夏
あれは成之が十二歳になる年の夏だった。
肌を焼く日差しと、だらだらと流れ続ける汗、巻き起こる砂の臭いに苛立ちながら、出先から家への道を歩いていたときのことだ。
「そこの少年」
息切れした声の方を見ると、ベンチに男が座っていた。背丈は成之より頭一つ分ほど大きく見えたが、座っているので正確なところは分からない。背もたれにだらしなく寄りかかり、空を向いた顔にはタオルがかかっていて顔が隠れている。
「悪いが、肩を貸してくれないか」
口だけが動いて嗄れた声を発する。
成之は皴を寄せた眉でそちらを見た。蝉が力いっぱい鳴く音が聞こえる。
外出している理由は面白くもないことだったので、気分も絶好調とはいかない。今の成之には赤の他人の世話をしてやるゆとりはなかった。
自分に声を掛けたということは“可能種”だろう。放っておいても死ぬことはない。
顔を正面に戻すと、黙って歩き始めた。その背中に、また男の声が投げられる。
「おい…」
知るか、今日は午後までに家に帰っておけと言いつけられているのだ。
成之は足を速めると、男の方を振り向くことなくその場を去った。
男はずり下がったタオルから、青い瞳でその影を追った。
「…」
「遅いぞ!」
屋敷の門をくぐると怒鳴り声が耳を打ち、成之は肩をすくめた。びくびくと顔を上げると、父である不破克幸が険しい顔でこちらを見ていた。
「急げ!」
どこに行っていたのかは聞いてくれないのですか。
成之はそう尋ねたい衝動に駆られ、そのまま立っておこうかと考えたが、父親の隣に立つ、叔父の真上亮二に、「急ぎなさい」と諭され、黙って屋敷に駆け込んだ。
部屋にたどり着くと、女中が礼服を用意して待っていた。
「お手伝いを…」
「いい、自分でやれます」
「ですが」
「結構です」
成之が強く言い張ると、女中はやむを得ないという顔を作って出ていったが、鼻つまみ者に関わらないで済んだことにほっとしているのは露骨に軽い足音から分かった。
着替えて玄関に出るころには、父も含めて一族の主な人物が集まっていた。
父の隣に行くのは気が引けて輪の外で立っていると、従兄の重利と目が合った。
近頃、重利は成之を見下していることを隠さなくなった。すぐに目を逸らすと、つるんでいる同年代の連中との会話を続けている。
一層気分が落ち込んだ成之は、屋敷を囲う塀まで近寄り背中を預けた。そうして見知った親戚たちの顔を見回す。どいつもこいつも、重利と同じように、成之に気づいていても知らない振りをしている。
この居心地の悪さは、あの中にいるのと、こうして外で眺めているのでは、どちらがましなのだろうか。
内心のどうしようもない寂しさを反骨心でくるみ、成之は可愛げの欠片もない目つきで地面を睨みつけた。そうして退屈な時間をやり過ごしていると、人込みをかき分けて誰かが向かってくるのが見えた。
「おい、成之」
「…叔父さん」
亮二は大柄な体を揺すりながら、小走りで成之の前まで来ると、
「なにやっとるんだ、もう客人もいらっしゃるぞ」
大きな手で成之の両肩を掴み、集団の奥、門の前の方まで連れて行った。途中で重利の引きつった顔が見えた気がしたが、確かめる前に別の肩や頭に遮られた。
二人が玉石を蹴散らしながら走る音に振り返った克幸は、いつに増してむすっとした顔で、何か小言を言おうとした。しかし口を閉じると、顎だけ動かして自分の隣を示した。今成之を叱ることは大事の前の小事だと思いなおしたらしい。
成之は唇をぎゅっと引き締めながら父の横に立った。そのまた横に亮二が立ち、一歩後ろに亮二の下の弟である和親が控えめにたたずむ。
克幸の近くにいるのは苦痛だ。受け答えに口ごもったり、簡単な儀礼の所作を忘れてしまうたび、ため息を堪えた顔に、出来損ないだと言われている気分になる。
今度も足元を見ていた成之は、周囲から上がったざわめきに目だけ動かした。
一族の者に案内された男が門をくぐっている。
「ようこそおいでくださいました」
顔が見える距離まで近づき、父が頭を下げる。
「出迎えもできずに…」
「いえいえ、それはこちらの都合ですから、三年ぶりですね、克幸殿」
「ええ、お久しぶりです、源十郎殿」
父の堅苦しい挨拶に笑顔で応じた年若の男は、口を開けたままその横顔に釘付けになっている成之へ、ちらりと視線をよこした。
佐國源十郎は、自信が完全に占拠した、気負いや恥じらいのない青い瞳を輝かせると、不敵に口元を吊り上げた。その服装は、ベンチに座り込んでいた男と全く同じだった。