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夜明けのように

《夜明けのように》



 目の前に不思議な女の人がいた。

 それはいつもと何も変わらない、無機質な病室。ベッドから動けない私の周りにはたくさんの機械があって、それぞれが光ったり電子音を出したりしている。

 そんな病気の私が横になっているベッド、その足元に、女の人が座っていた。

 不思議と、怖くはなかった。

「聞こえる?」

 夜明け間近の薄暗い病室に彼女の声が響いた。そのささやくような声に、私は反応することができない。

 すると、白いベッドのふちに腰かけていた彼女がゆっくりと立ち上がった。私はそれを、視線だけを動かして見る。彼女はすらりと細く、背が高い。まとう服はもやのような乳白色で、かすかな光が透けて不思議な色になる。彼女が1歩ずつこちらに近づくたび揺れるスカートは、その色を妖しく変化させる。

「おはよう。あら、ずっと起きてたかしら?」

 その通りだ。でも声を出してそれを伝えることはできない。

「じゃあ、こんにちは。私が見える?」

 私の枕元に寄り、こちらに顔を近づけた女性はふんわりと笑った。透き通るような白い肌に、吸い込まれそうな深い黒の瞳。真っ赤な口紅の塗られた唇が私にささやきかける。

 私は目だけで、あなたが見えると訴えた。

「無理しないで、伝わるからね。それじゃあさっそくだけど、私の話を聞いてくれる?」

 彼女の腰まである長い黒髪がさらりと垂れ、細い指が耳にかけ直した。密室で風なんて全く吹いていないのに、彼女の不思議な服とさらさらな髪は常に少しだけ揺れている。

 なぜか不思議と、少しも怖くはなかった。現実離れした出来事に怯えていることもなかった。ただ無感情に、彼女の話に耳を傾けた。

「幸運なあなたへ」

 その言葉で始まった彼女の話は、最初は儀式的な口調だった。

「あなたは今日亡くなります。けれど私により一瓶分の未来を授かりました」

 今日、死ぬ。そんなことをいきなり言われても、さして驚かなかった。

 それよりも後半が気になった。一瓶分の、未来。

 彼女が無言で私の枕元に何かを置く。なんとか首を動かして見ると、小ぶりな瓶とペンだった。

 白いシーツに沈む瓶に手を添えて、彼女は言う。

「これが、インク。あなたはこのインクとその万年筆を使って、自分の未来を書くことができるの」

 落ち着いた小さな声には不思議がつまっていた。

 彼女がくれた瓶に入ったインクは、部屋が暗いせいで黒にしか見えなかった。でも本当の色は違うような気もした。

 それから、ペンのほうは万年筆のようだ。キャップを開けてみることはできないけれど、万年筆といえばあの、祖父が持っていたようなものだろう。ペン先が金属でできているものだ。

「気を付けてほしいのはね、必ずこのペンとインクを使うこと。それと、生きているうちは未来をちゃんと書き続けること。自分で書かないと、時間が進まなくなるからね」

 そんなことを言われても。管がたくさん刺さったこの手ではペンも握れないし、まず起き上がることができない。

「それから、あなたが書いた未来には、あなた自身の願望をいくらでも書いていい。それは必ず叶うから。でもね、人の生死に関わるような願い事は叶わないから、書かないようにね」

 私は落胆した。

 それじゃあ、私がそんな不思議なものを受け取っても意味がないからだ。どうせ私は病気で死ぬ。今じゃなくても、きっといつかは死ぬ。長く生きたってずっと病気と一緒に過ごすだけだ。病気が治る未来を書いても、それは死ぬことに関係してるからきっと実現されない。

 これは私の苦しさが生んだ夢なのだろうか。それとも走馬灯の類のものか。

 なんだかどうでもよくなってきて、瓶とペンから目をそらした。

「このインクが、瓶の中から全てなくなってしまうと、あなたは人生を終えることになる。あら、ごめん。嘘。瓶だけじゃなくて、ペンの中のインクもなくなってしまうと、あなたは……」

 彼女は自分の言い間違いに軽く笑った。最後、言葉を切ったので、気になって彼女の方を見てしまう。

 目が合うと、彼女は微笑んで、私の額に手を当てた。温度は何も感じなかった。

「そういえば、あなた今の状態じゃペン握れないわね。でもこのままじゃ時間が進まないから、夜が明けないわよね……」

 明けない夜はない。そんなたくさん言われてきただろう言葉を思い出した。彼女の言うことが本当なら、私は今、明けない夜にいることになるが。

「うーん、少しだけ()()違反にはなるけれど、仕方ないか。お嬢さん、この部屋に何か紙はある?」

 そう言って立ち上がった彼女に、ほんの少しだけ頷いてみせた。

 それを見て近くの棚に歩み寄る彼女の背中は、これ以上ないくらいに儚い。すぐに、霧が晴れるように消えてしまいそうに思えたけど、彼女はちゃんと私のほうに戻って来た。

 彼女は棚から取った一枚の便箋を膝に乗せ、インク瓶とペンを優しく手に取った。紙に向かって何かを書いているその背中が、なんとなく懐かしく温かいものに見えた。

 夜明けの暗さは、彼女が現れてから全くもって変化していない。

「よし、これでいい」

 ひとり言のように呟いて、彼女は全てのものを隣の棚の上に置いた。瓶と棚の触れる音が静かな病室に響く。

「それじゃあね」

 彼女は立ったまま、こちらを振り向いている。

 揺れる服と髪と儚い声は、現実のものには見えなかった。

 次の瞬間には彼女はいなくて、そしてそれに驚く暇もないくらいすぐに、私の意識は消えた。

 気がつくと、夜は完全に明けていた。

 そして、心の底から驚くべきことが起こった。

 ここ数日が山だ、と医者から言われていた私が、自らの力で起き上がることができたのだ。

 自分でもよくわからないくらい自然に上体を起こして、数秒遅れて私を驚きが襲った。

 これは夢か、いやもう死んだのか、夜中のあれはなんだ? と混乱した勢いのまますぐそこの棚を見て、はっとした。

 そこには、一枚の便箋があった。

 空色の便箋には、濃紺の文字が並んでいた。便箋の半分ほどを埋めるそれは、見覚えがある気もするけど何も思い出せないような筆跡だった。1行目にはこうあった。

『日が昇るまで眠る。朝起きると、文字を楽に書けるほどにまで病状が回復する。』

 その便箋を手に取って、気づいた。

 昨日の女性が書いたんだ。

 見ると、便箋の横に、インク瓶と万年筆もちゃんとあった。キャップを外してペン先を見ると、銀色のペン先には少しだけインクが付いていて、ちゃんと使った跡がある。

「夢じゃない……?」

 久しぶりに声を出して、気づく。久々過ぎて声がかすれていることはもちろん、その前にどうして声が出せるんだろう。どうして口元を覆うマスクがついていないの? それなのになんで息がちゃんとできるの?

 顔を触ると、鼻から管が出ているだけで、昨日までみたいな酸素マスクはついていなかった。そうか、それがつけられていないから起き上がれたのもある。

 今までの瀕死の状態か、今の大分楽になった状態か、どっちが夢なのかわからなくなった私のもとに、しばらくして先生たちが来た。

 そして、どっちも夢じゃないと知った。

 だから、私は夜明けの中現れた彼女のことも信じた。

 彼女が言っていたことは全て、あのペンとインクの力も、きっと本当なんだ。

 改めて彼女が書いた文章を読み返すと、3日分の未来を書いてくれていた。彼女が書いた私の未来によって、医師の言うように「奇跡の回復」が起こった。しかし病床から動けないのは変わりないし、最初の1日以外は、他の人から見たら微々たる回復だと思う。

 でも、違う。私と医者からしたら、奇跡だった。

 インクの力を確かめるために何も書かないでいると、本当に時間が止まった。3日後の正午だ。窓から外を見ると、車や人々も動画の停止ボタンを押したみたいにぴたりと止まっていた。窓から外を見るなんて、数日前までの私では考えられなかった。

 ふとあることを思い出して、私は棚に寄った。あの不思議な女性はここから便箋を取ったのだろうと思いながら、あるものを捜す。

 見つけた空色の封筒を手に取り、中身を出して読んでみた。なんともめちゃくちゃな文だ。しかも途中で力尽きて書くのをやめている。

 中途半端に終わってしまっているその手紙は、遺書ではない。たったひとりの愛する人、私が入院する前からの恋人に宛てようとしたものだった。

 時間を進めるために未来を書く前に、私はその手紙をそっと隠した。



 私はあの不思議な女性に倣って、自分の未来を書き続けた。

 彼女は最初の1日を除いて、病気が快方へ向かう未来の文には必ず『徐々に』や『少しだけ』など、ゆっくりゆっくり回復できるような言葉を付けていた。だから私もそうした。ゆっくり、ゆっくり、驚かれはしても現実なのか疑われることはないように、少しづつ少しづつ回復していけるような未来を書いた。病院の先生も、彼も、不審に思うことはなく、ただ驚いて喜んでくれた。

 もちろん、インクを消費しすぎないように気を付けた。インクが切れると私の人生も終わる。でも、それはひどく悲しむようなことではない。あの女性が現れなければ、私はとっくに骨になっていたのだ。病気に殺されていたのだ。今は違う。インクに生かされている。私に手のひらに収まる分の未来しかないとしても、充分すぎるほどに幸せだった。

 私は少しずつ元気を取り戻していった。彼は私の回復を毎日喜んでくれた。私がどんなひどい状態になっても、私の前で取り乱すようなことはない穏やかで冷静な彼だが、喜びは素直に表してくれる。そういうところも好きだ。

 病気で身体も心も苦しくて、そんな私を見ていつも暗い顔しかしない家族や先生の中、彼だけはいつも同じ笑顔を向けてくれた。それが私にとってどれだけ救いだったことか。

 今日も彼はお見舞いに来て、言葉少なに学校でのことを話してくれた。彼は高校生だ。私も彼と同い年だけれど、高校生にはなれなかった。そのことが心底悔しい。私も高校生になって制服を着たかった。彼と並んで学校に行きたかった。

 でもそんな憧れも病気のせいで、もう叶うことはない。不思議なペンとインクのお陰でまだ生きられるとしても、時間を戻すことはさすがにできない。

 元気になっていくにつれ、今まで余裕がなくて考えもしなかったことを多く思うようになった。高校のこともそう。小学生以来一度も会えていない友達のことや、私だけ死に目に会えなかったおじいちゃんのこと。みんなが当たり前に持っている未来への希望や、もっと現実的に言えば大学や就職のこと。暇さえあれば私は、後ろや斜め上を見つめるようになった。そして我が身を恨んだ。

 病気さえなければ、私ももっと。

 インクとペンをもらってしばらくして、私に繋がれた管が徐々に減っていったある日、久方ぶりに家に帰ることを許された。1日だけだけど。

 無気力な笑顔の父と一緒に帰宅し、これもまたかなり久しぶりに母と向かい合った。

 本物の母ではなく写真の母だ。

 母はもう覚えていないくらい幼い頃に亡くなったようだ。記憶にないからなにもわからない。ただ、私と同じ病で亡くなったことは他の家族から教えられて知っていた。私と同じ病、というよりは、母の病気が遺伝するものだったから、母と同じ病に私が罹ったということも。

 夕方までには兄も実家に来ることを父から聞き、それを楽しみにしながら待った。暇していると彼から写真が送られてきた。校内に迷い込んだ野良猫を盗撮したらしい。何してんだ、と笑ってしまう。

 ふと、未来どこまで書いたっけと思い立ち、椅子に置いていた手提げバッグからノートを取り出した。見ると、明日の分まではすでに書いてある。今日の分の文章を見て、少しだけにやりとした。

 そこには「実家に帰って兄と会う」と書いてある。書いた望みが叶うのは本当だったのだ。

 何もすることがないので、ぼーっと考えて暗い気持ちになって何かしようと思って、今まで書いた、すでに過去となった未来を読み返していた。すると、玄関が開く音に続いてリビングの扉が開けられる。さっとノートを閉じて、社会人らしい格好をした兄に労いの言葉をかけた。

 兄は一通り私の回復への喜びを口にしたあと、私の隣の椅子に座って「そのノート何?」と聞いてきた。日記だと答えると、納得してそれ以上は何も聞いてこなかった。

 兄は少しだけ最近の仕事の話をしてくれた。忙しいせいで入院中全く会いに来られなくてすまない、とも。

 そうなのだ。兄はものすごく忙しい。今みたいに、平日の夕方に実家のリビングでゆっくりするなんて、いつもの兄じゃ考えられないだろう。だから、今ここに兄がいるのはやっぱりあのペンとインクの力だ。

 もう二度とないと思っていた、家族3人揃った夕食をとり、夜は各自好きなように過ごした。こんなにも久しぶりだというのに、夕食時は至極静かなものだった。それも、みんながみんな話し下手で寡黙だから仕方がない。亡き母もおっとりして物静かな人だったらしいし、我が家にはそういう遺伝子しか存在しないのだ。

 食後、私は健常者では考えられないような量の薬を飲まなければいけなかった。それと、簡易的な検査のようなものもしなければならない。

 私の厳しい現実を形にしたような、おびただしい量の医療品を見ても、見慣れていたからか、落ち着いているからか、父も兄も特に反応は見せなかった。

 明日には病院へ戻らなければいけない。それを自分なりの気持ちの大きさで残念に思いながら、寝床でまたあのノートを開いた。自分の書いた未来を確認して、明日より先の分ももう書いてしまおうかと思ったけどなんとなくやめた。

 兄は泊まらずに仕事に備えて帰るようだ。私のいる和室に顔を出した兄に別れの言葉を交わしながら、忙しくも元気に働く兄の姿が眩しく見えた。

 兄は私とは違い、幼い頃から身体は強かった。母が亡くなった時の忌引がなければ、本当に義務教育と高校通じて無欠席だったらしい。私だったら信じられない。

 元気に生きて青春もしていた兄を、羨ましいとかはあまり思ったことがなかった。同じく元気な彼のことも、羨んだことはない。

 誰かに羨望の目を向けることはあまりなくて、私が見つめるのはいつも自分自身だった。身体を恨んで、呪いの目でじっと見ていた。

 寝て起きたら、朝になっていた。朝の光も、元気な家族のように眩しく見えた。



 いくつか季節が巡って春になり、彼が高校を卒業した。

 私は相変わらず病院にいる。あれからも病気が段々と良くなる未来を書き続けてはいるけれど、急に少し悪くなることもあって、まだ全治には至っていない。

 私の目標はそれなのだが、そもそも完全に治る未来なんて実現しないのかもしれない。病状が突然悪化するといつも、それがインクの力でも抗えない「生死に関すること」なのかと勘繰ってしまい怖くなった。

 彼は大学生になってから、私に会いに来てくれる回数もぐんと増えた。大学生ってなんか自由なんだなぁ、と、学校と言えば小学校と中学の受験期以外しか知らない私は、大学というものに思いを馳せた。なんだか、楽しそうだ。

 大学っていいな、と漏らすと、父などは「大学は何歳でも入れるんだぞ」と励ましてくれるが、私が言いたいのはそういうことじゃない。じゃあ父に言いたい。別に凄く勉強したいとも思ってない大人が、みんな若さを全力で楽しんでるところにわざわざ自分から行って楽しい?

 それを彼はわかってくれているのか、父みたいなことは言わなかった。

 この頃には、未来を書くのはノートじゃなくて分厚い日記帳になっていた。もともとあれは病院で勉強するときに使っていた使いかけのノートだったから、ページはすぐになくなってしまった。

 今日も、未来を切らさないように書き続ける。ペンに深い夜色のインクを溜め、考えながら書いていく。私はあまりうっかりをしない人だったみたいで、わざとやってみた1回を除き、未来を書き忘れて時が止まったことはなかった。

 今日も彼が来てくれて、バイト先の店の裏で集会開いてた猫の写真を見せてくれた。「猫好きだねぇ」と言うと彼は「好きだなぁ」と笑ってくれた。

 写真を撮ったあと、近くの猫に触ろうと思ってそっと近づいていたら、病気持ってるかもしれないからやめときなさい! と女店長に見つかって叱られたらしい。そんな写真の裏話を聞きながら笑っていると、いつも余計なことは言わない彼が唐突におかしなことを口にした。

「いつか小夜(さよ)と一緒に住んだら、絶対猫ちゃん飼いたい。あ、アレルギーとかあるっけ?」

「…………え?」

「……………………え??」

 目を丸くして、黙ってしまった。

 今、いつか一緒に住んだら、と言っただろうか。そんな、ありえないような未来を。

 いや、ありえなくもないのか。このペンとインクがあれば。でも彼はそれを知らないし、代わりに病気の現実を嫌というほど知っている人物だ。

 だって彼も、私と同じ病で母親を亡くしているから。

 ……となれば、今の言葉の意図は何だ。

「もしかして一緒に住むとか言ったら嫌だった? ごめんね本当に、勝手に変なこと言って」

「いや、いやいやいや、そうじゃなくて」

「そうなの? 良かった。でもそれならどうしたの?」

「…………いや……そんなこと言う感じの人だったかなぁって、思って」

「あー、どうだろ。言ってた気もするけど。ちょっと言うの恥ずかしいから確かに言いにくいかも。でも本心だよ」

 やたらいつもより口数多いし矢継ぎ早に喋ると思ったら、照れてたのか。可愛いな。

 思えば、彼がこんなことを言えるようになったのも、私の病気がだいぶ回復して、日常生活を送れる希望が出てきたからかもしれない。

 昔の、死を待つだけの私相手だったら、さっきの彼みたいな未来への理想なんて持つだけ無駄だった。

 母を亡くし、父と兄弟と共に暮らしてきた彼はとてもしっかりしていて、現実をまっすぐ見ている人とも言えた。そんな彼が、さっきの言葉。もしかしたら、私の回復がよほど嬉しいのかもしれない、なんて思って恥ずかしくなった。

 でも、もしそうだったら、それだけ私のことを想ってくれているということだ。

 この日から私は、自分の無能な身体への恨みだけじゃなくて、彼と暮らす幸せな未来のことも考えるようになった。それが良かったのか、書いた未来の内容はほとんど変わらないのに、病気から回復する速さが以前よりも増していった。



 どっちから告白したとかも、記念日とかもない私たちは、世間的に付き合っていると言えるかもわからない。でもなんとなくお互い恋人であるという認識だし、それでいいことにしている。

 もうこれが私たちのスタイルだし文句は言わせない。文句言うかもしれない近しい人なんて、私側なら家族のふたり以外誰もいないけど。

 そんな私たちは、ちょっと普通とは違う出会い方をした。

 同じ病気で闘病生活を送っていた母親同士が、そのネットワークで知り合った。そして互いの息子と娘が同い歳だと知って、一緒に遊べるだろうと思い引き合わせた。そうして出会ったのが幼い私と彼だ。

 ふたりとも母が病気だから寂しい思いを共有できるだろう、とかそういう配慮は多分ないと思う。難病が何かもちゃんと理解できないような、幼い子供だったから。

 だから私も彼も、出会った時の記憶は全然ない。ただ仲は本当に良かったらしく、私の母が他界してからは彼の母が気を遣って遊ぶことも増えて、いちばんの仲良しになっていった。そんな感じだから、世間的には幼なじみというものなのかもしれない。

 でも、いつかははっきりしないが、どこかのタイミングで確実に、友人から恋人になっている。恋愛っぽいことはほとんどしたことがないのに、いつの間にか互いの意識が変わっていた。なんでだろう。

 不思議にも思うけど、別に私はどうでもよかった。彼と一緒にいれさえしたらいい。

 そしてそんな今までは無駄だった願いも、このインクによってとうとう叶えられる日が来た。

 私の退院が許されたのだ。

 私は初めて本気で、神様に感謝した。

「行こう」

 病院には父だけでなく、兄もそして彼も迎えに来てくれた。例にならって彼も無口だから、やっぱり車内は終始静かだったけど。

 私はそれから1

 年と少しを実家で過ごした。家のことを手伝ったり、たまには近所を散歩したり、通院しながらも自由な毎日を送っていた。

 それでも、いつ止まるかわからない自分の心臓を思って暗くなることはあった。その恐怖は、元気になるごとに増していって拭えなかった。

 インクの力を信じきれていない私がいた。

 だって、生死に関することは動かせないんでしょう?

 散歩の途中、近所の公園で休憩していると、元気な小学生がそばを走り抜けて行った。公園沿いの道路を、高校生が笑いながら自転車で通り過ぎた。

 私は、こんなに屈託なく遊んだり笑ったりしたことがあるだろうか。

 みんながしてきたことを、私だけ経験していなくないか。

 そんなふうに思えてきて、早々に散歩から帰る日も多かった。

 私だけずっと怖い思いをして、回復しても私だけ別のところが苦しくて、でもそんな感情を家族にぶつけるのはあまりに幼稚だとわかっているから、誰にも言わないで毎日を過ごした。

 良いことと言えば、退院できたおかげで、彼と過ごす時間が格段に増えたこととかだろうか。

 就活で忙しくなった彼も、私のことは絶対に置いていかないでくれた。

 同い年の周りからひとりだけ取り残された私だけど、彼といるときはそんな疎外感を感じることも少なかった。彼が気を遣って、私が寂しくなるような話はしないでくれたから。

 そして、就活が無事終わって一段落したときに、私達は一緒に住むことになった。

「私ずっと病院いたから家事とか何にもできないよ? 料理見て引かないでね」

「ちょっと包丁持たせるのは怖すぎるからやめとくね」

「それがいい」

 とは言っても、春から彼は仕事があるし、それに対して私は通院以外にすべきことが今のところ特にない。だから家事くらい私の担当じゃないと分が悪いけど、でも油とか使ったら爆発させそうだな、私。

 大変だな、と思いながらもなぜか心が軽い。

 なんでだろうと考えて気づいた。思えば今まで、ふたりきりになったことが病室以外で一度もなかった。

 そうか、私は嬉しくて浮かれてるのか、と思って恥ずかしくなったけど、ふと感じた幸福にひっそりと感謝した。

「やっぱり今のままじゃ私は専業主婦できそうにないよ。働こうかな」

「身体壊すからやめていただけますかー?」

「ですよねー」

「体調崩されたほうが困るから、何するにしても無理しないでね?」

「そっちこそ」

 洗濯物を手際悪く畳みながらそんな会話をしていたときだった。

 背中が急に温かくなって、動きを止めた。

「え」

「……本気で言ってるから。無理しないでね?」

「…………わかったよ」

 彼は私からそっと腕を離して顔を上げた。

 私は、体調には差し障りがないほうの心臓の苦しさを感じた。

「あなたのせいで心臓止まったらどうしたらいい?」

「えっ」

「無自覚なの?」

「え?」

 天然か? と思って彼の顔を見上げたら、普通に真っ赤になっていて笑ってしまった。

「なにそれー、ふふっ。変なの」

「えー? 変なのって、気障なこと言ってきたのそっちじゃん」

「私なにか言ったっけ?」

「……無自覚なんだね」

 その晩、日記帳に書いた未来を読み返してみた。

『少しは恋人らしいことをしてみたい。』

 もう文体から願望として書いたことだけど、そのまんま叶えられていて驚いた。

 にやつきながら、時間が止まる前に続きの未来を書く。このインクの色とは裏腹に、私の未来は光が差して明るい。

 インクは、まだ3分の1ほども減っていなかった。

 それからも、私達は自分達なりの楽しい毎日を過ごしていった。

 定期的な検査で、少しだけ悪化が見られたときでも、彼は真剣な顔はすれども悲しそうだったり辛そうな顔はしないでくれた。いちばん苦しいのは僕じゃないから、って。

 その態度が、とても私の支えになっていた。

 体調を崩してはまた元気になることを繰り返しながらも、毎日は楽しかった。

 彼といると、病気なんてないんじゃないかと思えるときもあった。

 料理を練習したり、他の家事について彼から習ったり、たまに恋人らしいことをしたり。でも私達のスタンダードはただの幼馴染みたいな関係だから、恋人らしいことをしてはその都度お互いに恥ずかしくなっていた。

 毎日は平和で楽しかった。

 ひとりぼっちじゃなくて、あたたかい日常。

 ――そんな日々で、油断していたんだと思う。

「…………………………」

 今が何時なのかはわからない。

 特に理由もなくふと目が覚めてしまった。窓の外は薄明るいけど、見ようとすればまだ星が出ていそうな暗さだ。

 すぐ隣では彼が眠っている。私が身体を起こしても彼は起きなかった。

 その瞬間、急に猛烈な不安が私を襲った。

 小さい頃からよくあるのだ。夜中に目覚めてしまったときや、家族がそばで昼寝していたとき。

 寝ている人を見ると、どうしてもどうしても怖くなる。

 大人になってからは、流石になかったけれど、子供の頃にそうやって怖くなってしまったときは、生きているのを確かめることで安心していた。誰も見ていないときだけしかできないけど、耳を寝てる人の胸に押し当てて心臓の音を聞いたり、顔を近づけて息をしていることを確認したり。あとは、寝ていたのが兄だったら、揺さぶってわざと起こしたりもしていた。

 疲れているだろう彼を起こすのは流石に気が引けたので、そっと抱きついて心音を聞こうとした。

 安心しないと、私が眠れないから。

「え……………………」

 信じられなかった。

「嘘、え、なんで」

 もう一度彼に触れる。温かい、確実に生きている人の温かさがある。

 でも、鼓動がない。拍動がない。

 脈がない。

「どうして」

 彼の口に顔を近づけるも、やはり息をしていない。

「なんで」

 怖くなって、底まで怖さで満たされて、私は激しく彼の肩を揺さぶった。

 それでも、起きない。

 こんなにも温かいのに。

 そうだ、私が混乱しているせいで心臓の音を感じられなかったのかもしれない。呼吸だって、寝ているときはいつもより小さくなるだろう。

 そうだそうだと思い込み、きつく彼を抱きしめるけど、それでも心肺の動きが感じられなかった。

「なんで………………」

 怖くて、涙も出なかった。

 ただ手足が震えて、怖くて、怖くて、どうしていいかわからなくて、何もできなかった。

 怖さと衝撃で震えていた。

 知らなかった。

 大切な人が死ぬのが、こんなにも怖いなんて。

 悲しいよりも、苦しいよりも、怖さがいちばん大きいなんて。

「起きてよ」

 怖くて、心臓が刺すように痛かった。

「ねえ………………」

 夜明けの光だけしかない暗い部屋に、私の声だけが響く。

「なんで…………!」

 ただ眠っているようにしか見えない彼の顔を見つめて、もっと怖くなった。

 いつもの寝顔なのに、どうしてもこの目が開かないなんて。

 そんなの。

「……ひどいよ」

 知らないよ、大好きな人がいなくなるのがこんなに怖いなんて。

 大好きな人が。


「…………………………………………」

 

 自分はもう死ぬだろうって思ったとき、こんなに怖かったっけ。

 いいや、怖くなかった。なんにも思っていなかった。

 それに、こんなに怖い思いをしていた人、いたっけ。

 私はこんなに怖くてたまらないけれど、でも。

 きっと私の死をこんなに怖がってる人は、いなかった。


 いや。

 違う。

 そんなはずはない。


 彼だって私のことを大切に想ってくれているはずだ。

 彼だって私と同じように、私のことが大好きなはずだ。

「…………………………」

 そうか。

 怖かったんだ。

 彼も、怖かったんだ。

 こんなにも。

「そっか……」

 ……彼に言いたかった。

 ごめんね、こんなに怖かったんだね。

 私が何度も何度も何度も死にかけて。

 ただでさえ、同じ病気でお母さんを亡くしたのに。

 しかも私と違って、そのことをちゃんと覚えているのに。

 お母さんが亡くなったときも、私が死にそうになったときも、怖がってる素振りなんて見せないで、いつも優しい顔をしていて。

 隠してたんだね。

 怖いに決まってるよね。

 ああ、こんなに、震えるほどに怖いなんて。

 それなのに私は、いっつも自分のことばっかりで。

 元気になっても自分の身体を恨んで。

 私が病気の間、彼がどんなに怖い思いをしてきたかなんて、

 考えたこともなかった。


「……ごめんなさい」


 後悔しても、もう遅い。

 きっともう彼は目覚めない。


「…………ああ……」


 きっともう、……無理だ。

 夜はもう明けない。


「……………………?」


 ……明けない?


 窓の外がいまだに暗いのを見て、私は、気がついた。


 明けない夜はない。って言うけれど。

 そういえば、私は、明けない夜を知っている。


「もしかして……!」

 私は寝床からとび起きると、隣の部屋の机に走り寄った。

 息も切れたままに引き出しから乱雑に取り出したのは、分厚い日記帳だ。

「…………!!」

 なんてことだ。

 未来を、書き忘れている。

「っ…………」

 壁にかかった時計を見上げると、その秒針は止まっていた。

「………………………………」

 私は力なく机の前に座り、ペンとインク瓶を手に取る。

 そして、呆然としたまま未来を書いた。

 放心した状態で書いたから、どんなことを書いたかなんてすぐに忘れた。

 ベッドに戻ると、彼はまだ眠っていた。

 そのすぐそばに寄って、綺麗な寝顔を見つめる。

 意を決して胸に触れると、しっかりとした鼓動を感じた。

「はぁ…………」

 一連のことが身体の中をぐるぐるしている。

 心がおかしくなって、涙が溢れた。

「……………………」

 ベッドの上に座って号泣していると、彼が目を覚ましてしまった。

 彼があまりに自然な動きで起き上がったものだから、夢とか現実とか色んな言葉がぐちゃぐちゃになった。

「えっ、……どうしたの?」

 一瞬動揺した彼の表情を注意深く見る。

 すると、瞬時に、優しい顔つきに変化した。

「大丈夫? 具合悪い?」

 ああ。

 ひとこと目にこう聞いてくれるのも、私が病気だったから。

 病気の間、いや、きっと今も、ずっと怖い思いをさせているから。

 彼は、いつ大切な人がいなくなるかわからない恐怖と、闘ってきたのだろうに。

 私は、失う体験をするまで、そんなこと全く、全く考えていなかった。


 こんなに怖かったんだね。

 こんなに。

 こんなに……。


「ごめんね……」

「……え?」

「ごめんなしゃ、い……」

「ど、どうしたの?」

「……………………」

「……頭痛い? どこか気持ち悪かったりしない?」

「……だいじょうぶ」

「そうなの? ……ああ」

「…………?」

「怖い夢でも、見た?」

「……………………うん」

「そっか、おいで。大丈夫だよ」

「……………………」

「怖くない怖くない」

「………………あなたは怖くないの?」

「え?」

「ごめん、なんでも……」

「………………………………」

「私は怖いよ……」

「……ただの夢だよ、大丈夫大丈夫」

「ごめんね…………」

「どうして謝るのー」

「…………………………」

「……怖かったね。大丈夫だよ、僕がいるよ」

「……ずっといてね」

「え? ……うん、ずっといるよ」

「私もずっといるからね……」

「……ありがとう」

「…………………………」

「なかなか涙止まらないねー。……ほら、もう大丈夫だよ」

「…………………………」

「僕はずっといるよ……」


 夜が明けていく。



 END

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