【3】
食後のコーヒーをゆっくり飲みながら、燈里はふと気づいてしまった。
球根を買ってから約二か月。
我ながらうきうきした気分で毎日を過ごしていた。季節はすっかり移り変わり、梅雨も近いらしい。
その間、別れた恋人のことを思い出したことがあっただろうか。当分は泣き暮らすに違いないと思っていたのに。
……現実に、あの前日までは一か月近くも毎晩のように枕を濡らしていたのに。
植え付けをして、毎日土の状態を確かめながら水やりをして。日当たりや雨の状況に合わせて、ベランダでの鉢の位置を動かして。
樹にあれこれ質問しては答えてもらいながら、芽が出た、茎が葉が伸びたといちいち報告して喜んで。
家にいる間は頭の片隅に常に球根の、鉢植えのことがあった。……そして、樹の。
名前と仕事くらいしか、──年齢さえ知らない彼の存在が、いつの間にこんなにも大きくなっていたのだろう。
サンダーソニアだけではなく。
燈里の中に芽吹いた何かも、知らないうちに成長して蕾がついていたのだ。
白石 樹。
生花店の跡継ぎで、現在父の元で修行中。店の上の自宅で父と二人暮らし、独身。
本人の口から、あるいは父子のやり取りで得た彼の個人情報はその程度。プライベートに関して、燈里から尋ねた事柄はない。
意外と、と言っては失礼だが、優しい笑顔や人当たりの良さに反して、自分をしっかり持っている印象だった。
客として接して得た感覚に過ぎないのだが、人が良くいかにも実直そうではあるけれど、ただ周りの意見に左右され流されるタイプには見えない。
仮にも経営者を現実の目標に据えているのだから当然か。
背は高い方だが、特別美形とは呼べないだろう。逆に、容姿が良くないと感じたこともなかった。
そもそも外見を気にする立ち位置ではなかったので、考えたことなどなかったのだが。
学歴も不明。
失礼極まりないのは承知の上で、高収入だとも思えない。父と二人で営む生花店も、どう見ても「儲かっている」風ではなかった。
こんなことをつらつらと考えていること自体に、自己嫌悪を覚えてしまう。
一体いつから「ただあのひとが好き」だけで居られなくなったのだろう。
今まで打算で、……条件だけで相手を選んだことこそないけれど、心のどこかで経歴や能力を考慮に入れて相手を『値踏み』していた、筈だ。
とはいえ、別れた恋人以外には学生時代の同級生と付き合った経験があるだけなのだが、彼の場合も世間的には十分名の通った『同じ大学の学生』という背景があった。
そして京介にしても、しっかりした会社に勤めているという前提から始まったのだから。
恋は思案の外とはこういう状況を指すのか、と燈里はぼんやり思う。
日に日に増える、艶やかな緑の蕾。
そして、樹への想いを凝縮した姿なき蕾が、サンダーソニアと共に育って行く。少しずつ色づいて行く。
燈里の中で。
◇ ◇ ◇
目覚めた燈里は、真っ先に掃き出し窓のカーテンを開けてベランダに出た。
球根を植えてから、自然と身に付いた日課だ。
「……花」
朝陽が差し込むベランダの鉢の蕾が、ひとつ開いている。
反射的に室内に取って返し、ベッドの枕元のスマートフォンを手に戻ると何枚も撮影した。全体が納まる構図で。花を最大限アップで。
とりあえず一息ついて、燈里はようやく現実に戻って来る。……今日も仕事だ、出勤の用意をしなければ。
普段より駆け足で支度を整え、あたふたと玄関を出る。ドアに施錠しながら、心はすでに退勤後に飛んでいた。
「花が咲いたんです」
第一声は、もう決めている。
スマートフォンの、花の画像を見せて。その次はどうしよう。
いきなり告白は勇み足過ぎるだろうか。
彼にとっては職場なのだから、いくらなんでも不躾かもしれない。まずは外での約束を取り付けるべきか。
そもそも、店に樹一人とは限らない。店主が居たら?
何より彼が負い目を感じず断れるように、よく考えなければ。切り出し方、言葉選びも。
職場へ向かう電車の中。
最悪の場合を想定して、樹への気遣いと同時に己を守る予防線を張りつつの、脳内シミュレーションが止まらなかった。
──客に一方的に想いを寄せられること自体が迷惑かもしれないけれど、それだけは許して欲しい。身勝手な願いだと十分自覚している。
振られたら潔く諦めるから。……燈里の存在が不快なら、この街から転居してもいい。
成就しなくても、どれだけ泣く羽目になっても構わなかった。
片想いで終わったとしても、彼がくれた仄かな幸せが消え失せるわけでもないのだから。
結果がどうあっても、決して後悔はしない。
燈里の中に生まれた蕾。
──無事に咲くのか、それともこのまま萎れるのか。どちらにしても一歩踏み出してみよう。樹の方へ。
「白石さん! あのね、花が咲いたんです。あ、サンダーソニアの」
仕事を終えて、電車の中で逸る気持ちをどうにか抑えつけていた燈里は『Florist Shiraishi』の店内に足を踏み入れた。
他に客が、──店主の姿さえ見えないことにとりあえず安堵して、あらかじめ考えていた台詞を口にする。
「ようやくですね!」
「ええ。あ、写真撮ったんです、これ」
スマートフォンに画像を表示させ、樹に向ける。
「やっぱり可愛い。本当に『ベル』ですよね」
樹の言葉に、ちょうどいい流れだと思い切って切り出した。
「ベル、でも間違いないですけど、私にとっては『ランプ』なんです。私の名前が燈里ですから、なんだか親近感、ていうのも変ですね。でも思い入れが強くなって」
「『ランプ』……灯り、ですね。そうか、気づきませんでした」
「あの、白石さん。私、花が咲いたら、──『ランプ』が灯ったらあなたにお話したいことがあったんです」
「……え、と」
燈里が決死の覚悟で切り出した言葉に、樹は真意を測りかねているらしかった。それも無理はない。
「お仕事中は何ですから。もしよければそのあとで少し時間をいただきたいんですけど、何時頃なら大丈夫ですか? もちろん今日でなくても構いません」
「閉店は八時ですが、閉めたあともやることがあるので八時半は過ぎるかと思います。それでもよろしければ」
早速今日時間を作ってくれるらしい樹に、燈里は感謝の意を示す。
「ありがとうございます。お店に来ればいいですか?」
「そうですね、そこのカフェ、……は九時閉店ですから、ファミリーレストランでも構いませんか? あまり静かな店より話がしやすそうなので」
樹の問い掛けに、燈里は即座に承諾を返した。
「私はどこでも結構です」
「だったらこの少し先の店でいいでしょうか」
燈里もたまにひとりで利用することもあるチェーン店だ。
「はい。無理言って申し訳ありません」
約束を取り付けたらこれ以上の長居は迷惑だと、燈里は彼に礼を言って店を出た。
今はまだ七時にもなっていない。
このまま行ってコーヒーでも飲んで待っていてもいいのだが、いったん帰ることにした。せっかくだから着替えて化粧も直したい。
八時半少し前に燈里が件のファミリーレストランを訪れて「あとでもう一人来る」旨を伝えると、にこやかな若い店員が奥の壁際のテーブルに案内してくれた。
時間的に幼い子連れの客は少ないが、少しでも離してくれようとする配慮だろう。
「注文は連れが来てからでも構いませんか?」
「もちろんです」
テーブルに水のグラスとメニューだけ置いて、彼女は立ち去った。
十五分ほど経った頃、別の女性店員に案内された樹が燈里の待つ席へ通されて来た。
「お待たせしてすみません」
服装は変わらないようだが、いつものエプロンをしていない彼を見るのはそういえば初めてだと気づく。
「いいえ、私が早めに来ただけですから。こちらこそ、お仕事の後でお疲れのところ申し訳ありません」
恐縮する樹に燈里も詫びて、互いに頭を下げ合う格好になった。
「ご注文がお決まりになりましたら、こちらのボタンでお呼びください」
「はい。ありがとうございます」
店員に礼を述べて、樹がメニューを開いて二人で見られるようにしてくれる。
「あ、今更ですけど。突然お誘いしてよかったんですか? お食事の用意とか」
「大丈夫ですよ。父と二人ですから結構適当なんです。一応交代で作ってはいますけど、食べられなかったら翌日の昼に回せばいいので」
燈里の問いに、店の上ですからね、と樹があっさり答えた。
店員を呼んでオーダーを済ませると、ほどなく食事が運ばれて来る。
「私、ここ時々来るんです。ひとりでも気軽に食べられるので」
「そうなんですね。僕は久しぶりだなぁ」
ぽつぽつと話しながらの食事を終えて、セットのコーヒーを前に燈里は切り出した。
「あの。……突然ですけど、白石さんておいくつなんですか?」
「二十七です。十一月には二十八になりますよ」
そういえば、年の話なんてしてませんね、と彼は笑う。
「じゃあ私と三歳違いなんですね。私は九月で二十五なんです」
当たり障りのない話から始めたが、話題はすぐに尽きて会話が途切れてしまった。
そもそもとうに九時を過ぎている。二人とも明日も仕事なのだ。
無為に時間を浪費するわけには行かない。
「あの! ──あの、私。白石さんが好き、なんです」
単に勢いの告白ではなく、最初からそのつもりで取り付けた約束ではあったが、実際に告げてしまうと心臓が口から出そうになる。
しかも、あれだけ気をつけなければと思っていたのに、結局零れたのは何の工夫もない言葉。
「……波多さん。とりあえず、お気持ちは嬉しいです。あ! お断りする方便じゃなくて、──その、僕の方もお話しておくことがあるので」
──少なくとも迷惑ではなかったようだが、これはどう解釈すればいいのだろう。
困惑が伝わったのか、彼が穏やかな声で提案した。
「今日はもう遅いですし、日を改めませんか? 波多さんは土日がお休み、でしょうか?」
「あ、はい。……でも、白石さんはお店が。確か店休日は水曜日ですよね?」
燈里の問いに、樹が頷く。
「そうです。でも父と二人でシフト、というほどでもないですが毎日時間ずらして出てますし、できる限り週に一度は交代で半日は休むようにしてるんですよ。それを土日にしますから」
「……わかりました。私はどちらでも構わないので、白石さんのご都合のいい方で」
連絡先を交換し、多少微妙な気分で燈里は彼と別れひとり帰宅した。