由貴 その(3)
「生きてるな?」
「外傷なし、息もしてるよ」
飛坂由貴は年上である竜岡栄一と並んで床に寝そべっていた。どちらも顔や体に痣があり、後ろに回した両手をきつく縛られている。痛みからして足が折れているので、立ち上がろうにも立ち上がれない。
どうしてこうなったのか、由貴には分からなかった。
何もできなかった。菊之丞の指示を受け少年の目を抉ろうとしたら、突然目の前に二人分の影が現れ、気づいたときには痛みに喘いでのたうっていた。
六城家の“命題”が瞬間移動に関係するものだとは聞いていない。なぜあんな何もない場所から姿を見せたのか。
床の隅へ転がされる間も、これが現実だと思えず、隣の栄一と目を見交わしてようやく、受け入れるしかない悲惨な状況なのだと悟った。
鍛え上げた武術も、考え抜いた戦法も、まるで意味を成さなかった。指をかける傷すら見つけられない、どこまで伸びているのか想像もつかない壁が、相手と自分の間にはあった。
「あんた、どうせこの子の家も知ってるんだろ」
「まあね」
「連れていけ」
「向こうにもばれてるよ?」
「もう鴎君を狙う余裕は無くなる」
自分たちを抜きにして話しているのは“虎伏せ”だ。もう一人は分からない。夜の闇そのままの黒い“威装”に、軍刀と軍帽を身に着けている。
知っているか栄一に聞こうとして、その顔を染める憎悪の炎に呼吸が止まる。自尊心の強い栄一にとって、相手にもされずにこうしている状況は堪えがたい痛みで彼を苛むのだろう。
「それより、彼らはどうするの」
「これ以上構ってられるか。返してやる義理もない。屋敷で監禁しておく」
やっと二人について“虎伏せ”が触れたが、その内容に由貴は気を失いそうだった。
何も抵抗できず、作戦の根幹である人質を奪取された上、あべこべに囚われるなどという光景は、悪夢ですら優しく思える。もしそんなことになれば、栄一ほどプライドが高くなくとも自死を選ぶだろう。それほど屈辱的な想像だった。
そして栄一は、それだけで爆発した。由貴が止める前に声を荒げる。
「ふざけるな!解放しろ!」
“虎伏せ”ともう一人はちらりとそちらを見たが、視線はすぐに元へ戻った。
「あんたはさっさとその子を家に連れていけ」
「はいはい。いいの?一人で」
相手にもされず、栄一の頬が紅潮する。
「いい気になりやがって!見ていろ、俺たち抜きでも作戦は成功する、お前はこれでおしまいだ!」
「戦う気はないって言っただろ。中坊が戦争映画一気見したみてえな連中、そもそも相手になんねえんだよ」
再び無視され、栄一は怒りで我を忘れた。
「俺が受けた分の屈辱は、お前の大事な姪で晴らしてやる!俺たちの目的は六城家の当主だ!」
もう一人に人差し指を突き付けて指図していた“虎伏せ”の動きが止まった。ここからでは背中しか見えないが、ようやく示した反応に、栄一は狙いどころを見極めた思いのようだった。
しかし由貴には、停止した瞬間から、“虎伏せ”が何か別の生き物に様変わりしたように感じられた。ただ同じ空間にいるだけなのに、冷や汗が止まらない。
血が上った頭には分からないのか、栄一は喋るのを止めなかった。
「京都までは一日二日かかるぞ、その間散々に嬲ってやるからな。俺の報酬はそれでもいい、いや、そうしてやる、あっちに戻ってからも、ぼろきれになるまで俺が使い倒す」
この有様では、仮に無事に戻れたところで恩賞など期待できるはずもない。支離滅裂な発言は、しかし相手を逆なでするのには効果があった。
顔に影のかかった“虎伏せ”はつかつかとこちらまで近寄った。怒りに冷え切った瞳を見たとき、息もできなくなるほどの恐怖が湧き上がった。
由貴はもう助からないことを悟った。
「あいつを腸詰めにしてやるよ!」
叫んだ栄一の頭が吹き飛んだ。
「やってみろッ!」
部屋中を圧する怒声が迸り、蹴り飛ばされた栄一の頭がゴツンと音を立てる。伸びきった首の骨が繋ぎ止めたおかげで、頭部は辛うじて部屋を転がらずに済んだが、衝撃のあまりそこだけ陥没した。