランダ見て」

 彼を急かしながら奥の部屋を通り抜け、突き当たりの掃き出し窓を開けた。次々と蕾がついては咲いているサンダーソニア。


「ああ! 凄い綺麗だね。本当にきちんと育ててくれてるんだなあ」

「樹さんにいちいち訊いて頑張ったからね」

 これも目的のひとつではあったのだ。写真だけではなく、実物を彼に見て欲しかった。

 二人用の小さなテーブルセットに座ってもらいコーヒーを飲む。

 ……この部屋を借りて必要なものを揃える際に、一人なのにダイニングセットなんて要るだろうかと迷ったのだが、板張りのダイニングにローテーブルはないかと結局買ったのだ。

 後悔したこともなくそれなりに便利に使いはしていたが、こうなるとやはり買っておいてよかったと心から思う。


「樹さん、──今日泊まって行かない?」

「僕は明日休みだけど、燈里ちゃんは普段通り仕事だろう? だからダメです」

 少し性急過ぎかと思いつつも口にした燈里の希望を、彼は静かに拒否した。


「それじゃ次。土曜に会えた時、またうちに来て。そのときは泊って行ってくれる?」

「そう、だね。またその時考えるよ」

 樹が燈里に対して真剣で、……だからこそ段階を踏もうとしているのは燈里にもきちんと伝わってくる。

 ただ『何もしない』彼に不満を感じているわけではなかった。

 それでも、大人の恋人同士としてこの先があるのは当然だと思っている。それはおそらく樹も同様だろう。

 彼が単なる受け身の人間だとは思っていないが、この件に関しては燈里が動かなければこのままの状態が続く気しかしなかったのだ。

 傍から見たら滑稽かもしれないが、燈里は何とか切っ掛けに繋がる種だけでも()いておきたかった。

 実際、断られてもめげずに誘い続けたことで、ようやくこの部屋に招くことができたのだから。


 燈里は「身体の関係がなければ意味がない」とは思っていない。そんな表面的なことではない、のだ。

 学生時代の最初の恋人とは、実際に付き合ってみると初めて見えてきたものも多かった。性格や考え方の違いもそうだ。

 そのため交際そのものに何かと齟齬があって、そこに行き着く前に壊れてしまったのだが、数ヶ月前に別れた彼とは当然のように関係があった。

 それでも、終わるときは呆気なく終わるのだと燈里は身を持って知っている。

 極端な話になるが、何らかの事情があって『何もしない』ままだとしても、二人が納得した上でなら構わないとも思う。



    ◇  ◇  ◇

「……りちゃん」

 樹に呼ばれてはっとする。つい思索に耽ってしまっていた。

 彼と共有する幸せを何より望んでいる筈なのに、せっかく手に入れた二人きりの時間に、自分の世界に浸って彼を意識からも締め出してどうするのか。


「あ、あの。ぼーっとしちゃって、私──」

「僕が不安にさせてる?」

 そう、この人は優しくて物静かだけれど鈍くはない。


「違うの! 私が勝手に考え過ぎてるだけなのよ」

 焦って上手く言葉が出ない燈里に、テーブル越しに向かい合っていた彼が不意に椅子から立ち上がった。

 樹がテーブルに上体を乗り出すようにして燈里に手を伸ばして来る。後ろに身を引けば簡単に逃れられるが、もちろんする気はなかった。

 そのまま掌を頬に添えてきた樹とキスをした。唇を解いた後、咄嗟に瞑った目を開けると至近距離で目が合う。

 頬に置かれた彼の手の上に手を重ねて、見つめ合ったまま自然に笑みが零れた。


「……ごめん。僕もちょっと考え過ぎてたみたいだ」

「樹さん」

 なんだか吹っ切れたような、と感じるのは燈里の思い過ごしだろうか。


「私の方こそ、一人でぐだぐだ悩んでないでちゃんと話せばよかったのよ。……泊まって、って言ったけど、この狭い部屋で、シングルベッドで、かえって迷惑よね」

 そんなことさえ思い至らなかった、と反省している燈里に、彼があっさり返して来た。


「いや、それは全然。燈里ちゃんがいいなら僕は気にしないし、──嬉しかった、本当は」

 照れたように笑いながらの台詞は、紛れもなく樹の本心に聞こえる。


「次、かどうかはわからないけど、土曜日。本当に泊めてもらうよ。いいの?」

「ここで『やっぱりやめる』なんて言わないわ。それより、泊まるって決めてるなら金曜の夜の方がいいんじゃない?」

 いざとなると、具体的なあれこれが気になってしまう。


「ああ、そうだね。確かに、一緒にご飯食べても別々に済ませても、そうすれば土曜は朝から一緒に居られるし」

 燈里の提案に、樹もすんなり同意した。


「あ、でも朝からって休めるの? 私、そこまで考えてなかったわ」

 樹の土曜の休みは、いつも午後からの半日だ。


「休むよ。大丈夫、父さんと話つける。ただ、──僕から言う気はないけど燈里ちゃんと泊まりだってバレるだろうな」

「子どもじゃないんだし平気よ。……楽しみにしてる」

 今日、樹との関係はひとつだけステップを上がった。

 上がった、うちに数えていいのかも疑問だが、何事も一歩ずつコツコツ積み上げて行くのは基本だ。

 それが燈里の生き方でもある。


 ──この人となら、無意識に目を逸らしていた「共に生きる未来」を描けるかもしれない。そういう相手に巡り合えたのだ、と今感じている。


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