第七話「ルドルフ・アドラー」
彼ら一行がジェノヴィアを訪れてから四日目のことである。ラザール・ド・ミュラの足取りを掴むべく、ラウラやアッテンボローを始めとした幾人かの傭兵たちは奔走していた。
しかし傭兵の中には間者としても交渉役としても適性のない者がおり、むしろその頭数の多数は彼らによって構成されていた。
ラウラはそんな彼らに毎日少なくはない金額の小遣いをやっては、酒に女にと好きにやらせていた。
花もその中の一人である。
「すると、ライヒは今にも戦争を始めそうなのか」
「国境に正規軍が展開されているらしいのよ。それがどうもきな臭いって」
「その割には平和そうに見えるが」
「誰も本気でそうだとは思ってないからよ。四半世紀前からずっと展開と撤兵を繰り返してばかり。それに、来るとしても私たちには何もできないから」
「何もできないのか?」
「商人の街だからね。魔力はみんな低いし、等級が高い奴がいないんだよ」
なぜ捨てないのか。その言葉を飲み込む程度には花は彼らの気持ちをこの一週間で理解していた。
これでも彼女なりに情報を集めていたのである。無論それが役立つとは思えなかったがしかし、彼女はこの国のことを知らなさすぎたのである。
彼らは逃げることができない。当たり前だ。生活の根拠地はこの小さな町だけで、外に親類などがいるのは少数派だ。着の身着のまま逃げ出した難民がどれほど悲惨なのか彼らは知っていた。ジェノヴィアは曲がりなりにも海洋国家であり、東方の移民船の寄港地にもなっているこの街は、少なくない数の難民を見てきたのである。花もまた三日ほど前に寄港した移民船の、下船も許されない難民たちを目にしていた。
抵抗も逃走も許されない中で、彼らは極めて消極的に日常を再現することを選択したのである。
「正直アンタの存在はありがたいよ」
「私がか」
「警察も結局はここの人間だ。魔力の等級じゃアンタらみたいな傭兵には勝てない。だから好き勝手されるしかないんだよ」
当初は獣人ということで差別的な扱いをする者も多かったが、街のトラブルの原因である傭兵たちは彼女のいるところではピタリと止んだ。
今日までの人種主義や愛国心を捨て去るのは難しい。彼女の存在はそれらを塗り替えるまでには至らなかったが、彼らの劣等人種たる獣人に対する心象が、傲岸不遜な傭兵たちへのそれを上回っていたのも事実であった。
「なあ、アンタ。用心棒をやらないかい」
「それはどういう?」
「この街の用心棒になってほしい。アンタ、魔力が強いんだろ。だったら、暴漢どころかライヒだって、魔王すらも怖くない。衣食住はウチらが保証する」
「すまないがそれは出来ない相談だ。私には目的があってな。残念ながらそれは一筋縄ではいかないものなんだ」
花の調子は淡々としていて、それが逆に店主にはとても説得は難しいように思えた。
「だが、この街にいる間はいいだろう。一部の人間によって、ラウラやアッテンボローの足を引っ張るのは好ましくない。やる事もないし引き受けてもいい」
かくして花は一日幾らかの日当と食事を代価に、街の中を見回ることになったのである。
それが三日前のことである。
狭い街であるから、この小柄な用心棒の強さは今や周知の事実で傭兵たち以外にもその効力を発揮した。
それにより傭兵たちが来て一週間、あの混沌めいた喧騒も今は鳴りを潜め、むしろ平時以上の平和を、この街は享受していた。
「おや」
花は視界の端に見知った影を捉えた。背格好は花の腰より頭一つ高い程度、人波に揉まれては消えてを繰り返す。ここに来た初日にあのオークの男に連れられていた少女、ミリアムだった。
「おい」
花は少女に声をかけた。すると彼女は驚いたような表情を作り、慌ててその場を駆け出した。
「なっ?!」
この時花の脳裏には頼まれていた店の用心棒の件が過ったが、それは彼女の足を完全に止めることはなかった。
元々、年端のいかない子供が一人で歩くこと自体が不用心だ。特にこの街は警察は慢性的な機能不全に陥っている。それだけで十分な理由であった。
「それに最近は暇だったし大丈夫だろう」
花は人波の合間を縫ってその小さな影を追い始めた。この哨戒を頼まれるに連れて、彼女はそれなりにこの街の地理をある程度は分かるようになったが、この街で育った人間には敵うはずもなかった。彼女はその小さな影に追いつくつもりで走ったが、追いつくばかりかその距離は離されるばかりである。数度、彼女の背中を見失い、そしていよいよその姿を捉えることができなくなった。
「彼女の逃げ足も見事なものだろう」
花は身構えた。まさか何者かに声をかけられるとは思わなかったのである。
「おっと、私だよ」
宥めるように胸の前に手を突き出し、敵意がないことを示す。あのオークの男であった。
「アンタは」
「驚かせる意図はなかったんだが」
「いつから追いかけていた?」
「君が追い始めた時からだよ」
「全く気付かなかった」
「この街は人が多いからねえ。それに彼女の逃げ足にも苦戦していたようだし。では、付いて来たまえ」
「どこに行く?」
「彼女の元だよ。君も彼女が心配だったんだろう」
「助かる」
オークは花に先だって路地の中を進む。
「この街は古いからね。こうやって入り組んだ道が多い。衛生状況も良くないし、近頃は治安も悪化した。別に君を責めるわけではないが、これは君のパトロールの結果でもある」
「そうなのか」
「気にすることはない。君はよくやっているとも。君の行動範囲では表立った犯罪行為は消えた。安心できる場所があるのはいいことだ。他方、こうした君の目の届かない場所の治安は急速に悪化した。元々密造酒や薬物のやり取りが行われるのみだったが、ここ数日は君のような存在を嫌った人間までここに現れるようになった。犯罪と暴力の坩堝だよ。まあこれはこの国が罹患した慢性的な疾患の一側面にしか過ぎないがね」
「私に気を使っているのか」
「事実を言ったまでだよ。気に障ったかな」
「いや、まったく」
男が語った通り、路地裏には多様な人間がいた。ある一人は花に対して胡乱な視線を浴びせ、ある一人は気まずそうな顔で目を逸らし、ある一人はそそくさと立ち去った。
「アンタはどうして」
「アドラーだ。ルドルフ・アドラー。ここではそう通っている」
「花だ。アドラーはなぜあの子を気にかけている?」
「……」
アドラーはそれに応じることはなかった。ただ彼は静かに目を凝らしたのである。それが応答の拒否ではないことを花は悟った。
「あの娘は友の娘なのだ。古い友のな。今の彼女の境遇は私に責任があるんだ」
アドラーはようやく語り、そして二股に分かれた道に行き着く。右手は市街の方へ、前は街の外へと伸びていた。
「普段ならばこの道であの娘を見つける。必ず通る道だ。いつもより早く通り過ぎたか、あるいはまだ通ってる途中か、あるいは」
「ならば私はこの道を探す」
「ああ、まっすぐ行くと三叉路に当たるから、そこで引き返せ。そしてこの道をまっすぐ行け。あの娘の目的地へ向かう」
「二手に分かれるんだな」
「すまんが任せたぞ」
「ああ」
それを合図にしたかのように二人は揃って駆け出した。それに気づく者はなく、あるいは目撃したとしてもさして記憶に残らない光景だろうが、確かに彼らは同時に駆け出したのである。
この一週間、彼女はこの街の特殊な地理に頭を悩ませていた。ある道は大きく歪曲し、あるいは突然直角に曲がるなど規則性はなく、そして狭い土地を有効活用しようと石造りの建物が上へ上へと背を伸ばしていたから、山や海、それから世界樹の根など、街の外部の風景もそれによって遮られてしまったのである。
それ故に人々は決まった道しか通らず、中には地元民ですらも時に迷ってしまうことがあるほどであった。
そのような道の中、突如姿を現したのがアドラーの言う三叉路であった。正確には二股に分かれた道が二つ連続続いている道であり、花から見て手前で左側に分岐した道を覗くと彼女が来た道と同じような道があった。
その奥の二股に分かれた道は、まっすぐ行くと緩やかな坂が、右手には海の方へと抜けていくであろう階段が姿を現した。この中でも花が気になったのは右手の階段である。と言っても、それは直感でも理論でもなくただ単に物珍しさからであった。
年間降雨量が少ないこの街において、陽に照らされた路地を見る機会は限られている。背の高い建物が陽光を遮り、迷路のように狭く複雑な路地では陽が届くことは少なかった。その路地に陽が当たるのは太陽が南中する時刻付近であり、その時間帯は気温が上がるため、日陰や屋内にて休む者が多く、花も当初はその時間も哨戒していたが、三日どころか二日と持たなかった。彼女は熱帯出身で、暑さへの耐性はそれなりにあったが、高温乾燥の気候が齎す日陰の心地よさを知らなかった。
しかし見る分においては陽射しは悪くなかった。むしろ乾燥した空気は空をからりと蒼一色に染め上げ、わずかに浮かぶ雲の白色を映えさせる。この時彼女の内心にあったのは焦燥であったから、むしろその白への欲求を如実に反映した。
そこにあったのはやはり彼女が無意識のうちに希求した光景が広がっていた。ちょうど建物の間を吹き抜ける風が彼女の首元を通り過ぎて、清涼感に目を細めた。これにより彼女の気分は上向き、彼女はあの男が見つけているだろうという楽観的な思考がにわかに起こった。
一つ深呼吸をし、踵を返して男の言った道へ戻ろうとしたときに一つ違和感を覚えた。その根源は階段の下のほうから彼女を忌々し気に見上げる男たちの姿があったのである。
違和感の正体はすぐに判明した。男たちが複数でいたのである。花がこれまで路地裏にいた人物はたいてい一人であった。あるいはなにか見られたくなさそうにする者はそそくさと立ち去った。
だがこの男たちは違った。口々に話し合いながら周囲を警戒していた。殺気立っていたといった方が正確かもしれない。彼らはまるで見られたくないかのように振舞いながらもこの場を離れようとはしなかった。
花は意を決して彼らに近づいた。少し確認するつもりであったのである。彼らのうち一人が何かを小さく呟いた。
「なんだ、女」
「ああ、すまない。道に迷ってしまってな。市庁舎前まで行けば分かるはずなんだが」
「止まれ。寄るな」
リーダーと思しき男が花に声をかける。それは脅迫にも似た剣呑な雰囲気であった。しかしその制止を聞くような人間ではなかった。むしろ白々しさすら漂う軽やかな足取りで歩いたのである。
「すまないが、大人しくしとけよ、とはどういう意味か、教えてくれるかな。それと、その中で泣いている子供のことも」
花の耳がピクリと動いた。その途端、男たちは懐に手を突っ込む。
(ここならギリギリだが、届くはず)
リーダー格の男の体が鈍い音とともに吹き飛んだ。そのまま放物線を描き、はるかな階下を転がり落ちていく。その事に気を取られた男たちに、さらなる魔弾が襲いかかり、更には彼女の右足も閃いた。
そこで男たちは状況を理解し、厳しい表情で短銃を取り出した。それは奇しくもアッテンボローの所持していた短銃と同型の二連装単発銃であった。男たちは強く引金を握りしめた。二、三発、破裂音が響き、金属の弾丸が階段を傷つける。即ち、その頃には花の体はすでに空中に逃れていたのである。
だが回避という行動そのものが致命的な隙となった。男の一人が子供の入っている袋を掴み上げ、叫ぶ。
「止まれ!」
花は苦虫を噛み潰したような表情で身を翻して音もなく着地した。
「止まらなければ撃つぞ」
「やってみろ。懐中に仕込める銃なんだ、その距離から撃っても当たらないし、また避けてみせる」
「お前にじゃねえ、こいつにだ」
男が袋の中から僅かに顔だけを覗かせる。やはり、彼女の懸念した通り、ミリアムがその中から不安げな視線を覗かせていた。男はそこに筒を押し付けた。
「早く行け。銃を抜いたんだ。騒ぎになるのは避けられん」
男は頷くと袋を背負って一目散に駆け出した。
その間も花は動けずにいた。彼女が出来るのは撃たれた銃弾を回避することであり、そのためには撃たれなければならなかった。
一方で男たちは彼女に避けられる可能性が脳裏をよぎるとどうにもその引金は重く、動くことはない。またこの口径長の短いピストルでは、ほんの数メートル先にいる花に当たるとも限らず、それがなおのこと発砲の選択肢をより消極的なものにした。
「撃ってみろ」
花は焦れるように一歩を踏み出した。
「動くな、近寄るな」
男たちは声を荒げるも、その引金が弾かれることもない。彼らは格上のはずであるのに魔法を行使しない彼女に恐怖した。未知とはそれほどまでに恐ろしかったのである。故にこそ彼らは選ばないことを選んだ。この均衡をできる限り薄く広げて、場を持たせるのに注力したのである。
一方の花も歯痒い思いをしていた。魔法が届かないのである。あの不可視の一撃があれば、このような男たちは造作もないはずである。これは彼女の特異な体質に由来するものであった。
彼女は魔力の等級こそ極めて高いが、それを遠方に届かせる力は貧弱だった。等級の高さと魔力の高さは一種の相関性がある。それが感覚として染み込まれた常識であり、その埒外にある彼女の正体を、彼らは見破ることができなかった。
しかし、数式も分からぬ人間が気まぐれで書いた数字が真理の場合もある。この場合、彼らの行動は真理とは言えずとも過ちとも言えなかった。
この生死すら関わる状況下、主目的である時間稼ぎを全うしたためである。結果論ではあるが、その場に限って言えば結果論こそが至高であり、全ての論理はそこに従属する。
その均衡を打ち崩したのは、この奇妙な獣人でも、彼らの選択でもない、彼らに対するインチキじみた不幸であったことを鑑みれば、それは見事に仕事をやり遂げたのではなかろうか。
銃声が鳴り響く。ほぼ同時に二つ。
暴発であった。いやそれは、下の筒がまるで水仙の花弁のように開いていたことから、火砲で言うところの腔発という現象に近い現象、正確に言えば異常高圧が起きたようである。
いずれにしても滅多と起きない現象であった。
裂けた銃身の破片や部品を手に受けた当の本人らは何が起こったのかも理解できずに自らの右手を見ていた。
そしてもう一人は突然の衝撃に動転し、あるいは射撃をしたと勘違いをして強く引金を引いたのである。避けるまでもない弾道を確認した花はすぐさま行動に移した。最高速度で駆け抜け、二人を魔弾で卒倒させ、残る一人は銃の反動で泳いだ手を掴み、そのまま背中に背負い込み、勢いのまま地面に叩きつけたのである。
そのまま残る二人を睨みつけると、たちまち男たちは両手を挙げた。一方のちぎれかけて表皮のみで繋がった人差し指がぷらぷらと揺れる。
「大丈夫か!」
そこへ駆けつける男があった。アドラーである。
花はそれに答えず、少女を攫った男たちが消えた道を見る。
「すまない、アドラー」
「何がだ?」
「逃げられてしまった」
「起きたことは仕方ない」
「旦那」
男の一人がオークに問いかける。彼は左手を懐に突っ込んだ。花は一瞬殺気立つ、が杞憂であることに気づく。彼の左手に握られていたのは手紙だった。
「なんだそれは」
覗き込む花に対し、アドラーはその視線を背中で阻む。
「すまない」
アドラーは花に言う。彼女はしばし不服そうな視線を向けたが、やがてそれも無意味だと知ると、家の壁に背中を預けて空を仰ぎ見る。
「何が書いてあった?」
「あの娘を救う方法だ」
「私は何をすればいい?」
「関わらないことだ。巻き込んでおいて申し訳ないが」
「……は?」
「これは私の問題なんだよ。あの娘は私が巻き込んでしまった。君まで巻き込むべきではない」
「私は首を突っ込んだんだ。巻き込まれたわけじゃない」
「ならここで終いだ」
「……お前らを痛めつけたら、あの娘の居場所が分かるかな」
男たちはギョッとして目を剥く。その目にはほんの少しの敵意と怯えの色に染まっていた。
「無駄だろう。むしろ悪化しかねない。それに奴は約束を守る男だ。これに従う限り、奴は彼女の生命を脅かすことはない。ここでお別れだ。頼む」
改めて突き放すように言われた言葉に、花は酷く腹を立てた。だがひとまずは彼の顔を見て、その意を汲むこととした。
「そうか、お前とは長い縁になりそうな予感がしたんだが」
「きっと気のせいだろう」
「そうだな。私の予感は当たった試しがない。最後に一つ、約束してくれ」
「なんだ」
「これが済んだら、あの娘に合わせてくれ。私が関わらないことで得られたということを示してくれ」
「ああ。任せてくれ」
それでやり取りは途絶えた。アドラーは男たちに連れ立って歩いていく。それを花は見えなくなるまでの間、そこに立っていた。動くことができなかったのである。いつまでも殿の男が彼女を警戒して見張り続けていたためである。
やがて男が姿を消したかと思うと警吏が現れて、そこでようやくやってしまったという後悔が鎌首を持ち上げた。それからぺたりと階段の段に倒れるように座り込み、無我夢中で行ったことを反芻した。よもや過ちを犯したとは思わなかったが、しかし世の中には貫いてはならない正しさというものもある。今回の件はどうやらそれに該当するのではないのだろうかという思考が三度彼女の脳内を巡った。
「失礼だが、君は何かを知っているのかね」
「ああ」
疲弊した彼女は生気の薄い顔で警吏の問いに答えていたのである。