【2】
「なあ、樹。あの波多さんって、最近の人みたいに髪も爪も派手じゃないし、上品で綺麗な方だな。都会のオフィスレディって感じするなぁ」
まだ午前中。
土曜とはいえ、燈里が立ち去った後の店内に客の姿はない。花束を作り終えてひと息ついた父の言葉に、樹は呆れた声を上げた。
「オフィスレディ、って。今でもそんな言葉使うの? 死語じゃない?」
綺麗だ、というのは樹も同感だ。とても感じの良い女性だと好感を、──いや、はっきり意識はせずともそれ以上の何かを抱いてもいる。
「そうかもな。……それはともかく、球根のことも熱心に訊いて生真面目に育ててくださってるし、ああいう人がお前と一緒になってこの店やってくれたらなぁ」
「父さん、そういう──」
続く言葉を飲み込んだ樹に、父は慌てたように弁解する。
「いや。失敗した父さんが言っても説得力ないし、逆に縁起悪いよな」
「そんなこと思ってないし言ってない。そうじゃなくて、──勝手にこんな話してるの失礼じゃないか?」
彼女が一時期のように花を買わなくなったことから『私生活』に変化があったのかと推察はしても、それ以上客のことを詮索する気はなかった。
何よりも、自分はあの綺麗な人の隣に立つには相応しくない。
「……ああ、まったくその通りだ。客商売失格だな」
父が素直に反省している様子に、何か声を掛けようかと樹が口を開き掛けたとき。
入口から、常連客である若い主婦が店内に入って来た。
「すみません、予約してた花束を、──あ! それ?」
「山沖さま、お待ちしておりました。こちらですがいかがでしょう」
さすがにベテランの父は、一瞬で店主の顔に切り替わった。
「すっごい素敵です! やっぱりおじさんのセンスっていいわぁ。こういうの見ちゃうと、花束って適当に綺麗な花纏めてラッピングするだけじゃないってよくわかるわ」
山沖は口先だけではなく本当に嬉しそうだ。
もともと彼女は父の作る花束が好みに合うらしく、習い事の差し入れや知人の祝い事等、ことあるごとに利用してくれている。
「ご結婚の贈り物でしたよね? パーティですか?」
「ううん、そんな大層なもんじゃないの。友達が『もう三十もとっくに過ぎたし、今更結婚式でもないから』ってやけに後ろ向きなこと言って何もしなかったのよ。あたしたちも同じ年なんだけど、まあほとんど既婚者だからね。……それはともかく、せめてお祝いだけでも言いたいじゃない? だからランチ会企画したの」
「そうなんですね。喜んでいただけるといいのですが」
彼女の台詞に、父は笑みを浮かべて答えた。
「絶対大丈夫ですよ! あの子の好きな花もバッチリ入れていただいてるしね。あんなにばらばらの花指定したにのにちゃんと全体のバランス取れてて、さすがプロだわぁ」
「明らかに季節外れや、手に入れるのが困難なものはありませんでしたから。それでも良さそうなのを選んで仕入れましたし、お気に召していただけたら何よりです」
精算を済ませ花束を抱えて店を出る寸前、彼女がふと振り向いた。
「そういえば息子さんも花束作られるの?」
「オーダーはまだまだですが。そちらの小さな花束は僕が作っています」
水切りを繰り返して茎が短くなった、単独では売り物にできない切り花を利用した売り切り用の商品だ。
「あー、このコーナー可愛いなと思ってたのよ。おじさんとはタイプが違ったとしても、ちゃんと修行してる方の職人技って楽しみだわぁ。今度お願いしようかな」
「未熟者ですがご期待に添えるように精進しますので、今後ともご贔屓に」
社交辞令かもしれないが真面目に返した樹に、彼女は笑いながら会釈して帰って行った。
◇ ◇ ◇
「お花屋さんがこんな大変なんて思わなかった! 手も荒れちゃって。見てよ、傷だらけ!」
両親は、樹が小学校に入ってすぐに離婚している。
ある朝起きたら、母は家には居なかった。とりあえず学校に行って帰宅したら、母の実家から連絡があったのだ。
父が独立開業を目指して、開業資金を貯めるのと同時に経験を積むために生花店で働いているときに、すぐ傍の短期大学の学生だった母と知り合ったそうだ。
ずっと年上で花が好きな、穏やかで優しい男性。
母の方が夢中になって結婚をせっついたのだという。「ママはパパが大好きなのよ~」と幼いときに母方の祖母が冗談交じりに話してくれたことがあった。
母が短大を卒業してすぐ結婚し翌年樹が生まれたが、父が修行として勤めている間は特に問題もなかった。
しかし、開業資金も予定額に達し、物件も見つけて自分の店を開いてから少しずつ歯車が狂い出したのだ。
今までと違い、経営者の妻として店の運営に知らん顔ではいられなくなった。まして、住居は店の上だ。
だんだんと口論、というより母が一方的に父を詰ることが増えて行き、とうとう彼女は実家に帰ってしまった。
数日後、母の父である祖父だけが訪ねて来た。
二人とも本心では樹には外に出ていて欲しかったのだろうが、祖父も仕事が終わってから来ていたので時間が遅く、そういうわけにも行かない。
「樹、自分の部屋に居てくれるか?」
「うん」
父の言葉に頷いて、樹は部屋に引っ込んだ。押し入れに籠り両手で耳を塞いでも、隣の居間で話す二人の声は嫌でも聞こえて来る。
「隆司くん、綾はもうここには戻りたくないと。離婚したいそうだ」
「……そう、ですか」
二人の表情さえ浮かぶような沈んだ声音。
「二十八にもなって、しかも母親だというのに本当に馬鹿な子だが、あんな娘でも可愛いんだ。──隆司くんと樹には、ただすまない」
「お義父さん、止してください。いい年の大人同士の話です。僕と綾が家庭を持つには未熟だった、のかもしれません」
祖父が頭でも下げたのだろうか、それを止める父の声。
「妻も詫びたがっていたんだが、綾が興奮していて放っておけなくてね」
「いえ、ですから親御さんに謝っていただくことじゃありませんから」
恐縮する祖父と、感情を表さない父。
「わかった。……隆司くん。それで樹のことなんだが、私も妻もできればこちらで引き取りたいと思ってる」
「綾も同じ意見なんですか?」
話を変えた祖父に、父が静かに問い掛ける。
「……いや、でも──」
祖父はその質問には答えようがない様子で口籠るのがわかった。
「お義父さん。綾がどうしても別れたいと望むんならもう仕方ないです。でも僕は樹を手放す気はありません。それだけが条件です」
そこは譲る気はない、ときっぱり口にした父に、祖父は抗うこともしなかった。
「そうか。もともと何か要求できる立場じゃないのはわかっているんだ。帰って妻と綾と話してみるよ。……その場合でも、たまには樹に会わせてもらえるだろうか?」
「当然じゃないですか。僕たちが別れたって、樹とお義父さんやお義母さんとの関係は何も変わりません。むしろ会ってやって欲しいです」
祖父母も母も、樹にとっては皆優しい家族だったのだ。