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With the Wind!  作者: 肉丸 もりお
薫風の運び手
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月曜 放課後(4)

 時折会話を交えつつ、二人が四組の点検を終え、場所を五組の教室に移し作業を進めていると、ぶつりという音がスピーカーから漏れた。一日の疲れを滲ませた教頭の声が続く。(かもめ)はそれを、床に膝をつけ頭だけを上げる形で聞いた。


「あと十分で六時になります。校舎を施錠しますので生徒の皆さんは帰宅してください」


 もう一度ぶつりという音が響き、スピーカーは沈黙する。鴎は


「もうそんな時間なんだ」


 と、呟き、雑巾片手に立ち上がると体を伸ばした。


 ぽきぽきと音を鳴らしつつ窓の外を見ると、確かに陽は落ちている。鴎たちがいる南校舎の反対側、北校舎の明かりはすべて消えていて、塗りつぶしたような暗闇の中その輪郭だけが浮かんでいた。こちら側の廊下も電気はついておらず、しんとした空気が(はし)まで満ちている。


「全部は終わらなかったね」


 それぞれの荷物を持って教室を出た二人は、廊下の電気を点けると並んで歩く。


「残りは明日しようと思います。」


 点検は毎週水曜日に一クラスの清掃委員が割り当てられるらしい。やり残しがあったところで教師陣はそこまで確認しないので、皆水曜だけで終えてしまうが、(むすび)はあくまでやりきるつもりのようだ。


「こんなに遅くまで手伝ってくれてありがとうございました。」


 お礼を言いながら丁寧に頭を下げる結の姿を目にすると、


「明日も手伝っていい?」


 という言葉が口から飛び出た。結は少し驚いた顔でこちらを見返している。


「いいんですか?」


 思わず口走ったのは自分でも意外だったが、問い返しをそのままに自問すると出てきたのは、


「うん」


 という力強い声だった。


「掃除やること多いみたいだし、僕部活入ってなくて時間だけはあるから、手伝わせてよ」


 実際、今の鴎が家に帰ってすることといえば読書くらいだ。それなら、この真面目な同級生を手伝うのも悪くないだろう。


「それに、もうちょっと六城さんと万先生の話してみたいし」


 本音を言うと、こちらが一番大きな理由だが。


「いいかな?」


 結が首をコクりと動かすのを見ながら、結を手伝いたいと思ったのはうそではないとも思う。


 どれだけ擦り切れた雑巾でも躊躇わず鴎より先に手に取り、汚れたバケツの水も率先して変えにいっていた。それは委員でない鴎を巻き込んだことへの負い目もあったかもしれないが、結が、やるべきだと自分が思ったのなら独りでも行動に移す人間だからだろう。そんな所作の端々から(うかが)える強い責任感に、鴎は好感を持った。


「では、明日もよろしくお願いします」


 鴎は頷き、自分がなんだかうれしそうな顔をしているのに気づくと、急にこっぱずかしくなってきた。

 顔を正面へ向けると他の話題を探す。そういえば、万の本について話している途中だった。


六城(ろくじょう)さんは(よろず)先生以外の本も読むの?」


 話題の切り替え方は多少強引だったが、結は気にしていないようで、そうですねと視線を上にやりながら、


「本を読むのは好きなので、他の作家の方のものもたくさん読みました。でも、一番気に入っているのはやっぱり万先生の本でよく読み返します」


 と、答えた。


「里見さんは万先生の作品でどれが一番好きですか?」


 鴎は少し答えに窮する。一番がどれか悩んだからではない。悩むまでもなく、鴎には繰り返し読んでいる大好きなシリーズがあった。それは別世界を舞台にしたファンタジー作品でありながら、日常に潜む苦境に抗う主人公たちを描いたもので、鴎は事故に遭い、呆然として病院のベッドに体を沈めていたころにその本を読んだ。


 中盤、突然病魔に襲われる主人公に鴎は思わず自分を重ねた。そしてそれを乗り越える姿は、しゃがみこんだままの鴎の胸を打ち、足を動かそうとする気力を与えた。それ以来その本は鴎のお気に入りになった。


 しかし、そういった作風は、当時の、リアル路線でエンタメ性を重視する万の著作の中ではほぼ唯一といっていいものだった。異星人と地球人が交換留学するような話を書いたり、彼の作風が雑多になった今でも、彼のファンの間では、その毛色の違う作品を万作品の(くく)りに入れたがらないものも多い。


 実際、読後他の人の感想が気になった鴎がレビューサイトを覗くと、万らしくない、スカッとした印象を与えない駄作だ、作風の転換のつもりなら失敗である、といった批判が多く目についた。


 大げさでなく、自分に生きる上での活力をもたらしてくれた本が、多くの人に酷評されていることは、胸が刺されるような痛みを鴎に与えた。


 そのときの胸の痛みが想起され、鴎はその名前を口にすることに迷いを覚えたのだ。

 しかし、先ほど話したこの少女になら、打ち明けてもいいのではないかと思う。鴎が考えもしなかった解釈をするこの女の子なら、新しい切り口で作品の魅力について話してくれるのではないか。


 心中に湧いた期待は、結も否定的な立場だった場合への不安と等量で、自然と恐る恐るの切り出し方になる。


「『アルカンスの矜持(きょうじ)』っていう本、五年くらい前に出版された。何度も読むくらい好きなんだけど」


 結がどんな反応をするのか分からず、恐れるあまり顔をそちらに向けないようにしていた鴎は、彼女が浮かべた驚き、驚愕と言っていい、ここまでのおとなしさからは考えられない情報量を含んだ表情を、目にすることはなかった。

 それゆえ鴎は、数秒してから、結が感情の色を感じさせない声で、


「そうですか」


 と、答えたのを聞いても、ああ、六城さんもあの本があまり好きじゃないのかな、と、考えた。

 実際にはその声音の平坦さと、波が引いた後の表情のない顔は、結が動揺を悟られないように努めた結果だったが、それを目にしていない鴎にとっては、結の短い返事だけで落ち込むには十分だった。

 話の接穂(つぎほ)を失った鴎と、乱れた胸中(きょうちゅう)に囚われた結がそれきり押し黙ったまま歩いていると、二人は靴箱にたどり着いた。

 鴎は、この雰囲気で別れるのはいやだな、と思い、重苦しい沈黙を破ろうと明るい声で、


「六城さんは帰り自転車?」


 と、尋ねる。結もおなじことを考えていたらしく、


「いえ、車で送迎してもらっています。」


 と、すぐさま返事が返ってきた。

 言われて駐車場を見ると、黒色の高そうな車が生徒用玄関の近くに停まっている。おそらくあれがその車だろう。


「よければ里見君も乗せてもらうよう頼んでみましょうか」


 鴎は、家が近いから、と、提案を丁重に断った。さすがに仲良くなったばかりの女の子とその保護者だけの空間に身を置く勇気はない。

 去り際の挨拶でも丁寧に頭を下げる結に手を振り返し、家路についた鴎は、自分の足取りが少し軽いことに気が付いた。やはり万のファンを見つけたことが嬉しかったのだ。『アルカンスの矜持』に興味がなさそうだったのは残念だったが、他の作品のことは話せそうだ。

 知らず頬を緩ませながら、街灯と家々から漏れる明かりに照らされた街を見下ろしながら、鴎は坂を下る。

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