【1】
「何かお探しですか? いつもありがとうございます」
過去に思いを馳せながら店の前で立ち尽くしていた燈里に、買い物のたびに接客してくれる店員が中から姿を現した。
生花店には珍しい気もする、まだ若い男性。二十四歳の燈里よりは年上に見えるけれど、おそらく二十代だろう。
従業員なのか、それとも個人経営の店らしいので跡取り息子? これまで気にしたこともなかった。
今は到底、花を買う気にはなれない。とはいえ無言で立ち去るわけにも……。
「……球根」
「え?」
目に止まったチューリップからの連想で、無意識に零れた呟きに店員が反応するのに、燈里は慌てて言葉を継いだ。
「あ、球根ってあります? 素人でも育てられるような」
──何気ない思いつきだったが、気を紛らわせるにはいいかもしれない。
「ございますよ。季節的に種類は限られてきますが。お好みやご希望はどういった感じでしょう」
話しながら、彼に続いて店内に足を踏み入れる。
「私、全然詳しくないんです。チューリップなら簡単よね?」
燈里の言葉に、店員は少し困った素振りを見せた。
「いえ、その。チューリップを植えるには時期が合わないんですよ。そろそろ四月になりますし、ちょうど咲き始めるくらいですから」
そういえば春の花だった、と納得して、専門家に任せることにする。
「そうなんですね。じゃあ、何がありますか?」
「春植え球根なら、ダリアやグラジオラスが育て易くておすすめです。綺麗ですよ」
店内のコーナーで、彼が開花写真付きの球根を手に取って教えてくれる。まったく傾向は違うものの、それぞれ豪奢でいて可愛らしい花。
本来の燈里の好みに近い。さすがプロというところか。それとも単なる偶然?
けれど、今はもう少し──。
「あの、できたら。……あんまり派手じゃないっていうか、もっとおとなしめの花がいいんですけど。すみません」
いつも選んでいたタイプと違うと思われるだろうか、と一瞬危惧したが、彼は客商売だけあって余計なことは口にも顔にも出すことはなかった。
「でしたらサンダーソニアはいかがですか? 別名クリスマスベルですが、その名の通り釣り鐘みたいなとても可愛らしいお花です。育てるのもそれほど難しくありませんよ」
店員が新たに手にしたパッケージの中身は、V字型というのか随分変わった形状の球根だ。
添えられた写真には、柔らかなオレンジ色のベルにもランプにも似た小さな花。ランプ、──灯り。
燈里の名の。
「これにします」
考える前に、するりと言葉が滑り出た。
「あ、でもマンションなんですけど、植木鉢で大丈夫かしら? ベランダが狭いから、大きなプランターはちょっと……」
後から湧いた懸念も、彼が難なく消してくれる。
「鉢植えで十分ですよ。おうちに土や鉢はお持ちですか?」
「いえ、何もないの。どういうものが要るんでしょう」
知らないことは素直にプロに任せた方がいいだろう、と燈里は店員に尋ねた。
「とりあえず必要なものを揃えます。鉢はその中段から、お好きなのを選んでください」
彼が指し示す棚にサイズ別に並べられた植木鉢は、まったく知識のない燈里には意外なくらいバラエティに富んでいた。
色や形、質感や素材も様々。中には絵の描かれたものもある。
燈里が迷いつつ品定めしている間に、彼は小分けにされた土やアンプル型の液体肥料をカウンターに運んで来た。
「土は混ぜ合わせて作るのもいいですが、初心者の方ならこの培養土で大丈夫です。鉢の底にまずこちらを敷いて土を入れます。で、球根を少し間を空けて寝かせるように置いて、上からまた土を被せて──」
彼が植え方から水やりの方法まで懇切丁寧に説明してくれるのに、燈里は真剣に耳を傾ける。
水なんて朝晩適当に与えればいい、くらいのいい加減な意識を持っていた燈里には、すべてが聞き漏らせなかった。
「球根が独特の形で折れやすいので、それだけご注意ください。だいたい一か月くらいで芽が出ますから」
「ありがとう。えっと、お花屋さん」
相手の名を知らないため咄嗟に妙な呼び掛けになってしまったが、店員は微笑んで名乗る。
「白石です。白石 樹」
店名は『Florist Shiraishi』。今は不在のようだが、以前来店した際に何度か目にした壮年の男性が店主で、やはり樹はその息子なのだろうか。
「白石さん、わからないことがあったらまたお訊きしていいですか? 本当に何も知らないので」
「もちろんです。いつでも、何でもどうぞ」
社交辞令でもなんでもなく、確実に訪れる未来に備えた燈里に、彼は笑みを絶やさず静かに頷いた。
会計を済ませ、燈里は荷物を抱えて店を出る。
今日はもう日も暮れたので、植えるのは週末にするつもりだ。知らず足元が弾んで、軽くステップを踏む。
こんな晴れやかな心境になるのは久しぶりだった。
◇ ◇ ◇
仕事の行き帰り、燈里は毎日『Florist Shiraishi』の前を通る。
出勤時は開店前だが、帰宅時に樹が外に居たら会釈して、多少言葉を交わすこともあった。
しかし、普段はわざわざ店内を覗くようなことはしない。花を買わないなら客ではないのだから。
「やっと芽が出たんです!」
今朝は出勤前に鉢植えを確認して、発芽に気づいたのだ。
夕方、絶対店に寄って樹に報告しなければ、と一日中そわそわして過ごしてしまった。
「それはよかった。四十日というところですから、予定通りの範疇ですよ」
「でも結構長かったわ。一か月過ぎてからは毎日ハラハラしてました。このまま出なかったらどうしようかって不安で堪らなかった」
「初めてだったら心配ですよね。でも、えーお客さまはきちんとお世話してらしたから」
そういえば、彼の名は聞いたが自分は名乗っていなかったと今更のように思い至る。
「ごめんなさい。私、波多です。波多 燈里」
「波多さま──」
樹が言い掛けるのを、思わず燈里は制止してしまった。
「『さま』は止めてください。居心地悪いわ。……客相手だからお気持ちはわかりますけど」
「了解しました、それでは波多さん。これからも、少しでも気掛かりがあったら何でも訊いてください。アフターフォローも当店の売りです」
営業スマイルだとわかってはいても、優しい笑顔を向けられるのは嬉しい。
「白石さん! 蕾がついたの!」
仕事が休みの土曜日。
燈里は朝起きて、葉の間に初めての蕾を見つけるなり居ても立っても居られなくなった。『Florist Shiraishi』を訪ねて樹に捲し立てたあと、ようやく我に返って左右を見回し、他の客が居ないことにほっと胸を撫で下ろす。
「ああ、よかったですねぇ」
カウンターで花束を作っていた店主が、笑顔で声を掛けてくれる。彼が樹の父だというのも、発芽以来足繫く通ううちに知った。
「いつもくだらないことですみません……」
恐縮して詫びる燈里に、店主は首を左右に振りながら朗らかに返して来る。
「とんでもない! 切り花ならまだしも、球根を売りっ放しであとは知らないなんて言う花屋の方がどうかしてますよ。大事に育ててもらってて、何よりです」
「その通りです。遠慮は無用ですから。いよいよですね、波多さん。本当に可愛い花なんですよ」
父親の言葉に、樹も同調した。
我が事のように喜んでくれる樹。
たとえ客あしらいの一環だとしても、心地よさに変わりはない。実際に、彼と燈里の関係は単なる店員と客なのだから。
「楽しみです! ……やだわ、なんでこんなに嬉しいのかしら」
「当然じゃないですか? 僕も仕事でやってても嬉しいですよ」
樹の優しい声。本当に花が好きなのだと伝わる。
花を扱う甘く夢見がちなイメージとは裏腹に、生花店が重労働なのは門外漢の燈里にも容易に想像はついた。
好きでなければできない仕事だろうことも。
「咲いたら是非教えてくださいね」
「もちろん! 写真撮って来ます」
これ以上彼の仕事の邪魔をするわけにいかないので、燈里はそこで会話を切り上げ店を後にした。
出掛けて来たついでに、商店街の並びのカフェに入る。
少し早めのランチタイム。朝抜きだから、それこそブランチだろうか。
ひとりの食事にも拘わらず、自然口元が緩むのがわかった。