第七章「アルフレッド・アッテンボローV」
お久しぶりです。二十日に更新するといいましたね、アレは嘘だ
「ここまでで」
アッテンボローの背にいた少女は、彼に向けてそう言った。
「こんなとこに住んでるのか」
「まだしばらく先ですけど」
「なら案内してくれ。話がしたい」
アッテンボローはミリアムをその背から降ろした。少女は何も答えずに進むか留まるかを迷った後、アッテンボローの顔を見て進むことを決めた。
もともとは目貫通りがあったのだろう大通りは閑散としていた。石造りの建物に加えて、建材の端や、あるいは本来ならば材木にすらならない程度の幹を骨組みに、あとは天幕を張った小屋とすらいえないような粗末なものが並ぶ貧民街を形成していた。
彼女は気乗りしない様子で歩いていく。異様なまでに生気のない通りだった。遅い時間であるにも関わらずそこかしこから人の気配が漏れ出ている。しかしながら、彼らの視界で動くものは時折吹く風に揺られる天幕程度であった。
アッテンボローは昼の時間に数度ほどここを通っていた。なけなしの金で移り住んできた労働者、逃げてきた奴隷や難民たち、薬物中毒者などが主に住んでいる。雑多で見通しが悪く、そして可燃物が多いことから繚乱の魔王をいかにこの場所へ逃げ込ませないか、いかにしてここから引きずり出すかが当初の作戦であった。
アッテンボローは先導する少女の背中を見つめた。この小さな背中は彼らの出方次第で煙に巻かれて窒息死、あるいは炎に包まれ焼死していたのかもしれないのである。
「ここです」
ミリアムの消え入りそうな声がした。
「入るぞ」
返事は求めてなどいなかった。アッテンボローは粗末な天幕をめくる。
「ま、待って」
「来るな!」
アッテンボローの怒声が街に響く。幽霊の囁きあうかのような気配がしんと静まり返り、静寂が訪れる。
アッテンボローは鬼の形相で天幕の中にいた二人の男女に迫る。
「絶対に入ってくるな、それから耳をふさいでおいてくれ」
アッテンボローはミリアムに対してそう言った。彼女には黙って言うことを聞く以外の選択肢が残されていなかった。
天幕にいたのは二人の男女だった。一人は言わずもがな、ミリアムの母たるベアトリーチェだった。そしてもう一人もまた彼の知る人間であった。
「お前か……」
がっしりとした体格にひげ面が特徴的な男だった。男の名はシュミット、傭兵の一人で本来ならベアトリーチェの監視を任せていたはずだった。
「い、いきなり入ってくるなよ」
「ご婦人を護衛しろとは言ったが、寝ろと命じた記憶はないが」
「別にいいだろ、やり方は俺が決める」
「シュミットさんは別に悪くないんです。私が誘ったから」
「あんたはウチの人間じゃないでしょ。口を挟まないでくださいよ」
アッテンボローは侮蔑の視線を彼女の裸体に向けながら言った。
「第一、誰彼構わず股を開くなんざ、娘さんに対して申し訳ないと思わないのか。母親のすることじゃない」
ベアトリーチェは鬼のような形相でアッテンボローを睨む。が、返す言葉は浮かばなかったのか、そのまま押し黙る。
「言いすぎだろ、アッテンボロー」
「お前はさっさと服を着ろ、みっともない。お前は任務から降りてもらうからな」
「は?」
「は、じゃねえよ」
アッテンボローは男物の服をシュミットに投げつけた。
「失せろ、さっさと」
「なんだよ、別にいいだろ、俺がいい思いをしたってよ」
「分別くらいつけろっつってんだ。言わせんなよ恥ずかしい」
「けど」
鈍い一撃がシュミットの頬を打った。
「別に力で物事を決めたっていいんだぜ。好きだろ、喧嘩」
シュミットは吹き飛ばされてちょうどベッドに腰を落とす形となった。
「粋がんなよ、若造が」
シュミットは吠えるが、それだけだった。彼我の実力に雲泥の差があることを彼は知っていた。それ故に吠えるだけで済ませると、口から流れる血を拭いながら退散していく。
「まだ何か」
シュミットを見送る夜の闖入者を、ベアトリーチェは怨嗟の情が多分に含まれた声を投げかける。そのころにはベアトリーチェも衣服をその身にまとっていた。
「なにかもなにも、本題はこれからだ」
「本題?」
「娘さんの話だよ」
ベアトリーチェの顔色がさっと変わる。その様子にアッテンボローは侮蔑を通り越して怒りさえ覚えた。
「娘に何か」
「あの娘自身には何も起きてない」
アッテンボローは平静を装い、平時の口調の再現に努めた。
「本題は、あの娘のこれからだ」
「これから? あなた方が守ってくれる約束だったんじゃないんですか」
「事情は変わった」
「それは無責任じゃありませんか。いきなり現れて、護衛するとか言って、かと思えばそれもすぐにやめて」
ベアトリーチェはヒステリックに糾弾する。
「俺が無責任だと」
アッテンボローの顔が引きつった。彼は思わず拳を握り、それから怒りで打ち震えた。それでも彼はとっさに拳を隠し、呼吸を整えてから彼女に向き直る。火山が噴火するかのような怒りは消えて、後に残ったのは汚物に相対した時のような嫌悪感だけであった。
「俺たちは週末には撤収することになった。アンタたちからすれば無責任ではあるが、そっちの都合と異国間の外交とでは責任の重みが違う。アンタも元はと言えば貴族の端くれだったんだ、そのぐらい分かるよな」
その口調は終始淡泊で平坦であった。唯一分かるよな、の部分のみは強調されていた。ベアトリーチェもそう言われては頷くしかなかった。旧貴族の誇りがそうさせた。
「別にね、俺だって鬼じゃない」
ベアトリーチェの表情が変わる。敵愾心に満ちた目から、疑心に満ちた目へ、その中に希望を見出すか細い光があったことをアッテンボローは見逃さなかった。
アッテンボローは生唾を飲み込んだ。彼は今から嘘を言う。普段の彼ならば決して口にできない、悪意に満ちた嘘である。
「娘さんだけなら、別に俺が逃がしてやれる」
ベアトリーチェは肩すかしを食らった。
「何を言うかと思えば」
彼女は鼻を鳴らす。下種を見るかのような冷たい視線がアッテンボローを射抜く。事実としてそれは一般論でいえば正しい。彼女はアッテンボローを、娘をつけ狙う好事家だと判断していた。
「あなたにしかメリットがないじゃないの」
「この街から脱出しなくても良いと?」
ベアトリーチェはしばらくその表情を崩さなかったが、不意にそれが止まる。
「なんですって?」
理解の遅いベアトリーチェにアッテンボローは苛立つ。
「ジェノヴィアが戦場になるのさ」
「戦場になるって、あなたたちが持ち込んだ戦争でしょ」
「俺たちが? 違うだろ、これは魔王を巡る争いだ。傭兵は戦闘になることを了承しただけだ。誰も望んじゃいない。それに元はと言えば、アンタの旦那が持ち込んだ火種じゃねえか」
その言葉が彼女の逆鱗に触れた。敵わぬと己を客観視していたベアトリーチェの理性を、彼女の怒りが上回ったのである。烈女と化したベアトリーチェは形にならない声でアッテンボローに掴みかからんと迫った。アッテンボローはその手をひねり上げ、悲鳴を上げたベアトリーチェの露わとなった腹部を蹴りつけるべく、片足が上がっていく。
そのまま彼はベッドに彼女を押し倒す。
「さあ選べよ。この狭い街で娘さんと無理心中をするか、それともアンタが子離れをするか」
アッテンボローはズレた服を整えながら言い放つ。烈女の胸は呼吸に合わせて上下する。そのまま顔を手で覆い、指の隙間からは嗚咽が漏れ出た。
「泣いてないで答えろよ」
「うっ、うっ……」
「答えろって」
嗚咽は震えを増すばかりで、言葉にはならない声で何かをまくし立てた。
「もういい、本人に聞く」
アッテンボローは踵を返した。いつまでも続くすすり泣く声に彼は一つ舌打ちを打つ。
のそりとアッテンボローが天幕から顔を出した。
「ごめんな」
アッテンボローの顔には怒気が漲っていたが、しかしミリアムの顔を見ると一気にそれが静まった。
少女の顔は今にも泣き出しそうで、彼は今更ながら罪悪感を思い出した。
「……」
アッテンボローは少女の嗚咽に混じった声を拾う。彼はそのか細い声を拾うために膝をついて耳を傾けた。
「すまない、聞き取れなかった」
「話、聞いてました。私。返事を、すればいいんですね?」
「ああ。幼い君にこんな決断をさせてしまうのは、あまりにも残酷なのは」
「残ります」
アッテンボローは自らの言葉を遮った返事に驚いた。彼の念頭にはない、はっきりとした拒絶の言葉が飛んできたのである。彼女は涙を拭い、嗚咽を飲み込んではっきりと言葉を返したのである。
「私、アッテンボローさんが悪い人じゃないって知ってます。たぶん、私のことを思ってくれていることも、分かります」
「君の母親には、その能力がない。君のような娘があんな女に付き合う必要なんて」
「いい加減にしてください。なんでそんなこと言うんですか。アッテンボローさんはなんでそんなにお母さんが嫌いなんですか。アッテンボローさんはいい人です。分かってるはずなんです」
少女の目から涙が零れた。
「だから嫌いになんかなりたくないんです。でも、お母さんに酷くする人なんて、私は無理、なんです」
「……わ、分かった。すまなかった」
アッテンボローの視界がぼやけた。焦点は定まらず、ミリアムの影が幾重にも重なって見える。
「違うんだミリアム。俺は君を助けたくて……」
アッテンボローは自らの醜さを知覚した。涙が彼の頬を伝う。それはこの世の中で最も醜い涙であった。
「すまない。本当に」
項垂れるアッテンボローに対して、少女はどのように声をかけていいのか分からず、ただ狼狽えるだけだった。幼い彼女にはあまりにも難しすぎる局面だった。それ故に呆然と立ち尽くすだけに終わったのは、無理からぬことであった。
「ミリアムっ、早くこっちに来なさい!」
怒声が響いた。少女はそれに従うほかなく、後ろ髪を引かれる思いで母の元へと向かう。
「ミリアム、ああ私の娘」
アッテンボローはそのやり取りに目を向けることはなく、一つ悲しげなため息をついた。それから膝についた埃をはらうとゆっくりと歩き出した。
「まったく、ひどい話だ。本人の気持ちも理解しないで」
夜のジェノヴィアの帰路の中、彼はほとんど記憶に残っていない、自らの母のことを思い出す。
「結局俺も、あの女の子供ってわけか」
日付と曜日感覚が狂っていたんです。ただそれだけなんです、信じてください!
「ぶったるんどる!(平手打ち)」