日の出
一日が早くなってきた。吐き出す息も白くなった。空浮く雲の幾らかも、以前と比べて薄く広い。鼻を通る寒冷の空気が少し痛む。自然と口が開き、暫くして喉の内側が嫌な味を舌に伝えた。釣具の入ったバケツを握る。しわに包まれた固い指先が赤くかじかんだ。夕方、足取りはおぼつかない。ふらふらしている訳では無い。ただ、体を支える足の諸々が弱っているというだけのことである。ただ、それだけである。
何度も通い詰めた道だ。玄関のドアノブを開けて、右に出て、長い一本道の先にぼやける青白の海に歩くだけ。なにも難しいことではない。
前はもっと早かった。こんな辺りの暗くなってきた頃ではない。それどころか辺りが明るくなってきた日の出の刻に、自分は必ずここを歩いていた。
当時、私は道の端に並ぶ店の様々に立ち寄った。魚屋の店主に餌を貰ったり、歩きながら食べる豚の串焼きをいくつか買ったりした。それから帰りのお土産、くだらない骨董品、時偶出会う旧友との立ち話。そんな事をしているうちに、気づけば辺りが暗くなってしまっていることも多かった。
今はほとんどシャッターで閉じられてしまって、からがら残っていた最後の魚屋は、店主の持病で昨日閉じられることになった。すっかり人通りも無く、この長く閑散とした古い一本道は、遠い向こうに漂う海を、ただただ静かに、眺めるだけである。
道も半ばと言った所、ついに太陽はその姿を海の向こう側へ消してしまった。白熱電球の黄色い街灯が、地面を小さく軟に照らす。時折切れては、またつき直す。私も足元に注意して進んでいく。
とうとう、私は砂浜に降りる苔むした石の階段にまで辿りついた。鉄の手すりに赤い指を添えて、一段一段、しっかりと下ってゆく。おぼろげな地面を踏み外さないように、滑らないように。怖くないように。
砂浜はまだほんのり光があった。遠くは暗く見えないものの、突き刺さった白い貝殻がはっきりと捉えられた。打ち返す波が淡く音を知らせる。
バケツに入れていた釣り竿と、餌の袋と、それから予備の部品を取り出して、地面に置いた。余ったバケツはひっくり返して、波打ち際に椅子として置いた。
ひゅん。釣り竿を伸ばした。
ちゃぷん。目印が波に揺れて、行ったり来たりしている。空は先程より暗さを増した。この時期は釣れにくい。それに波も少々荒い。小さな魚なら、全く気付けないかもしれない。
こうなると、確かな手応えがあるまで暇なものである。流れる雲を横目に、
突如、肩を叩かれた。
思わず釣り竿を落としてしまった。
びっくりして、後ろを勢いよく振り向いた。
そこには、一人の背の高い青年が立ち尽くしていた。体は細身だが、バランスの良い体格をしている。なんとなく古臭いパーカーを身にまとったこの男は整然と
「今日は釣れそうですか」
と言った。
そう、話しかけられた。心臓が激しい。
「誰ですか」
質問にも答えず、自分の疑問が真っ先に口から飛び出した。恐怖によるものであった。今すぐ帰りたい。来なければよかった。そう思った。対して青年は平然と
「今日は釣れそうですか」
そう同様に返した。顔は暗く、フードを被っている為よく見えない。立ち上がろうにも腰が抜けてしまっている。
「いいや、今日は釣れなさそうだ」
焦る心を塞ぎながら、そう答えた。
青年はそれを聞くと
「そうですか」
と、ただ一言だけ呟いた。それから、何も喋ろうとしなかった。
私は落とした釣り竿を拾った。あくまで冷静を保とうとした。糸を巻き、もう一度投げる。
ひゅん。先程より、巻かれた糸が伸びなかった。
ちゃぷん。揺れる波に目印が吸い込まれた。波も強くなってきた。肌を抜ける風が心地悪く髭を撫でる。
寄せ返す波音に紛れて、砂浜の擦れる、ざくざくとした足音が私の真横に来た。既に真暗な空を横目に、もはや一つのシルエットとなった人の姿を見る。
「私には父母がおりません」
青年は突然そんな事を言った。あまりにも突飛が過ぎて、思わずまた、釣り竿を落としてしまうところであった。
「それは、大変ご苦労されたのですね。」
何かこれより、もっと色々聞こうとした。だが、言葉に詰まり思うよう出てこない。青年は少し間を置いて、再びその口を開いた。
「いえ、実はそれ程苦労をしておりません。私には、信頼の出来る優しい祖父母がおりましたから。」
だしぬけに心臓が弛んだ。それは青年に対する緊張が何となく解けた為である。どうして解けたのかは省みても定かでない。しかし、ある内奥の共通項が、青年と私との間で透明に繋がった気がしたからだとも思う。私は竿を安定させ、そして青年は続ける。
「しかしながらその関係は再び断絶してしまいました。それも丁度この海で。」
また、魚を探す手が止まってしまった。もう何度目か分かりもしない動悸が発現する。幾ら何でも敏感すぎるとも思う。しかし彼の登場から、それこそ家を出ようと準備したあの時から、どうにも落ち着かないこの心情は存在していた。いや、だがそれも不的確だ。
共通項が、透明なパイプが現実味を帯びてくる。それどころか繋がっていると言う認識すら極小な程に、その勝手な感性は肥大化する。口から言葉が漏れた。
「あなたは…」
「ええ、私は、」
そこまで言って彼は黙った。私の心臓は未だ揺れるほどの拍動をやめない。
青年は少し深呼吸をしたあと、私の前方へ歩き出した。顔は海の方を向いている。まもなく、そして青年は柔らかな声で話し始めた。
「転生という物を信じますか。」
想像と違う問い掛けだった。勿体ぶっているのか、それとも話題を変えたいのか私には分からない。パイプが薄れた気がした。
「信じているよ。そうであってほしいとも思っている。」
これは本心だ。嘘偽り無くずっと願っていたことだ。それを聞くと青年は再び深呼吸をし、私に向けてつま先を指した。
やはり顔は見えない。そう思っていると青年の方から近づいてきた。足取りはゆっくりで、砂の潰れる音が波音よりも大きく感じる。
っ。
ようやく見えた彼の顔には、痛々しい裂傷が頬に刻まれていた。しかし、それ以上に、
その顔は、確かにあの日失った可愛い孫の姿であった。
「裕太、」
「あああっ。裕太、裕太ぁ。」
私の叫びが波に掻き消される。溢れる涙は砂浜に落ち、どこかへ消えていく。
「ごめんなぁっ。ごめんなぁっ。俺が、俺がここに連れてこなければ、俺がちゃんと見てさえいればっ。」
青年は、私の言葉をただただ黙って聞いている。私は彼のズボンへ赤い指を握らせ、彼から離れないようにする。
ひとしきり私が泣いた後、彼は静かに口を開いた。
「おじいちゃん、言うのが遅れてごめん。やっと、やっと人になれたよ。どうにも魚のまんまじゃ貴方に気づいてもらえないらしくて。」
食べちゃった。