火曜 放課後(1)
帰りの挨拶が終わると、ぐったりとした体を椅子に預けた。昼休みにリラックスできたおかげで午後の授業は話を聞く余裕が出来たが、その分疲労は溜まり、色濃く顔に出ている。
周りの慌ただしさに構わずぼんやりとしていると、隣に座る大谷に顔を覗き込まれていることに気づいた。いつも明るい大谷が珍しく眉を曇らせ、
「鴎くん、保健室連れて行こうか?」
やっぱり一日中横でこんな態度取られてたら気になるよね、と、今更ながらに思い、内心苦笑しつつ、大谷には力ない笑みを向け、
「大丈夫、明日は元気なはずだから、ありがとう」
と、答える。納得しきってはいない様子の大谷は、
「ならいいんだけど……」
と、答えながらまだこちらを見ている。これ以上心配させたくないので、つとめて明るい声を出しながら、
「平気平気、大谷さんも部活遅れたらまずいでしょ。早くいった方がいいよ」
と、促す。
大谷は、そこまでいうなら、と、腰を上げこちらに手を振りつつ教室を出て行った。手を振り返しながら見送ると、音が立たないくらいに頬を張る。
こんな鬱陶しい態度を続けていたら周りに迷惑をかける、考え事をするにしても、もう表に出すのはやめよう、いつも通りに過ごすのだ、と、心に決める。
まずは日課の読書のため図書館へ行こうと本を手に取ったとき、何かを忘れている、という思いが胸をよぎった。
そこで鴎は自分が誰かと約束をしていたことを思い出し、その相手の方へ視線を急がせる。
だらしない鴎の姿勢とは反対に、式典の参加者のようにぴんと伸ばされた結の背中を見つめていると、言いようのない違和感が浮かぶ。胸中に生まれた靄にうまく説明をつけることができないまま、彼女へ声をかけた。
振り向いた結は昨日と何ら変わっていないように見えた。しかし、鴎は彼女と相対していると、自分の中のどうしようもない違和感が少しずつ膨れていくのを感じる。約束通り手伝うつもりであることを伝えながら、鴎は、どうして自分が今の今まで約束を忘れていたのか考えていた。
読書は帰ってからということにして、鴎は結のうしろについて五組へと向かう。部活動に熱心な生徒ばかりのようで、机だけが並ぶ教室を眺めると他に誰もいないことが突然意識され、心細さを覚えた。
えっちらおっちら机を動かす鴎の背後、ロッカーの中身を取り出している結はひどく寡黙で、ここまで消え入るような大きさの返事をする以外はただ手を動かしていた。
二人とも会話を交わすことなく作業を進めている。昨日あれほど覆したかった場の沈黙は、今の鴎にとっては都合がよかった。先ほど生じたこの違和感を解決しなければという理由のわからない焦りがあったからだ。
あれだけ衝撃的なことがあったあとだ、約束を忘れていたこと自体はおかしくない。問題は、放課後を迎えるまで一度もそれに思い至らなかったことだ。
考えごとをしていた午前中はともかくとして、どうして昼食の後も思い出さなかったのか。一緒に授業を受けていたのだから、何度か姿を見れば気が付いたであろうに。
落ちていた消しカスを箒で掃き集めごみ箱へもっていく。表面上は仕事に集中している風を装って、鴎は思考を続けた。
昼休みの二人の遣り取りで力が抜けて、午後は何度か放課後どうするか考えたはずだが、掃除を手伝うことはその選択肢に一切含まれていなかった。
ふと気づく。今日一日を振り返ってみると、結を目にした記憶がない。同じ場所で半日過ごしたはずの相手のことをまるで覚えていない、違和感の正体はそれだろうか。
考えに没頭し、手の動きがおろそかになっている鴎のうしろで、結は気づかれないように鴎を見つめる。その動きは窺うと言っていいもので、視線には暗さを帯びた色がある。
しかしそれを覗かせたのは一瞬で、顔を正面へ戻したときには、ただ目の前のものを見つめる瞳だけがあった。
五組、そして六組の点検を終えるころには暗くなり始めていた。こんな時間でもまだ練習をしているのだと主張するように、サッカー部と野球部が、それぞれ、ボールを蹴飛ばす音、バットで弾き飛ばす音が聞こえてくる。
黙々と作業を進めた二人は結局一度も雑談をすることがなかった。鴎がそそくさと帰る準備をしていると、
「今日はなんだかずいぶんと疲れていましたね」
と、話かけられる。
昨日と変わらない調子のはずその声は、鴎の耳にひどくざらざらとした感触と共に残った。その理由は一つ、こちらを探る声色を感じ取ったからだ。
自分の態度が朝からおかしかったのは事実だ。心配されてもおかしくない。しかし鴎は顔を向けない方がいい、と思った。
彼女に抱くこの違和感にけりが付くまで、どんな情報も与えるべきではない、与えたくない。
「そう見えた?」
鴎はバッグに話しかけるように答える。
「はい、調子が悪そうでした」
すでにバッグを背負ってしまったのに、結の方を向くことなく何もない空間に向けて声を放る。
「そうかなあ」
「なんともないならいいんですが……」
その言葉は純粋にこちらを労わる気持ちから発せられているように感じられた。駆け引きじみた受け答えをしていた鴎は、一抹の申し訳なさを感じた。顔ぐらい見て喋ろうと思い結の方を向く。
その瞬間、鴎の中の違和感がふっと氷解し、同時にぞわぞわとした感覚が体中を駆け巡った。浅く激しい呼吸音に合わせるように、文章を成さない途切れ途切れの考えが頭に浮かび漂う。
忘れていたのは約束じゃない、もっと根本的なものだ。
「里見くん?」
違和感は昨日も感じていたのに、どうして気づかなかったんだ。だって。
「どうしたんですか」
「僕は……」
一か月経ってもこのクラスメイトの名前と顔を、覚えていなかったんじゃない、知らなかったんだ。
何度も目にしたはずのその顔が、まるで突然ピントの合ったファインダーのように、はじめて輪郭を持った像として結ばれ、認識される。
髪の色、身に纏う衣装は違えど、こちらを見つめるその顔は忘れもしないあの少女、軽々と長刀を振り回し化け物と向かい合ったあの女の子だ。
目の前の相手が得体の知れない人物だと気づいた鴎は、恐怖と不審の入り混じった表情を浮かべながらじりじりと後じさる。
それを見た結は、何事か悟ったようで、潮が引くように顔色が変わった。鴎へ向けて右手を突き出し、
「待って……」
絞り出すようなか細い声、懇願するような響きが多分に込められたそれは、鴎の耳には脅迫の重苦しさしか伝えなかった。
恐怖に駆られた鴎はすぐさま結に背を向けると、教室を飛び出し廊下を走りだした。その背中を結も追いかける。
鴎の逃走経路はまるで昨夜をなぞるようで、最後の階段で足を滑らすのまで一緒だった。異なるのはその速度。休息不足が祟って昨日の半分もスピードが出ていない。
しかしながら、結も結で、さっさと鴎に追いつくことはできなかった。
昨夜見せた、身の丈ほどもある薙刀を軽々と振り回す身体能力をもってすれば、結が鴎に追いつくことは造作もないことに思えるが、その足運びは弱々しく、踊り場で膝をつくと、ひどく苦しげに顔を歪めた。
鴎へ向けて声を放とうとして果たせず、肩を激しく上下させ、わき腹に手をやる。それでも大きく息をつくと、なんとか壁に寄りかかりながら立ち上がり、再び歩み始めた。
亀でも欠伸がでるようなのろのろとした追いかけっこは、一階の生徒用靴箱で、鴎の後ろで発せられた大きな物音に足をとめることで終わりを迎えた。
振り返ると廊下に結がうつ伏せに倒れこみピクリとも動かない。こちらを足止めするための演技ではないかという疑いは、制服のわき腹が赤黒く変色しているのを見た瞬間吹き飛んだ。
先ほどまでの恐怖をよそに、よろよろと結のそばに近寄り、膝を床に着けてその様子をうかがう。息をしていない。
すぐに背中を揺さぶろうとして、自分がこんな場合の対処法を知らないことに気づき、伸ばした腕をすんでのところで止める。
鴎が途方に暮れた目で成す術もなく結を見つめていると、駐車場の方から車の扉を閉める音がした。
そちらに視線を移した鴎の瞳は、夕日の照り付ける中ではひどく目立つ、闇に溶け込みそうな黒色のスーツを着た男がこちらへ向かってくるのを捉えた。男は革靴を脱ぐと、無造作に鴎たちへ近づく。
「ちょっとどいてくれ」
と、声を掛けながら腰を下ろし、結を仰向けにして脈をとる。
鴎がその顔を黙ってみていると、
「だから言ったのに……」
と、男は口にしてポケットを漁り、取り出したカギを鴎に放り投げる。
慌てて両手でそれを捕えながら男を見ると、結を軽々と抱き上げながら
「悪いけど手が埋まってるからさ、鍵開けてくれないか」
まだその顔を見ている鴎に玄関の方を顎で示す。
「あれだ、後部座席、頼む」
正体不明の男ではあるが、行動の指針を失っていた鴎は、躊躇いながらも頷き、車へと小走りで駆けよる。
駐車スペースではない校舎の手前に横付けするよう止められているのは、黒塗りの車だった。鴎は車に興味がないので車種はわからないが、見るからに高価そうだ。
後部のドアを全開にして靴箱の方を見ると、結を抱えた男はすぐそこまで来ていた。鴎に、「ありがとう」、と、声を掛けると結を後部座席に運び入れ、ドアを閉め運転席に乗り込んだ。
そのまま発進するのかと思って見ていると、運転席の窓が下がり、男が顔を覗かせた。
「乗らないのか?」
鴎は、ここでもまたふらふらとした動きで車へ近づくと、助手席のドアへ手をかけ乗り込み、シートベルトを習慣的な動作で閉めた。男は行き先を告げずに車を発進させた。
車が学校を出て鴎のアパートを通り過ぎ、見知らぬ道を行くころには日がすっかり落ちていた。街灯と家々から漏れる明かりに照らされた道路を進む車内、名前を知らない男と気を失った同級生だけの空間だが、ある種ショック状態の鴎には、居心地の悪さを感じる余裕もなかった。
この状況への疑問も持たず、黙って席に腰掛け外を眺める。運転席の男は時折、結と鴎の両方に視線をよこしていたが、無表情ではないにもかかわらず、結以上に考えの読めない顔だった。
まだ意識を取り戻さないのかとぼんやり思い、後部座席を振り返ろうとしたとき、車がゆっくりと停車した。左には民家が三つ立ち並んでいる。鴎は少しの間それを眺めていたが、隣でドアが開く音にハッとし、自身も助手席から降りると後部座席へ向かいドアを開けた。
男は今度も、
「おーありがと」
と、感謝を述べながら結を車外へ運び出し、鴎が眺めた内の真ん中の家へ入っていく。
おずおずとその背中に続いて家の敷地へ入り、小さな門扉を通過すると、突然景色が一変した。玄関へ続く短い道があるはずの空間には大きな庭園が広がっていて、鴎が驚き後ろを振り返ると、通ったはずの入口が消え古めかしい門が出現していた。
鴎は、様変わりした周囲に呆気にとられ少し立ち止まっていたが、男は鴎を待つことなく庭の奥に現れた玄関へ進んでいくので、慌ててその後を追う。
男が大きな玄関を抜け、しばらく長い廊下を歩いた先で立ち止まると襖が独りでに開いた。
「そこで座って待っててくれ」
男は家の敷地に入って初めて鴎に声をかけ、結を抱えたまま廊下の奥へ進んでいった。病院へ連れて行かないでいいのか、と、思いつつその背中を見送る。
部屋を見渡すと、中心には見るからに高そうな二人掛けの革張りのソファが向かい合うように二つ置いてあり、その間に、これまた値段の張るであろう黒檀の机がある。
座れと言っていたのはこれのことだろうかと思いつつ、その光沢に気圧された鴎は結局立ち尽くすことを選ぶ。
室内には他に、使用よりは観賞向けの趣の感がある茶色の戸棚と置時計が配置されているくらいで、テレビや冷蔵庫といった類のものは置いていなかった。どうやらここは客人を迎え入れるための部屋らしい。
時間にすれば十分ほど、鴎にとっては、興味のない授業並みに長く感じられた時間が過ぎると、男が足音ともに襖を開けた。立ったままの鴎を見て、苦笑いしながらソファに座り込むと、
「座れよ」