月曜 朝 里見鷗の場合
里見鴎は県立江袋高校が誇る長大な坂を上り、七時五十六分ちょうどに校門を潜り抜け、五十九分三十二秒に教室へ滑り込んだ。もつれる足で何とか自分の席までたどり着くと、リュックを横に下げそのまま机へ突っ伏す。ぜえぜえと荒い音をたてて呼吸を繰り返す鴎に明るい声がかけられた。
「鴎くんおそーい」
鴎は、玉の汗を浮かべた顔をゆっくりと声の方へ向けながら、少し気弱そうな印象を与える笑みを浮かべ、答える。
「ギリギリ、セーフ」
昨夜鴎は夜更かしして本を読んでいた。十時には眠ると決めていたが、このページで、いや次の章まで、と誘惑に抗いきれず本をめくり続けてしまい、目覚まし時計が午前零時を告げるアラームを鳴らしてようやく床に入ったが、結局起ききれず、今朝は学校まで全力で走る羽目になったのだ。
なんとか息を整えようとする鴎をおかしそうに見つめながら、隣の席に腰掛ける大谷 茉莉は続けて質問を放つ。
「また本読んでたの? この間もそれで遅れたって言ってたよね」
訊かれるかなと予想していた質問だったが、鴎は答えに窮する。さほどメジャーなタイトルではないので正直に答えると場が白けてしまうかもしれない。えーと、とかなんとか言ってまごついていると、大谷の周囲に集まっていた女子の話題が自分に移る。
「鴎くんって読書家なんだ」
「確かに細いし家こもってそー」
「お菓子の作り方とか調べてそー」
「わかるー、なんか長い名前の料理つくってそー」
女の子たちは口々に勝手な感想を言って盛り上がっているが、悪いイメージを持たれているわけではないようなので文句は言わないでおく。
つい昨日三分待つカップラーメンを勘違いして五分待ち、伸びた麺をずるずるすすったばかりの鴎が半笑いを返していると、扉が遠慮なく開けられる音がして担任の山口教諭が教室へ入ってきた。
「ほら席つけ」
まだ立ち歩く生徒を急かす教諭の姿を見て、女の子たちもじゃあねー、またねー、と言い合って各々の席へ戻っていく。HRが終わればまた集まるというのに、どうしてこういうとき、女の子はいちいち手を振るのだろう。
間の抜けた顔でそんなことを考えている鴎に、
「ぎりぎりだったね」
と、大谷が悪戯っぽい笑みとともに囁く。
鴎が、まったくだ、と、少し夜更かしのことを反省していると、級長の号令がかかり慌てて立ち上がる。主に男連中の立てる、ガチャガチャと椅子を引っ張る音が収まると、山口教諭が挨拶をし、近頃生徒たちの態度に緩みが見え始めているという趣旨のお説教を開始した。
鴎が教壇から視線を外すと、途端に山口教諭の声は透過率を増し、耳から耳へ通り過ぎていく。この意識の逸らし方がすっかり板についたのはいつからだろう。小学校まではきちんと教師の話を聞いていた気がするが。
五月半ば、古なじみと、まだ出来立てほやほやの交友関係とが入り混じる教室。充満していた新生活への不安と緊張感がようやく薄らいできたのを感じる。
鴎自身、窓から差し込む暖光に心地よさを覚える程度には余裕が生まれてきた。季節は冬から春への変わり目であり、その厳しさを収め、暖かさをのぞかせようとしていた。
寝不足気味の頭でなんとか四限目までを乗り切り昼休みを迎える。リュックからのろのろと弁当箱を取り出していると
「はらへったはらへった」
と、口にしながらガタガタと近くの椅子を引っ張り、友人の大寺仁が近づいてきた。
「マジでぇこのままだとぉガリガリにやせほそっちゃうんですけどぉ」
そしてもう一人の友人である倉沢剛史も裏声で話しかけながらこちらに向かってくる。女子のまねのつもりだろうが声色を捉え間違えている。気色悪さが三割増しだ。椅子を持った二人と一緒に、鴎の席と隣の席をくっつけて、三人分のテーブルを作った。隣の席の持ち主の大谷は、他の子の席へと食べに行っている。
「お、今日チーズインハンヴァーグじゃん」
やたら巻き舌で仁が喜ぶ。鴎の弁当は作り置きの焼き鳥がおかずだった。
「モッツアレラチーズって名前の由来何よ?」
「食感だろ。餅っぽい」
剛史のめちゃくちゃな答えに、仁はへー、と、納得した声を上げる。いや違うでしょ、と、突っ込みながら鴎はてかてかと輝く白ごはんを口にした。
「じゃあなんだよ」
「地名とか、作った人の名前じゃないの、知らないけどさ」
「違いますー。モッツァレラっていう単語から来てるんですー。ちなみに諸説あります―」
「知ってんのに聞いたのかよ」
「腹立つなあ」
三人とも男子高校生らしい軽薄さがあるが、仁は特にお調子者だ。得意げな顔でイタリア語の講釈を始める仁を無視した剛史は「三限相変わらずだるかったな」と言いながら焼きそばパンへ豪快に食らいつく。
剛史が指しているのは生物基礎の授業だ。担当の赤村は最近教師陣の中でひと際陰気なオーラを漂わせており、授業中も、声が小さい、字が汚い、なんかキモイ、と主に女子から散々な評判だ。
仁と剛史が部活で上級生に評価を聞いてみたところ、課題を忘れた生徒の番号を教室に張り出す以外には特に不満の声はなかったらしい。実際鴎たちにとっても少し前までの赤村はいまのように陰気ではない、むしろマッドサイエンティストの成分が高めな明るい教師で、女子からのキモいという声も控えめだったのだ。
鴎たちもつい先日、赤村がどうしてああなったのか徹底討論したばかりだ。ちなみに結果は飼っているサンショウウオを恋慕しているからということで落ち着いた。
そして今日の三限、赤村は授業開始の前にところどころの単語が虫食い状態のプリントを配ると、それを埋めるよう指示し、後はチャイムが鳴るまで椅子に腰かけ憂鬱そうな表情を浮かべ、大きな雲が大半を占める空を眺めていた。
その瞳は完全に虚空へ向けられており、鴎は依然映画で見たヤク中の顔を思い出した。鬼気迫る演技を見せていたその役者は、薬物使用で逮捕歴があった。
すでにクラス内で一定の権力を手にし、授業中に教師の間違いをビシビシ指摘する級長も、その顔を見ると何も言えなかったのか黙ったままだった。結局鴎たちは時間いっぱい黙々とプリントに取り組む羽目になった。
「先生なんだかすごく落ち込んでたね」
「俺はまたサンショウウオのこと考えてたのに一票だわ」
「サンショウウオと俺たちのどっちが大事なんだろうな」
まだ見ぬサンショウウオのチャームポイントに思いを馳せ、熱い議論を続ける二人を尻目に、鴎は赤村の横顔を思い出す。
落ち込む、というより思い詰めるが適切な暗さだった。こんなとき、学生のネットワークはブンヤも真っ青の迅速さでその理由を仕入れるものだが、今回に限っては多様な憶測が飛び交うばかりでこれといった話はない。大の大人がほとんど職務放棄同然の行いをする理由は果たして何なのか。
思考の沼に沈み込んでいく鴎だが、情報が少なすぎるこの段階で答えが得られるとは思っていない。この少年が日頃魯鈍にすら見えるのは、意識に引っかかった事柄をつい弄り回してしまう性分のせいだ。
剛史に「チャイムなるぞ」と声を掛けられ、意識が現実に引き戻された。慌てて箸を手に取り弁当の残りを掻き込む。一時は考え込んだが所詮は他人ごとであり、弁当を食べ終え五限目が始まる頃には、三限の出来事も赤村のこともすっかり忘れていた。




