代 その(2)
手練れの中には、接触していない状態からの背後への移動に対応する者がいた。
その可能性を踏まえて、姿を現すことで動揺を誘い、侮辱で平常心を奪い、挑発で心身の柔軟性を失わせたわけだが、
「いらなかったかなあ」
向こうが戦いに意識を切り替えたのは、最後の挑発の段階に至ってようやくだった。自分なら敵がノコノコ現れた時点で警戒するが、菊之丞は驚くばかりでそれどころではない様子だった。準備も何もできていない、素人同然の振る舞いに少しだけ同情する。
代が塵となって消える菊之丞の体を見下ろしていると、影が外壁を駆け上がって屋上に現れた。
視線をそちらに移す。
戦いを終えてすぐこちらに向かったらしい庵は、傷一つ追っていない身体に、“虎伏せ”の威風を備えていた。それは血生臭さを運ぶ風でもあった。
泡立ちどころか揺れすらない水面を思わせる顔の中で、両眼だけが殺伐とした昏い光を宿している。それを見た代は、アンバランスに過ぎるな、という思いを抱いた。
人を六人殺したばかりの男の顔ではないし、無表情についていていい眼ではない。
「……殺せとは言っていない」
洞穴から吹き出る風も、もう少し暖かみがあるだろう。
「放っておいたら逃げられそうだったからね」
代は肩をすくめて答えながら、庵を密かに観察した。
自分に怒りを見せていたときの方が、よほど人間らしかった。今は代のおちゃらけた態度も問題にしていない。戦いのあとに誰しもが持つ昂りを、庵はまるで感じていない風にも見えた。
感情の切り替えを行いすぎた弊害だ、と代は予想を付けた。目的のために感情を殺すことに慣れてしまっている。
殺し合いに即座に適応するため身に着けた技術だろうが、戦闘時と平時との乖離が激しい。別側面といっていいほどだ。その落差が精神に良い影響を与えるとは思えない。むしろその逆だと、今夜見た暴力性から読み取れる。
「“遺産”は」
「無かった」
戦闘用の顔は即座に作ることができるのに、それから元に戻るのには時間がかかるようだった。これも良い兆候とは言えない。
しばらくの間菊之丞が倒れていた場所に目を向け、ようやく上げた顔には不機嫌さが再来していた。
庵は敵意を隠さない目で口にする。
「ここまで全部脚本通りか?」
「なに?」
聞き返したのはあながち演技でもなかった。
「伊那だろうが、こいつら」
鎌をかけているのだろうか。
質問に関して言えば、代としても正しいと考えているが、全体像については自分の推測でしか語れないのが困ったところだった。
「いや、相楽だよ」
冗談には聞こえない真剣さを込めたつもりだったが、庵は取り合わなかった。
「佐久間の残党もけしかけて、喧嘩売ってるんだろ? お前らは」
代はため息を吐く。
「ちゃんと考えを窺って誤解を解いておこうかな、伊那が六城を狙う理由がある? 君もいるのに」
「そりゃ当主はあんたの娘だ。いい感情は持ってないはずだろ」
思わぬ答えに口を噤む代の前で、庵は淡々と続ける。
「あんたが姿を消してから調べたよ、できる限り」
「ふうん? どんな?」
「長男へ降りかかる災いを代わりに引き受けますように、なんてのは“可能種”からしても中々ぶっとんだネーミングセンスだ。そういう親の方針が影響したのか、本家筋だってのに随分冷や飯を食わされたみたいじゃねえか。結婚直前まで成人の儀がなかったってのはやっぱり普通じゃねえよ」
夜空に響くのはバイクが長々と引きずるエンジン音だ。街が発する目を刺す明かりが、二人の男の顔を照らす。
「あんたと兄貴の兄弟仲が悪いのも、伊那じゃ周知の事実だったんだろ。兄貴はことあるごとにあんたを悪く扱ってたって、誰に聞いてもそう言った。その可愛くない弟の娘のことを、可愛く思ってるはずがない。実際あの子が当主になってから顔を合わせたのなんて三回だけだ。首謀者の候補に加える理由にはなっても外す理由にはならない」
代は今度こそ首を振った。
「動機から作ってたんじゃねぇ」
誘導したのは自分だが。
「それだけ言うんならまず証拠からじゃない?」
「証拠?」
ぞわりとした感覚が肌を走る。開けた空間が張り裂けそうなほどに敵意が充満する。
「裁判でも受けてる気か、お前」
庵の腰に下がった鬼の面が、持ち主の険しい面持ちにこたえるかのように黒い靄を吐き出し始める。
「俺は俺が知ってるんだってことをお前に教えてやってるだけだ」
靄は腰から体の上下を伝わり、庵の腕や足を包む形で纏わりついた。
代は小さなため息をつくと、疲れた風に顔を上げた。
「……僕も知らされていなかったことは最初に言っておくけど、多分今回の事態は君の考え通りだろうね」
「勝手な都合で組んだ下らねえマッチポンプで俺たちを振り回して、あの子の友達を危険な目に合わせた、そうだな?」
「そうだね、そして何度でも言うけど僕はそれを知らなかった」
肩をすくめる。
「信じてくれなくてもいいけど、知ってたら止めてたさ」
「今回はそういうことにしておいてやるよ。今あんたをどうこうしたらあの子に気づかれる」
「嫌われたくない?」
敵意は殺意へと色を深め、滞留していた靄がまた動き始めた。
「……勝手に兄貴と兄弟喧嘩でもしてればいい。行きつく先が殺し合いだろうが俺の知ったことじゃない。だけどな、あの子をその道具にしようなんて考えてみろ」
意志の強さが黒々とした瞳を支配する。
「まとめて殺してやる」
少し前に他者に行われたこの宣言は、つい先ほど実行された。笑って誤魔化すことを許さない凄味が庵にはある。
「……そういう冷酷さ、いや、非情さを発揮できる君が、鴎くんには随分甘い」
話題の転換に、庵は鈍い反応を示した。代は構わず続ける。
「鴎くんが危険な目に会うことなんて考えればわかることなのに、君は結ちゃんに関わらせ続けた。正直、彼女のためになるなら犠牲になってもいいってスタンスだったんだろ? それが今は彼の身を案じて、保護者の役割を果たそうと努力している。どうして?」
庵の体を覆おうとしていた靄が、ゆっくりと面の方へ戻る。
庵は答えを胸の内から取り出すのに短くない時間を要した。
「鴎くんはあの子を助けるために命を懸けたからだ、これは言い過ぎでもなんでもない。彼には俺なりの敬意を払っている」
「まあ、鴎くんは結ちゃんが好きみたいだしねえ」
ぞっこんらしいことは、鴎と少し話しただけで分かった。
「でもずっとそうとは限らない、大体あと二年あるかないかで終わる関係だ。いいの? そんな不純な動機でも」
「下心が理由だとしても、ちびるほどビビった相手に殴り掛かった鴎くんを、俺は疑わない」
お前と違って。
そう書いてある顔に苦笑を返しながら、代は視線を街へ移した。
「結ちゃんの方はどうなんだろう、友達だって他にもできてるんなら、そう特別でもないかもしれない」
「鴎くんがいなかったらあの子は消えていた」
ぽつりと漏らす。
「ああ、“楔”になってるんだ、じゃあ案外もうできてるのかな」
返答がない。代が庵を振り返ってみると、そこにはどうしようもなく寂しそうな顔があった。
「……本当にそんな感想しか出てこないのか」
黙る番が代に回り、庵だけが口を開く。
「今話してるのはあんたの娘のことなんだぞ」
黒い瞳には、代への怒りより、姪への哀れみがあった。
正面からその瞳に向かい合っていた代は、庵に妻の面影を見つけそうになり、顔を僅かに逸らした。