木曜 放課後(4)
「母が亡くなってから、遺品を整理していたら見つけた原稿です。どうするか叔父に相談して、出版してもらいました」
「万先生に!?」
「親戚です」
再度フリーズした鴎が動くようになるまで、結は黙っていた。
「既に作家として成功している親戚なら、出版社に持ち込んで事情を説明するより融通が利くと思ったんです。実際その通りでした。そうして、母の書いたアルカンスの矜持は万桐生先生の本として出版されました。でも…」
驚きの連続で硬直していた鴎の頭にも、続く内容は予想できた。脳裏に浮かぶのはパソコンのスクリーンで、画面の青色よりも目に痛い文字が並んでいた。
「あの本は酷評されました」
そうだ、と鴎は思う。異色作として扱われ、万の変化を拒む意見が多数だった。
「当然です。それまでの本とは違う作風で、あの頃もうファンはついていましたから、拒む人がいるのは仕方がないことでした。でも、私はそんなことにも気づかなかった」
鴎は、突然結を影が覆ったように感じた。実際、その瞳は先程と異なる虚ろさをたたえている。
「早くに亡くなった祖母の代わりに小さいころから母親をして、結婚してからも家事ばかりしていた母にとっての夢だと思ったんです。私はそれを叶えたいなんて思って、後先考えずにあんな独りよがりなことをしたから…」
結の声から暗さが伝播したかのように、月明かりは大きな雲に遮られ、辺りは影の黒に呑まれる。
そんな暗がりの中でもはっきりと見てとれる銀髪、今は項垂れる少女の肩から零れる銀色が、鴎にはひどく美しく、それでいて哀しく見えた。肘を握る手は抜けるように白く、今更ながらにその線の細さに気付く。
「あんなに大好きだった母のことを思い出すと、今は申し訳なさでいっぱいになって、自分のことがどうしようもないほど許せなくなるんです」
こうして話すうちにも少女は自分を責めたてるようで、足を組む両腕はそれで自らを縛り付けているようだった。
鴎はそこで、結が消えてしまいそうなほどに望みを失っていたのがどうしてか分かった気がした。
結と庵にはどうにも溝があることが言動の端々から時折伝わってきた。互いをあの子や叔父と呼ぶばかりで、名前では呼ばないのがその最たる例だ。
唯一の近親者と上手くいっていない中で、大好きだった母の思い出は結の宝物だったのだろう。生きる上での拠り所だったのかもしれない。そしてそれを自身の手で傷つけたと思った結は、その宝物の入れ物に鍵をかけたまま今日まで生きてきたのだ。
「だから、あの本のことを嫌っているわけではないんです。ただ、私は向き合うのが怖かった。鴎くんから名前を聞いた時も、上手く喋れなかったんです。気分を悪くさせていたなら、ごめんなさい」
瞳の暗さとは対照的にすらすらと流れ出る言葉を聞いたとき、鴎は結の無表情が生来のものでもなんでもなく、処世術だったのだと気づいた。
きっと結は母親の本のことで、自らの行動で手酷い痛手を食らってから、感情を鈍化させてきたのだ。懐古の熱が高ぶれば、それは自分にも向かってしまったはずだから。
そこまで考えて、鴎は思っていることを伝えたいと思った。そんな風に自分のことを責めないでほしかった。上手く口にできるか分からなくても、結のことを、覗いた胸の内の痛々しさを放っておきたくなかった。
「…アルカンスの矜持はさ」
できるだけ明るくなるよう意識した声で、鴎は結に話しかける。艶やかな髪が揺れ動き、僅かに持ち上がった頭がこちらを見ていた。
「読んでると、力が湧いてくるような、前向きになれるような本だった。それって、六城さんのお母さんが、読んだ人に元気になってほしいって、そう思ってたってことじゃないかな」
こちらの意図を図りかねるような表情を浮かべたまま、結は鴎を見つめる。
「さっきも言ったけど、僕はあの本のおかげで勇気づけられた。僕だけじゃないと思うよ。六城さんも読んだならわかるでしょ?すごく真っすぐに、頑張れって励ましてくる本だった」
「…はい」
尋ねたのは自分だが、結の返事に同調するように鴎は心中で頷く。これは間違っていないはずだ。読み返す度に前向きになるのは、きっと鴎の単純さだけが理由ではない。
そして鴎は、何処かぼやけていた作者の像が、はっきりとした色彩を持ち始めたことを感じた。そしてその中に、初めて読んだときから抱いていた感触が続いている。
「あんなに素敵な話を書く人は、読んで元気が出た人が一人でもいたら、喜ぶような人なんじゃないかなって思うよ」
そうだ、初めてアルカンスの矜持を読んだとき、きっとこの作者は、あのときの自分のように俯いたままの誰かへ届けようと、この本を書いたのではないかと感じた。
「まぁ、僕の勝手な考えなんだけど」
苦笑いをしながら首に手をやりつつ、もう一度結に尋ねる。
「六城さんはどう思う? お母さんは、それでも六城さんを怒るような人だった?」
鴎が思った以上に、その質問には効果があった。揺れる胸の内を引き写したような目、何かを堪えるように唇が引き結ばれた。
「…お母さんがなんて考えるかはもう分からないけど、鴎くんのことを知ったら、喜んで私に抱きつくような人でした」
逸らすように伏せられた顔はもう見えないが、しかしそのはっきりとした声に、鴎は安堵した。
「だったら六城さんのしたことは、六城さんが思ってるほど悪いことじゃないはずだよ」
自然と柔らかくなった語調で、鴎は滔々と続ける。
「もう、お母さんが好きな自分のことを許してもいいんじゃないかな」
返答はなく、それでも鴎がもう喋ろうとしなかったのは、震える背中を見たからだ。
鴎は黙って座り直し、校舎へと視線を向ける。雲が風に流され、青白い月光が屋上に満ちる。聞こえた気がした細声は風に包まれて霧散した。