代 その(3)
六城家の敷地の、ひと際濃い影から庵と代は現れた。景色どころか立っている場所すら一変したが、庵は周囲と代に目もくれず、屋敷の中へ走っていった。
敵は殲滅し、二人とも家まで戻った。契約は終えたと判断していいだろう。
一人になった代は、軽く息を吐くと帽子を脱いで後ろ髪を撫でつけ、涼しい夜気に目を閉じた。
ダメだな。
帽子を深くかぶり直すと、次の瞬間には明かり一つない真っ暗闇に立っていた。記憶を頼りに右手を動かすとスイッチがあり、押し込む。
裸の電球が数度明滅したあと、室内が黄色がかった光で満たされる。代は少し目を細めると、“威装”を解いた。その肌には夏場を思わせる汗が列となって浮いている。
代が立っているのは、六城家の地下空間に設けられた研究室だった。広さは十畳ほどで、壁は地面をくりぬいたままのごつごつとした岩肌だ。
庵たちには話していなかったが、元々ここには移動するために印を打っていた。庵に自身を殺す理由を与えるようなものなので、勝手に忍び込むのは控えていたが。
壁際にはこまごまとしたものが載った机と椅子。隅に置かれた植木鉢は空の中身で申し訳程度の気配りだと示している。二つある戸棚は、一つに実験器具が並べられ、もう一つは研究や調査について記した冊子で埋まっていた。
それを大して懐かしそうでもない目で眺めると、代はゆっくり後退る。壁まで来ると背中を押し付け、ひざを折ってそのままずるずる座りこんだ。
「いってぇ…」
表情のない顔で呟く。頭に埋め込まれた蟲が、この世の終わりを思わせる轟音と共に激痛を信号として送っている。代でなければ誰であっても、顔を歪めて泣き叫びながら転げまわらないではいられなかっただろう。
痛みと圧迫感自体は意識が覚めたときからあったが、ここまでひどくなったのは初めてだった。
手間暇かけて送り込んだ間諜をすぐさま処分するような間抜けな真似はしないと高をくくり、庵に忠告をした。あれのお陰で庵は自身への不信一色の評価に疑問を覚えただろうから、しばらくは邪魔されずに研究を行えるはずだが、報復は頭をたたき割る痛みだった。
仕置きをするかは、創造主に似せられた判断方針をもつ蟲次第だと聞いたが、よほどお気に召さなかったらしい。兄を苛立たせたこと自体は痛快ですらあるとはいえ、代償がこれでは二度目は考え物だった
ともあれ、ようやく研究を再開することができる。そう思うと、一息つくのも間違ってはいないと思った。
視界からの情報を処理しきれず、ぼんやりとしたままの頭を壁に寄りかけ考える。
そういえば、庵から尋ねられていたことがあった。六城と伊那、どちらを選ぶのか。あの子の味方なのか。
「そんなことはどうでもいいよ…」
“命題”を完成させる、それだけが今の代にとっての全てだった。それさえ叶えば所属などどうだっていい。
そうだ、完成させなくてはいけないのだ、タイムリミットの前に、必ず。
ふと妻の顔が浮かんだが、それは庵の意欲を何ら減衰させることはなかった。