【4】
「ごめんね、樹くん。やっぱり親が、……ちょっと」
樹もこれまでに女性と交際した経験はそれなりにあった。
学生時代は、今思えば後先考えず周りも見えず、その場限りで自分たちさえよければというような恋だった。
しかし、大学を卒業してから他の生花店に勤めていた三年間、また父の店に後継候補として入ってからは話が違って来たのだ。
交際が進めば、どうしても『結婚』を避けては通れない。
樹自身は、先日父が口にしたように「一緒にこの店をやって欲しい」といった思惑はなかった。
両親を見ていたからかもしれないし、単に今はそういう時代ではないという感覚からかもしれない。
当然、彼女たちにもその思いは告げていた。
しかし、本人よりもその親が難色を示すケースが多かったのだ。
零細にも程がある自営業の後継者。
家族を安く、──あるいは無償で使える従業員として数に入れることが珍しくない、しかも肉体労働に分類される業種。
そんな男と娘を喜んで結婚させたいと思う親が居るだろうか。
大事な娘に余計な苦労はさせたくないという親心くらい、独身の樹にも理解できる。
◇ ◇ ◇
改めて待ち合わせた土曜の午後。樹は店と同じ通りに面したカフェで、燈里と向かい合った。
「中途半端なままお待たせしてすみませんでした。先日は、──僕もあなたのことは素敵な方だと思っていましたし、本当に嬉しかったんです」
「私の方こそ、いきなりあんなこと言い出したりして」
慌てたように胸の前で手を振る彼女を制して口を開く。
「お付き合いする前にこんなことを言うのはどうかと思われるかもしれませんが、大事なことなので聞いてください。──その上でまたお気持ちを伺いたいんです」
「……はい」
樹の真剣な声と表情に飲まれたかのように、燈里が少し掠れた声で答えた。
「波多さんにもお話してましたけど、僕は父の店を継ぐつもりでいます。ただ、──結婚相手に店の仕事を手伝ってもらう気はないんです」
「え? でも、──あの、黙って聞いていた方がいいでしょうか?」
「いえ。むしろ疑問に感じることがあったら、その場で訊いてくださった方がいいです」
咄嗟に出てしまった言葉をよくなかったかと反省しているらしい彼女に、樹はそう返した。
「花屋の仕事って本当に大変なんですよ。特にうちみたいな個人店は。営業時間もうちなら朝十時から夜八時ですけど、当然前後に開店準備や閉店後の片付けもあります。何より仕入れが……。毎日じゃありませんが、市場に行く日は当然早朝からです。市場はケース買いなので、仲卸さんからも仕入れてますけど」
「お魚や野菜みたいな朝市、ですか? たまにニュースで『マグロが高値で~』とかやってますよね?」
「そちらは僕は詳しくないですが、基本は同じですね」
やはり一般的に『市場』と言えば、まず『水産市場』『青果市場』なのだろう。
「生き物、──鉢植えはともかく切り花は『生き物』とは呼べないかもしれませんけど、そういうものを扱う以上、店休日も完全に休めるわけじゃないんです。もちろん僕や父は好きで選んだ道ですから納得していますし、ただ辛いだけだとは感じません。でも、『花屋と結婚しただけの人』は違うでしょう」
話せば不利になるのは理解していても、黙っているわけにはいかない。
いつかは知らせなければならない、……あるいは知られてしまうことなのだから。
「……白石さんの仰りたいこと、わかる気がします。私自身は経験ありませんけど、従姉のお姉さんが自営業の人と結婚して朝から晩までお仕事手伝ってて、伯母が実家に愚痴を言いに来てましたし。友人にも親が転勤族だったから絶対転勤族とは結婚したくないって子もいますから」
樹の話を聞いた燈里が、自分の周りの『結婚が相手や家族の人生を変える』ケースについてゆっくりと考えながら話している。
「たとえば、最初から『花屋を開くのが二人の夢』っていうのはまったく別の話ですし、そうでなくても互いが納得していたらいいのかもしれません。でも、──僕の両親はそれで離婚してるんです」
思い切って打ち明けた樹に、燈里は言葉を失ったように見えた。
「……お母さまのお話が出ないな、と感じたことはありました、けど」
彼女がようやく絞り出すようにそれだけ口にする。
「でも波多さんは、一度も母のことに触れられませんでしたよね」
「そんなの当たり前じゃないですか? 私はただの客です。……いえ、友人だったとしても、事情もわからないのにそんな無神経なこと」
言葉通り当然のように話す彼女に、だからこそ好印象を持ち、惹かれたのかもしれない、と樹は思う。
「高給取りでもないのにいつも無駄に忙しくて、デートや遊びにも制限があります。それに、──もしかしたら僕は、結婚をどこかで怖がっている、のかもしれません」
「白石さん……」
ここまで最初に明言したのは初めてだ。それだけこの人には真摯に向き合いたいと思った。
「僕の話を聞いて、それでも波多さんのお気持ちが変わらないようなら──」
「変わりません!」
樹の台詞に被せるような燈里の強い言葉。
「すみません。失礼なのはわかってるんですけど、どうしても知って欲しくて。条件で選んだわけじゃないし、そもそも私は『お花屋さんの白石さん』を好きになったので、何を聞いても変わる筈ないんです」
一転してあたふたと言い募る彼女が、無性に愛しいと感じる。
「僕もあなたが好きです。もしよければお付き合いしてください」
「はい、嬉しいです」
覚悟を決めて想いを伝えた樹に、燈里が微笑んだ。もともと整った顔立ちだが、やはり笑顔が一番綺麗だ。
「あの、できたら白石さんのことがいろいろ知りたいです。あ、もちろん私の話も興味がおありならいくらでも」
仕切り直すかのような彼女の言葉に、樹も異存はなかった。
「何から話せばいいかな……。あ、とりあえず大学は農学部なんです。花卉園芸が専門で──」
我ながらつまらない人間だとこんな時に感じる。
何故、話の入りが大学の専門なのか。
特に話題を広げやすい、誰でも知っているような大学や学部の出身というわけでもないのに。
「……かき?」
「ああ、すみません。一般の方には馴染みのない単語ですよね。うーん、花卉は簡単に言えば鑑賞用植物のことで、それこそうちの店で扱うような切り花の栽培や鉢植えの植木なんかに関する研究です。さっき言った市場も『花卉市場』なんですよ」
「そうなんですね」
意味不明の言葉、興味のない説明だろうに、嫌な顔もせず黙って耳を傾けてくれる彼女。
「白石さん。その、素人なので変なことだったら申し訳ないんですけど。お花屋さんのお仕事に、そういう農業というか園芸的な勉強ってやっぱり必要なんですか?」
燈里の素朴な疑問に、樹は真面目に答える。
「そうですね、僕みたいな『花卉園芸』の専門知識までは必要ないとは思います。ただ、球根にしろ鉢植えの花にしろ、お客さまに説明できるだけの知識は必須ですから。切り花売りのみの店ならまだしも、苗や鉢花を扱いながら育て方を訊かれて『わかりません』じゃ話になりませんよ。どちらにしても、自分の扱うものについて詳しく知ったことは決してマイナスにはなっていませんしね」
「そういえば鉢植えの植木、……観葉植物もお店で植えてらっしゃるんですよね?」
「ええ、一部はね。そういう点でも役に立ってますよ。もちろん仕入れる方が多いですが」
店で新しい植木を見た燈里と、そんな話をしたことがあったのを思い出す。
「あの、……今日みたいにいつも土日に時間が取れるとは限らないんです。すみません」
あまり長居し過ぎるわけにも行かずに席を立ってカフェを出たあと。恐る恐る切り出した樹に燈里はごく普通に返して来た。
「大丈夫です。最初からわかってますから。私は繁忙期はともかく、普段は残業もそこまでないですし。だからもし白石さんさえよろしければ、お仕事の後とか店休日とかいつでも構いません。合わせます」
そういえば『休みが合わない』ことで上手く行かなくなることもあった。
実際、樹は社会人になってからは、完全に休みの合う相手と付き合ったことは一度もない。
「ありがとう。……波多さん、これからどうします?」
デートプランなど考えていなかった。
そもそもどういうところへ連れて行けばいいのかさえよくわからない。カフェを出る前に話しておくことだったのだ、と今更のように考えてしまう。
「あの、ここから少し先に花の綺麗な公園があるって聞いたんですけど──」
「ああ、ありますね。少し離れてますけど大丈夫ですか? 電車に乗って行くことになりますけど」
遠慮がちな彼女に、今度は樹が被せ気味に返した。
「はい。私は大丈夫です」
「じゃあ行きましょう、波多さん。今はちょうど薔薇の季節ですし、お天気もいいですから」
頷く彼女に早速向かおうと告げる。
「嬉しいです。……あの、それと私のことは燈里でいいです」
「あ、あ! はい。燈里、さん。僕も樹で」
「樹さんとお花を見に行けるなんて夢みたいです」
一瞬言葉に詰まりながらも答えた樹に、彼女は花が咲くように笑った。