月曜 夜
「ない……」
鴎は自室でリュックをひっくり返し、中身を確認するとつぶやいた。
ごみ一つ落ちていないきれいな床で、鴎の周りに散乱する教科書、ノートは、そこだけ地震でもあったかのような印象を与える。家に帰りつき諸々の用事を済ませた後、今日借りた本を読もうとリュックを漁ったところ、その姿が見当たらず中身をぶちまけたのだ。ぶちまけた教材をリュックに収め直す際にもう一度確かめるが、やはり本は無い。
今日の自分の行動を思い返す。図書室から出た時には確かに持っていた。その後教室に戻り、級長に話しかけられたときあたりから記憶があやふやだ。もしかしたら誰かの机に置いたままかもしれない。
とりあえず明日の朝学校で確認してみようと思い、今日はもう寝るつもりでベッドに向かうが、結と話したときのじんわりとした熱がぶり返し、なかなか寝付けない。
鴎はベッドの上で芋虫のように二、三度転がり、突然立ち上がるとベッド脇の机においてある時計に顔を向けた。九時を指す短針と三十二分を指す長針を見つめ考える。
帰り際結に言ったことはその場を逃れるための嘘ではない。鴎の住むアパートから学校までは片道十分程度だ。
学校に行ってみて宿直の先生か警備員の人に会えば、事情を話して入れてもらえるかもしれない。誰もいなければ、その時はその時だ。
意を決すると制服に着替え、部屋の電気を消し外に出る。まだまだ冷たい五月の夜風が顔をなめるように吹き抜ける。鴎は少し目を細めると、高校への道を歩き始めた。
木が生い茂る坂を登り終えると、視界いっぱいに校舎が映る。明かり一つない暗闇のなか、揺るぎもせず佇む巨大な影に向かい合うと、その存在感に圧倒される。思わず足を止め校舎を見上げていたが、呆けている場合でないと思い返し再び歩み始める。
警備員の有無も居場所もわからなかったが、宿直室があるなら職員室の近くではないかと当たりをつける。歩き出そうとしてふと、できればスリッパを履いて移動したいと思った。靴下のまま廊下を歩いてしまうとあっという間に真っ黒に汚れる。裸足になることも考えたが、もし警備員に出会ったときそれではばつが悪い。
今日既に二度通った生徒用玄関へと向かう。三つある入口のうち、一年生用は左端だ。部活動や委員会の中心である二年生になれば真ん中の入口を使い、三年生になれば右端の入口をつかう。
ダメもとで試みてみると、ガラス張りの扉は意外にもすんなりと動いた。どうして施錠されていなかったのかしばらく悩んだが大した考えはでてこない。きっとカギをかけなくていい理由があるのだと自分を納得させ、閉めた扉をそのままに靴箱からスリッパをとった。
ここから教室のある校舎へ向かうには、もう一つ、校舎と生徒用玄関をつなぐ、施錠されているはずのドアを開けなくてはならないので、鴎は反対側の職員室へ向かおうとしたが、そこではたと思いつき、校舎側のドアを開けようとしてみる。
予想は的中した。こちらもカギはかかっておらず、ドアはまるで鴎を迎え入れるようにレールの上を滑った。
やはりなにか理由があって施錠していないのだろうか。
二階の教室へ向かうため、鴎は夜の校舎へと踏み入った。図書室からの帰り道とは質の違う静けさに満たされた廊下を歩くと、鴎一人の足音が響く。パタパタという音を黙って聞いていると、自分は今たった一人なのだと心の底から思った。
隅に埃のたまった階段に足をかけると、踊り場の壁に取り付けられた姿見鏡が目に入る。
学校の怪談に何かと名を連ねているだけあって、こうして夜中に月明かりに照らされた鏡はなかなかに雰囲気がある。鴎は幽霊や妖怪の存在を信じていないが、夜の恐怖はまた別の話だ。見つめていると何か出てきそうで、なるべく目を向けないようにしながら足早に横を通り過ぎ階段を登りきった。
一年生の教室は一階にあるので、ここまでくれば後は自分のクラスへ向かい、本を回収するだけだ。そして鴎が月明かりで薄暗く照らされた廊下へ足を踏み入れると、そこにはカエルがいた。
おかしな取り合わせだった。もうすっかり見慣れた廊下の真ん中に、こちらも図鑑やテレビの動物番組で何度も目にしたアマガエルが陣取っている。見慣れたもの同士なのに、組み合わせ一つでこうも珍妙な景色になるものなのか。
しかし、廊下が異質な空間に変貌した最大の理由はアマガエルの大きさにある。最も鴎に近い一組の教室にはずらりと学習机が並んでいるが、アマガエルはその机二つを縦に並べた分に匹敵し、廊下をせき止めかねない大きさだ。ヌメヌメとした皮膚が鈍い光沢を放っていて、この暗さの中でもはっきりとした緑色が目立つ。
突然現れた化けガエルに驚いた鴎が、
「うわっ」
と、情けない声をあげながら後ろに倒れこみしりもちをつくのと、アマガエルが大口を開けるのは同時だった。
その瞬間、カエルの口から放たれたピンク色の何かが、鴎の頭上すれすれ、髪の毛一本分の距離を猛スピードで通り過ぎた。そしてすぐ後ろで固いものが砕け散る音があがり、破片が鴎を襲った。振り向くと廊下の壁が、そこだけ銃撃でも食らったかの如く粉々に吹き飛んでいる。
鴎は、
「え……」
と、間の抜けた声を上げると、壁をしばらく見つめた。生唾をのみ下したあと、ゆっくりと顔をカエルへ向きなおす。
カエルの大きさ、その舌がコンクリの壁をバラバラにしたことへの驚きが、あともう少し倒れるのが遅れていれば、吹き飛んでいたのは自分の上半身だという事実への戦慄に変わる。
突然現れた化けガエルに鴎はすっかり呑まれた。急いで立ち上がるべきなのか、座りこんだままでいるべきなのか、そんな簡単な二者択一からも逃避し、ただその巨体を眺めている。
視界の端に映る床に散らばったコンクリに、落としてしまったウエハースの欠片を想起する。次の瞬間死ぬかもしれないという、味わったことの無い恐怖に包み込まれた体はピクリとも動かない。
どういうわけかカエルも姿勢を変えることなく、しかし大きな二つの目玉をギョロつかせながら鴎を見ている。その体表はじっとりと湿っており、見つめているとあの田圃に住む生き物特有の泥臭さが思い起こされる。
一人と一匹がお見合いを始めてから十秒ほど経ち、鴎は我慢できない苦しさを覚えた。呼吸は座りこんでから止まっていたが、酸素不足に苦しむ体が反射的に息を吐きだしてしまう。向かいから伝わってくる振動に反応したカエルは小さく首を傾げたあと口を開いた。
その瞬間、成す術もなく座りこむ鴎へ、死が到達するまでの僅かな間に、窓ガラスが突き割られ、人影が鴎とカエルとの間に立ちふさがった。
静寂を破りながら廊下に降り立った人物は鴎より少し小さいくらいの背丈で、純白を基調とした軍服を思わせる衣装に身を包んでいた。
両の手で体の前に構えるようにしている薙刀は、柄だけでその身長を超え、先端は透き通るようでありながら柄に近づくほど深さを増す翠色の刀身を有する。何よりも目を引くのは腰を超えるほど長い髪、色は月の光を浴びて鋭い輝きを返す銀だ。
全身におよそ日常では目にしない色彩を纏い、まるで絵画の世界に入り込んだ衣装の姿は、現実のものと思われない威を備えていた。
闖入者は薙刀を頭の横まで掲げると、鋭い切っ先を一気にカエルへ向かって振り下ろそうとする。天井に接触し引っかかるはずの刃は、まるで水の中を進むように動き、あとにはその影を追うかのように引かれた真っすぐな切れ込みが残るだけだった。
行く手を阻むものをいともたやすく切り裂きながら、その勢いを衰えさせることなく、翠の刃が吸い込まれるように目標の脳天へと叩き込まれる。
ドスリと腹の底に響くような音と、げっぷのような音が切り口から漏れた後、しばらくの間カエルはぴくぴくと痙攣し、やがてその動きを止める。それを確認した人物は、薙刀を引き抜き、ゆっくりとした動作で鴎へ向き直ると、
「怪我はありませんか」
と、声をかけた。
鴎のゆるみ切った頭は、階段を上る間も、せいぜい警備員と鉢合わせるくらいの事態しか想定しておらず、化けガエルと遭遇した時点でキャパシティーを軽くオーバーし、突然現れた謎の人物がバカでかい刀を振り回してカエルを沈黙させたときには、とっくに回路が焼き切れていた。
結果として鴎は始まりから終わりまで間の抜けたアホ面を晒し続け、声をかけられてもなお呆然としていた。
こちらを心配そうに見つめているのは、端正な印象を受ける、しかし幼さの抜けきらない顔立ちの少女。何一つ装飾が施されていないがゆえに、却って目的のために研ぎ澄まされたもの特有の美しさを感じさせる翡翠の薙刀を携え、今までに目にしたことない様式の服を着用している。そして最も特徴的な銀色の長髪は、今もなお月光に照らされ輝き続けていた。
何もかもが規格外の様相に、鴎は立ち直る暇もなく呆気にとられた。少女は目立った外傷の見当たらない鴎が沈黙を続けるのを見て、憂いの色を深めた。
そこではたと何かに気づいた様子で、自身が持つ薙刀を見つめる。すると薙刀が両端から光る粉となり空気中に霧散していき、結果として薙刀は縮んで少女の左手に収まり見えなくなった。
これでよし、という表情をすると、
「もう安全です」
と、もう一度鴎に話しかけながら、右手を差し伸べた。
再び目の前で行われた不可思議な現象と、氷の冷ややかさではなく清水の涼しさを持つ声は、鴎に気付けの効果をもたらした。働き始めた頭はようやく、自分が女の子の前でみっともない体勢を取っていることに気づく。鴎は少し赤くなった頬を自覚しながら
「あ、ありがとう……ございます」
差し出されたので何となく手を取ろうとするが、頭の中には山のように疑問が連なり、次から次へと溢れそうなほどに湧き出てくる。
今のカエルは何なのか、どうしてあんなに大きかったのか、なぜそんな刃物を持っているのか、そもそもこの子は誰なのか。
まとまりのない思考をどうにか言葉にしようとしたとき、少女の後ろで何かが蠢くのが見えた。伸ばされた手をつかみ返そうとした手でそちらを指さす。
「今何か……」
どうかしたのかと首を軽くかしげながら、少女も鴎の指の動きを追う。そこには、白目から黒目へと、瞳の色を戻しつつあるカエルがいた。少女が薙刀を再び出現させ、臨戦態勢を取ろうとしたときにはもう遅く、高速で放たれた舌がその華奢な体を廊下の端まで吹き飛ばした。
先ほど食らった斬撃はカエルにとって致命傷だったのか、最後の力を振り絞ったであろう攻撃からは、壁を破壊したときのような威力は失われていた。しかし、少女を叩きのめし、鴎の頭をもう一度真っ白にするには十分すぎるほどの一撃だった。
鴎は、仰向けになり動かなくなった彼女を見つめたまま座りこんでいる。
冷気を尻から伝えてくるこの床が、再び、いつカエルに襲われるか分からない危険地帯と化したことを悟った鴎は、直前にそこから自分を救い出してくれた少女へとゆっくり首を振り向けた。
空中に放り出された後、床に激しくたたきつけられた少女は、枯れた息を短く漏らすとぐったりとし、それでも痛みに震えながら上体を起こそうとしていた。
少女は、その痛々しさに思わず顔を背けそうになった鴎の瞳を、黒い瞳で捉えると、か細い声を漏らす。廊下が静まり返っている事を差し引いても、鴎の耳に届くその声はひどく鮮明だった。
「逃げて……」
舌の直撃した右わき腹からは血が滲みだしていて、その鮮烈な赤を目にした途端何もかもから逃げ出したくなった鴎にとっては、少女がしぼりだした言葉はダメ押しでしかなかった。一寸先の自分の姿を垣間見た恐怖は、鴎になりふり構わずこの場から去ることを選ばせた。
目前の化け物のことも考えず、鴎は満足に動かない足を引きずりながら立ち上がると、夢中になってもと来た道へ駆け出した。階段を二段飛ばしで降り進み、最後の最後で足を踏み外すと額をしたたかに地面へぶつける。あまりの痛みに視界がうっすらと滲み、口中におかしな甘みが広がる。しかしすぐさま起き上がると玄関へ向かった。
靴箱を通り過ぎ、スリッパのまま坂を駆け降りる。振り返ることも、どうなるか想像すらもしなかった背後では、暗闇に包まれた校舎が、行きと同じように妙な存在感を放ちながら、揺らぐことなく佇み、鴎を見下ろしていた。