後編
ナツが覚えているのはそこまでで、次に目を覚ました時、ナツは王宮の隅っこにある結界師の寮の天井を見ていたので、いつの間に自分は帰ってきたんだろうか、と悩んだ。
酔い潰れて寝たか何かをして、誰か仲間が回収してくれたのだろうか。
ううん……覚えていない。
そう言えば自分は三日……いや四日目になるのか? 風呂に入っていない。これはまずい、人間として問題だ、風呂に入る事以前に、清潔な身なりという物は大事だ……というわけで、布団から起きあがろうとしたナツは、途端に全身が驚くべき筋肉痛に襲われて、変な声を上げた。
何故かわからないが、全力疾走した時以上に筋肉痛が酷い。そして足の間に何か挟まっているような違和感が強い。
なんなんだ、とナツは今度は慎重に起き上がり、自分の体中に赤い痣が散っているので、今度はこの寮に何の虫が入ってきたんだと考えた。
たまに変な虫が入ってきて、寮の住人総出で害虫駆除を行うので、その申請は必要だろうかと考えたのだ。
「害虫駆除は……その虫を確認してから……うう、頭が痛い……」
がつんがつんと金槌ででも殴られたかのような痛みである。それがひっきりなしに訪れるため、ナツは否応なく自分の二日酔いがなかなか重度だと察した。
こんなになるまで何飲んだんだ、飲んだ酒の味すら覚えていない、なんてもったいない!
そう思いつつ、寝台から立ち上がり、ナツは独身寮の各部屋に備わっている、狭いシャワーブースでとりあえず、身を清めた。
結界師なんてものをやっていると、他人様と同じ時間に風呂に入ったり身支度をしたりという事と、縁遠くなるため、結界師は役人たちの使う広くて綺麗な大浴場ではなく、各部屋に備わっている、寂しすぎるシャワーブースがお友達である。
身を清めてさっぱりとしてから、シャワーブースのカーテンを開いたナツは、そこで部屋を強烈に叩いている来訪者の音に気が付いた。
その音が頭に響いてとてもうるさいのである。
なんなんだ。ナツはげんなりした顔で、かろうじて人前に出られる程度に身なりを整えたのちに、扉を開けた。
「はいもしもし。今日は休日なんですけど」
結界師の休日を邪魔してはならない。これは役人たちの鉄則というか、暗黙の了解と言っていいだろう。
下に見られがちな結界師の役割と立場であるが、結界師たちは徹夜をするため、皆休日の朝は機嫌が底辺なのである。
そのため数代前には大爆発を起こして、城の一部を吹っ飛ばした結界師もいたそうで、それを教育されている役人や仕事仲間たちは、結界師の休日の朝を邪魔しない。
だが現れたのは、ナツなど無縁な上位役人の女性で、彼女は慌てていたし急いでいた。
「ナツさん、よね?」
「はいそうですが。まさかまた仕事が入りました? 今度は誰が腹痛になったんだ……どうせ昨日、仕事があるのに羽目でも外し」
「そういうのいいから。急いで着替えて、玉座の間に来てほしいの。すぐよ!」
「はあ、では今から着替えて」
「私がここで待ってますからね」
こいつは大至急の案件らしい。ナツは、休日にまとめて洗濯しようと思っていたお仕着せを蹴ってわきによけて、清潔なお仕着せの最後の一式を引っ張り出して、すぐさま着替えた。
それから結界師の印である、大きな錫杖を持てば正装だ。
五分と立たずそれに着替えた彼女は、そのまま上位役人に引きずられる勢いで、就任式以来何も縁がなかった、玉座の間に来たのである。
そこには頭を抱えている王様と、不思議そうな王子様と……それから、背の高い黒髪の男がいる。
その黒髪の男は、他の誰よりも装飾が豪奢だ。たぶん格は一番高かろう。
そんな事を思いつつ、ナツは王の前に出て、玉座から一本の線のように伸びている絨毯の小さな目印を確認しつつ、下級役人の位置で膝をついた。
「ナツ・ザッツー。ただいま参りました」
「ああ……殿下、こちらのもので間違いがありませんか?」
「……間違いないな。先ほど言ったようにしていただきたい」
ナツの知らない事が頭の上で繰り広げられている。いったいなんじゃらほい。
「ナツ」
何が起きているのかと、頭を垂れつつ考えていた彼女の前に、装飾こそ控えめだが、質は最高級だろう靴の持ち主が立つ。
頭をあげるのは許可を得てからである。それが出来ない下級役人など、だめ役人すぎる。
そういうわけで、ナツは頭をあげなかったのだが、相手は信じがたい事に、ナツの前に膝をついたのだ。
そうする事で、ぎょっとしたナツは顔をあげた。微動だにせずなんて事は、できなかった。修業が足りない。
隈のまだ消えない顔で、仰天とした表情で相手を見たナツは、相手がやさしい顔をしているものの、視線が絶対に逃がさないと伝えてきているため、何を言い出すのか皆目見当がつかなかった。この人の目的は一体何なのだ。
「ナツ。俺はきちんと見つけたぞ。約束を守ってもらおうか」
「……えーと、申し訳ありません、私めは一体何を貴殿にお約束したのでしょうか……も、申し訳ありません! 本当に、思い出せず」
「次に見つけられたら、俺の国に来るとお前は約束をしただろう」
ああ、これはいわゆる引き抜きって奴かもしれない。この人の国はどこか知らないが……あれ、この目の色と髪の色が合致するのって、南の帝国の皇族で……皇族直々に引き抜くほど、自分は役に立つ結界張りだっただろうか?
ナツがそんな事を頭の中で考えている間にも、男は立ち上がり、王の方を見やっている。
「この者は、聞けば結界張りの中でも特に雑用だとの事。俺が連れて行っても業務に支障は来たさないだろう?」
「た、確かにきたしません。しかしそのものは我が国の抱える結界師の中でも、特に役に立たない、という評価の者ですが……よろしいのですか? 帝国にお連れになるなら、もっと機転の利くもののほうが」
そんな事を当たり前の事を言う調子で言ったのは、直属の上司だった。上司はナツが雑用をしてばかりで、役立たずだと日常的に言ってきていた上司である。
確かにほかの結界張りたちよりも、強靭な結界を展開できないのだし、役立たずと言われても仕方あるまい、とナツは勝手に自分で判断して、反論もしなかったわけだったが。
「俺はこの者がいいと言っている。何か問題が?」
「いえ」
上司は、帝国結界師の栄えある名誉を与えるならば、もっと腕のいい結界師を紹介し、その者を育てたという事で自分も間接的に、名誉を得たかったのだろう。
だが選ばれたのはナツで、ナツは上司に役立たずと言われ続けてきたし、上司から結界張りの手ほどきを受けた事もなかった。それもあるのだろう。
上司はそれ以上反論をしてこなかった。
そうしてナツは、あっという間に帝国に行く事が決定したのだった。
「……あ」
帝国への移動は一瞬だった。それもこれも、一瞬で移動できる移動陣を、黒髪の男、帝国の皇族が使用したからに他ならない。
これを使えるのは本当に一握りの特権階級だけで、男がいかに特権階級かがうかがえる。
ナツはそれを初めて使用したわけだが。帝国内に入った途端に、肌でそれを感じ取った。
「どうした?」
「結界水晶の浄化が、うまくいっていないですね」
「そんなものがわかるのか?」
「これだけ結界が歪んでたわめば、分かる人はわかりますよ、国じゃ皆わかってたと思います。だから毎回毎回、私の仕事の順番になると……浄化作業を行うようにっていう引継ぎがされてたくらいですから」
「ナツはそれを一人で行えるのか? 結界水晶の浄化は、大掛かりだぞ」
「常に一人で皆やるようになれば、なれますって。さっそく私の仕事ですね、結界水晶のある場所に案内していただけますか?」
「ああ」
男の腕の中にしがみつく事になっていたナツだったが、まだ体がこわばるものの、ぎくしゃくとしながらも仕事である、と身じろぎをすると、彼は当たり前の動作で腕を貸してくれた。
意外と紳士である。
そして結界水晶が安置されている場所に到着した彼女は、すぐさま顔をゆがめた。
帝国の結界水晶は、曇りに曇っていてもはや透明度が全くないほど濁っていたのだ。
これでは結界もうまく働かないだろう。
「これはこれは……なかなか浄化してないですね? さては?」
「浄化の作業をすると、一日以上結界を消さなければならないからな」
「結界を維持したまま浄化作業をするのは、結界師のコツですよ。まあ、見ててください」
言いつつナツは、錫杖を水晶にあて、目を閉じる。
ナツが三日も徹夜をさせられていた理由はこれで、弱いながらも結界を維持したまま、浄化作業を行う事が出来たからである。
誰も感謝してくれないし、ナツは役立たずだから、弱い結界しか維持できないのだと言われて長いが。
ナツの額に燐光の紋様が描かれる。その紋様と同じものが結界水晶に浮かび上がる。
きいい、と高く澄み渡った音が響き、じわりじわりと水晶の透明な場所が広がっていく。
広がるほどに、ナツの額の紋様の輝きは強まり、最後には目も眩むばかりの光になっていた。
そしてナツが目を開き、水晶を確認して錫杖を離すと、水晶は高らかな歓喜の声でもあげるように、結界の文字を輝かせ、帝国の結界師たちが、別室で結界を展開させているのだろう、それに共鳴し、強固な結界を帝国内に張ったのである。
いつでも結界の浄化をしてほしいから、結界師としての仕事はそちらを優先し、万全の体調でいてほしい、と男……帝国の若き皇子はそう言った。彼は皇子様だったわけである。
ちなみに帝国の皇帝に謁見した際に、結界水晶を最高の状態まで浄化できる人間は、側妃がなくなった後誰もいなかったのだと聞かされて、物凄く感謝された。
更に、恐らく帝国で、それだけ結界水晶を浄化する人間を囲い込みたかったのだろう。あれよあれよとナツは、その皇子との婚約が決まってしまった。
これでいいのかい、と皇子に問うと、王子は笑った。
「俺は国のために結婚する側だからな。その相手が、気楽なお前だと好ましい」
と、恋愛関係はなさそうだが、友好な関係は維持できそうな態度であったため、ナツとしてはこんな関係もありだろう、と納得した。
ついでにそこで判明したのだが、あの舞踏会の夜、自分と皇子は一線を超えていて、彼が口説き落とそうとした瞬間に、ナツが
「寝る! 私は寝るんだ!! 休日万歳!!」
何て高らかに叫び、着るものも適当に、そういう事が出来る休憩室から駆け出し、追いかけられなかったそうなのだ。
これまた恥ずかしい酔っ払い方を見せている物である。
そんなあれこれも暴露されたわけだが、ナツの生活は以前よりは気楽になった。
毎日結界の調子を確認し、結界水晶の濁り具合を確認し、毎日ちょっとずつ浄化する。
そうすると、やはりと言うべきか、展開される結界の強さは高くなっていくらしく、帝国内は大陸全土でも類を見ない安全な世界となったわけだ。
安全な生活をしたい人々が、帝国にどんどん移住し、帝国は更に発展する運びとなった。
その立役者であると、ナツは皇子の正式な妃になる事が決定し、他の候補者たちを飛び越えた立場となったのである。
これに対して反発はありすぎるだろうと思いきや、そうではなく、帝国では上位貴族の中から結界張りを選出する仕組みだった様子で、彼等が誰も行えない、結界を維持したまま浄化を行う、という離れ業を行うナツを、認めていたのだ。
その技術を後世に伝えてほしいと言われているナツは、喜んで教えているが、ナツの教え方が悪いのか、それとも相手の素質なのか、いい具合に進まず、お互い四苦八苦している状態である。
だがナツにとって最もありがたいのは、徹夜作業がほとんどなく、毎日美味しいご飯を食べて、きちんと結界張りとして仕事をして、平穏な日々を過ごせる事だった。
その平穏な日々の間に、皇子が口説いてきたり、価値のよく分からない宝石をくれたりするので、そのたびに真っ赤になったり慌てふためいたりと、感情的には忙しい時もあったわけだが。
そんな彼女が帝国に馴染んで数か月、故郷の方から一時帰国してほしいという連絡があったものの、中身としては
「前のように結界を張って浄化も行ってほしい」
「休みを変わる相手がいないと言って仕事仲間がストライキを起こしたせいで、魔物の侵入が著しい」
「何とかするために、以前行っていたように徹夜で結界を維持し続けてほしい」
「一時帰国できないならば、帝国の結界の範囲を広げてこちらも圏内にしてほしい」
という、無茶というかなんというか、分かっていない主張だったため、ナツは手紙を全部皇子に渡して、皇子や帝国の判断を待つ事にしたのだった。
結果、故郷は屈辱かもしれないが、帝国の属国となる事で、純度の低い結界水晶を支給され、結界を張ってもらう事になったのである。
「国が憎かったわけじゃないんだけどな」
「俺は腹が立つな。俺の妃が遠慮深い事をいい事に、好き勝手都合よく利用していたのだからな」
ナツの独り言に、皇子は笑って返し、こう言った。
「さて、お前の婚礼衣装の仮縫いの時間だ、気合いを入れろ」
「ご飯が入らない衣装なんてやっぱりなしじゃだめ?」
「だめだ。こればっかりは父上が張り切りまくっているからな。諦めろ」