万葉集 【巻2-147 倭大后】
「悲しい」
その女は、愛する夫に先立たれた苦しみから漸く声を絞り出した。今日は夫が亡くなった翌日で、夫の誕生日でもあった。夫に贈るはずだった、湯のみ茶碗を親指で優しく愛しそうに女は撫でる。
部屋に引きこもっている女に、召使いが部屋の外から声をかける。
「奥様、せめて朝だけでも。何か食べませんと」
「そう?私は大丈夫よ」
「ですが……」
「私に反論するつもりなの?」
召使いは声が詰まる。反論云々の前に、昨日より声だけでも分かるほどに衰弱している女の声を聞くのが苦しかったのだ。
「下がりなさい」
「……畏まりました」
おしどり夫婦の見本のように、お見合いをした時からずっとお互い一目惚れなんだと、使用人が思わず自慢したくなるような、そんな幸せな夫婦だった。なのに、別れは突然やってきて、夫はあっという間に息を引き取った。
「もっと、行きたい所がありました。もっと、恥ずかしくても愛を語ればよかった。もう、あなたから私を求めて頂けないのね」
ぽつり、ぽつりと言葉をゆっくり涙と一緒に溢れさせていく女。もう、瞳に光などはない。今日もまた外は明るいけれど、もう寝てしまおう。と涙をハンカチで拭いた、その時。
「奥様!」
「申し訳ございません!」
「非礼をお許しください!」
使えてくれている、召使いと料理長と庭師の声が聞こえた。すると、部屋の障子を一気にスパーンと引かれて、眩しいくらいの陽光で部屋がいっぱいになる。
「な、何をするの!」
反射的に顔を上げれば、そこには雲一つない澄んだ青空が視界いっぱいに広がっていた。
―空は凄いね。悩みは小さく見えるようになるし、あらゆる国の人と今同じ瞬間に空を見ている気持ちになって孤独も消してくれる。
生前の夫の口癖、だ。ここまで思い出して、女は遂に夫の為ではない―自分の為の涙を流せたのだ。
「嗚呼、あなたは、これからは、そこから私と一緒に居てくださるのですね」
どこか、清々しい声で女は空をぼうっと眺めて薄く微笑んだ。そして、廊下で土下座を続ける使用人たちを見る。
「早く、持ち場に戻りなさいな」
障子を開けた事と頭を上げる事を許すような柔らかい声色で仕事の続きを促され、使用人は光栄ですと言わんばかりににこにこと持ち場へ帰って行った。
「先に逝ってしまうなんて、意地悪な人。あなたが言い訳を考えている間は、私はここで生きて待っていてあげるわ」
この時女は、初めて心の底から思いを込めた黙とうをした。きっとこの黙とうの後には、また世界に色が戻っていると信じて。
* * *
天の原 振り放け見れば 大君の
御寿は長く 天足らしたり
【巻2-147 倭大后】