表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

日の出

作者: 伊能忠敬

 

 一日が早くなってきた。吐き出す息も白くなった。空浮く雲の幾らかも、以前と比べて薄く広い。鼻を通る寒冷の空気が少し痛む。自然と口が開き、暫くして喉の内側が嫌な味を舌に伝えた。釣具の入ったバケツを握る。しわに包まれた固い指先が赤くかじかんだ。夕方、足取りはおぼつかない。ふらふらしている訳では無い。ただ、体を支える足の諸々が弱っているというだけのことである。ただ、それだけである。


 何度も通い詰めた道だ。玄関のドアノブを開けて、右に出て、長い一本道の先にぼやける青白の海に歩くだけ。なにも難しいことではない。


 前はもっと早かった。こんな辺りの暗くなってきた頃ではない。それどころか辺りが明るくなってきた日の出の刻に、自分は必ずここを歩いていた。

 当時、私は道の端に並ぶ店の様々に立ち寄った。魚屋の店主に餌を貰ったり、歩きながら食べる豚の串焼きをいくつか買ったりした。それから帰りのお土産、くだらない骨董品、時偶出会う旧友との立ち話。そんな事をしているうちに、気づけば辺りが暗くなってしまっていることも多かった。

 

 今はほとんどシャッターで閉じられてしまって、からがら残っていた最後の魚屋は、店主の持病で昨日閉じられることになった。すっかり人通りも無く、この長く閑散とした古い一本道は、遠い向こうに漂う海を、ただただ静かに、眺めるだけである。


 道も半ばと言った所、ついに太陽はその姿を海の向こう側へ消してしまった。白熱電球の黄色い街灯が、地面を小さく軟に照らす。時折切れては、またつき直す。私も足元に注意して進んでいく。


 とうとう、私は砂浜に降りる苔むした石の階段にまで辿りついた。鉄の手すりに赤い指を添えて、一段一段、しっかりと下ってゆく。おぼろげな地面を踏み外さないように、滑らないように。怖くないように。


 砂浜はまだほんのり光があった。遠くは暗く見えないものの、突き刺さった白い貝殻がはっきりと捉えられた。打ち返す波が淡く音を知らせる。


 バケツに入れていた釣り竿と、餌の袋と、それから予備の部品を取り出して、地面に置いた。余ったバケツはひっくり返して、波打ち際に椅子として置いた。


 ひゅん。釣り竿を伸ばした。


 ちゃぷん。目印が波に揺れて、行ったり来たりしている。空は先程より暗さを増した。この時期は釣れにくい。それに波も少々荒い。小さな魚なら、全く気付けないかもしれない。


 こうなると、確かな手応えがあるまで暇なものである。流れる雲を横目に、

 

 突如、肩を叩かれた。

 思わず釣り竿を落としてしまった。

 びっくりして、後ろを勢いよく振り向いた。


 そこには、一人の背の高い青年が立ち尽くしていた。体は細身だが、バランスの良い体格をしている。なんとなく古臭いパーカーを身にまとったこの男は整然と


 「今日は釣れそうですか」

 と言った。


 そう、話しかけられた。心臓が激しい。


 「誰ですか」


 質問にも答えず、自分の疑問が真っ先に口から飛び出した。恐怖によるものであった。今すぐ帰りたい。来なければよかった。そう思った。対して青年は平然と


 「今日は釣れそうですか」


 そう同様に返した。顔は暗く、フードを被っている為よく見えない。立ち上がろうにも腰が抜けてしまっている。


 「いいや、今日は釣れなさそうだ」

 焦る心を塞ぎながら、そう答えた。

 青年はそれを聞くと


 「そうですか」

 と、ただ一言だけ呟いた。それから、何も喋ろうとしなかった。


 私は落とした釣り竿を拾った。あくまで冷静を保とうとした。糸を巻き、もう一度投げる。


 ひゅん。先程より、巻かれた糸が伸びなかった。


 ちゃぷん。揺れる波に目印が吸い込まれた。波も強くなってきた。肌を抜ける風が心地悪く髭を撫でる。


 寄せ返す波音に紛れて、砂浜の擦れる、ざくざくとした足音が私の真横に来た。既に真暗な空を横目に、もはや一つのシルエットとなった人の姿を見る。  


 「私には父母がおりません」


 青年は突然そんな事を言った。あまりにも突飛が過ぎて、思わずまた、釣り竿を落としてしまうところであった。


 「それは、大変ご苦労されたのですね。」


 何かこれより、もっと色々聞こうとした。だが、言葉に詰まり思うよう出てこない。青年は少し間を置いて、再びその口を開いた。


 「いえ、実はそれ程苦労をしておりません。私には、信頼の出来る優しい祖父母がおりましたから。」


 だしぬけに心臓が弛んだ。それは青年に対する緊張が何となく解けた為である。どうして解けたのかは省みても定かでない。しかし、ある内奥の共通項が、青年と私との間で透明に繋がった気がしたからだとも思う。私は竿を安定させ、そして青年は続ける。


 「しかしながらその関係は再び断絶してしまいました。それも丁度この海で。」


 また、魚を探す手が止まってしまった。もう何度目か分かりもしない動悸が発現する。幾ら何でも敏感すぎるとも思う。しかし彼の登場から、それこそ家を出ようと準備したあの時から、どうにも落ち着かないこの心情は存在していた。いや、だがそれも不的確だ。


 共通項が、透明なパイプが現実味を帯びてくる。それどころか繋がっていると言う認識すら極小な程に、その勝手な感性は肥大化する。口から言葉が漏れた。


 「あなたは…」

 「ええ、私は、」


 そこまで言って彼は黙った。私の心臓は未だ揺れるほどの拍動をやめない。


 青年は少し深呼吸をしたあと、私の前方へ歩き出した。顔は海の方を向いている。まもなく、そして青年は柔らかな声で話し始めた。


 「転生という物を信じますか。」


 想像と違う問い掛けだった。勿体ぶっているのか、それとも話題を変えたいのか私には分からない。パイプが薄れた気がした。


 「信じているよ。そうであってほしいとも思っている。」


 これは本心だ。嘘偽り無くずっと願っていたことだ。それを聞くと青年は再び深呼吸をし、私に向けてつま先を指した。


 やはり顔は見えない。そう思っていると青年の方から近づいてきた。足取りはゆっくりで、砂の潰れる音が波音よりも大きく感じる。


 っ。


 ようやく見えた彼の顔には、痛々しい裂傷が頬に刻まれていた。しかし、それ以上に、


 その顔は、確かにあの日失った可愛い孫の姿であった。


 「裕太、」


 「あああっ。裕太、裕太ぁ。」


 私の叫びが波に掻き消される。溢れる涙は砂浜に落ち、どこかへ消えていく。 


 「ごめんなぁっ。ごめんなぁっ。俺が、俺がここに連れてこなければ、俺がちゃんと見てさえいればっ。」


 青年は、私の言葉をただただ黙って聞いている。私は彼のズボンへ赤い指を握らせ、彼から離れないようにする。


 ひとしきり私が泣いた後、彼は静かに口を開いた。


 「おじいちゃん、言うのが遅れてごめん。やっと、やっと人になれたよ。どうにも魚のまんまじゃ貴方に気づいてもらえないらしくて。」





食べちゃった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ