火曜 朝
日が昇り、あたりを包んでいた暗闇は少しずつその濃さを失っていく。通勤時間を迎え、周りの家々では車のドアが開けられ、エンジンがかけられる。
鴎は、カーテンの閉め切られた部屋、ベッドの上で、身じろぎもせずにその音を聞いていた。
昨夜夜道をひた走りアパートにたどり着いた鴎は、すぐさまドアを閉め鍵をかけると、どたどた音を立てながらベッドに向かい。毛布にくるまれガタガタ震えていた。震えが収まるまで一時間以上かかり、その間は階上の足音にもいちいち悲鳴を上げていた。
平静とは言い難い心理状態だったが、それでもなんとか思考ができるようになったころに夜の校舎でのことを思い返していた。
考えれば考える程現実味を失うような出来事だったが、痛みを通り越してしびれてきた足の感触が、目に焼き付いて離れないあの赤色が、夢ではないことを雄弁に物語っている。その足の痛みよりも何よりも、自分が血を流す少女を見捨てて逃げ出すような臆病者だという事実に、鴎の心は締め上げられるような痛みを覚えた。
胃に鉄の塊が詰まっているような気分で、結局夜が明けるまでミノムシのような体勢で過ごした。夜の深い静けさに耐えられずテレビを点けっぱなしにしていたが、包丁の切れ味を喧伝する陽気な声を聴いたところで気分は変わらず、その場違いな明るさは鴎に自身が孤独であること意識させるだけだった。
そして今、そのテレビ画面に反射する自分は制服を着たままだ。もたもたと、しかし本人としては全速力で走ったせいで、シャツは汗みずくだった。
シャワーくらいは浴びておかなければという考えがよぎり、緩慢な動きでベッドから抜け出すと、自分が学校へ行こうとしていることに気づく。ずり落ちた毛布を虚ろな目で見つめながらその行動の妥当性を胸に問いかける。
長い長い通販番組が終わった後の朝の情報番組、住宅街に現れたカエルによって住民が多数殺された、といった速報はなく、テレビ画面にはアイドルの結婚報道についてキャーキャー騒ぐアナウンサーが映っている。
学校へ向かうパトカーのサイレンも聞こえない。ということは、どうやらカエルが街に放たれたということはないようで、それはつまりこのまま家にいたところで何の情報も得られないことを意味する。
直接あの廊下を目にする、何が起こったかを確かめるにはそれしかない。結論を出すと、毛布を掴んでベッドに押し上げた。
登校する以上朝食を食べていこうと思ったが、血を見た衝撃は抜けきっておらず米はのどを通らなかった。やむなく味噌汁だけ流し込む。準備を終えてドアを開けると、日差しが刺すのは、暗闇に慣れた目だけではなかった。
「うわっ、ひどい顔!」
「生まれつきだよ……」
鴎のどんよりとした顔を見た大谷はひどく驚いている。
「なんなの、また睡眠不足?」
不足どころか寝ていない。
大谷の追及を曖昧な返事で受け流しつつ椅子に座ると、ひどい疲れが体を襲った。支えるのも面倒になった頭を机に押し付けると、頬がひんやりとして気持ちがいい。いつもなら意識しないクラスの喧騒も、世界と隔絶された気分で一晩過ごした後では快くさえある。
大谷の周りの女子が何事かという視線を送るのに構わず、鴎は上半身をだらしなく脱力させ、つい先ほど目にした光景について考える。
一年生の廊下にはカエルと少女の痕跡は見当たらなかった。それどころか、壊されたはずの壁は直されていた。近づくとそこだけ周囲と汚れ具合が少し違って見えたが、それも何かが違うはずだという先入観があったからかもしれない。実際、昨夜突貫工事で作り直したにしては変色しすぎていた。
学校に到着したとき何の騒ぎもない時点で予想はしていたが、だからといって理解はできない。一体誰がどうすれば、壊れたコンクリートの壁を一晩で汚れまで再現して元通りにできるのか。昨夜の面影を何ひとつ残さない廊下にいると、まるで自分だけがのけ者にされているようだった。
窓ガラスの桟に溜まった、重ねてきた年月を感じさせる厚みの埃を見つめていると、やはり夢だったのだろうかという思いが浮かぶ。昨晩の出来事を証明するものは何一つ存在しないのだ。
しかし同時に、血を流しながら自分の身を案じていた女の子、自分が卑怯にも見捨てたその姿が思い起こされる。
鴎はそこでふと思いつき、机の中に手を入れ。大して手を動かす必要もなく、目当てのものは見つかった。掴んだそれを、辺りの目をはばかるように机からわずかに覗かせる。借りていた万の本、間違いない、自分はこれを探すために学校へ向かった。
夢ではない、それは確かだ。しかしだからといって、少女の安否とカエルの行方、そして自分がこれからどうするべきなのかが分からないことに変わりはない。途方に暮れた思いでいると、教室のドアがガラガラと大きな音を立てて開けられ、級長の号令が響く。
鴎はどうにか体に活を入れ、老人並みによろよろと立ち上がった。
「えらい落ち込んでるじゃん、なんかあったのかよ」
内容がまるで頭に入らない授業を四限まで終え、いつも通り三人で昼食を摂っていると、そう仁に尋ねられる。剛史もこちらを見つめている。
「いや、ちょっと色々……」
なるべく明るい声を出そうとして、ちょっとの時点で力尽き、息を吐きつつ答える。こういう構ってほしがるような態度をとりたくないが、取り繕うことも出来ないほどに疲弊している。触れないでほしいというオーラを出しながら、購買で買った味のしない弁当を機械的に口へ運ぶ。
鴎は昨日のことについて誰にも話さないと決めていた。結果を出すまで散々悩んだが、誰かに相談することを検討したときに真っ先に顔が浮かんだ二人にも黙っておく。本が机に入っていたとはいえ、それであの出来事が実際にあったのだと証明できるのは鴎自身だけだ。また、下手に誰かに話して、この全容がまるでつかめない事態に巻き込んでしまうことを恐れたからだ。
二人は鴎の構わないでほしいという願いを静かに受け入れてくれたのか、そうか、と、呟くと食事を続ける。話さないと決めていたはずなのに、その思いやりは半日独りの心細さが沁みていた身にはひどく暖かい。
逡巡の後、鴎は思わず、あのさ、と、口を開きそうになる。すると仁が剛史の方を向きながら、
「なんだと思う」
と、話しかける。
「まあ十中八九、恋煩いですな」
「そんな、まさか……!」
「残念ながら、集中力の欠如、食欲の減衰、なにより女子への返事が上の空であることなどから、症状は明らかです」
「やっぱり、最近私を見る目が明らかに淀んでたんです!」
無いハンカチで涙をぬぐうフリをする仁、それに腕を組んで重々しくうなずく剛史。唐突に始まった二人の芝居に呆気にとられた鴎は、空返事をしていたのは女子に限った話でないと突っ込むのも忘れ、開いた口をそのままに二人を見つめる。
するとこちらを見た仁が
「お、やっぱなんか言うのか」
と、尋ねてくるので、力の抜けた首を振る。
「いや、なんでもないよ……」
答えると、再び役に入り込んだ仁が剛史につかみかからんばかりの勢いで、
「先生いまのは……」
「恋愛心理を利用した高度な戦術“焦らし”ですね。すでに重症です」
「そんな! それを私たちに使ってどうするつもりよこのケダモノ!」
鴎抜きで進む二人のやりとりを見ていると、だんだん視線が冷め、思わずため息が出る。力が抜けた体で箸を動かす速度を緩め、いつものゆっくりとしたペースで口を動かしながら、まだ続いている二人の三文芝居を眺めた。