菊之丞 その(1)
菊之丞は、事務所が三つ入ったビルの屋上で夜景を見下ろしていた。風に煽られた前髪が、切れ長の目を掠める。
内心の緊張が発する温度をゆっくりと冷ますと、時計を確認した。先ほどの通話から直に五分が立つ。
無線機を握り、息を吹き込む。
「こちらC1、D3状況を送れ」
「こちらD3、屋敷内に動きなし、車も駐車されたまま」
早速の不履行に、意外な感を抱く。“虎伏せ”が何かリアクションを起こすとすれば、県境まで移動した後だと予想していた。
何か狙いがあっての動きなのだろうか。
納得できる答えはすぐには浮かばず、俎上の情報を眺めていると、無線機が曇った音を寄こした。
「待ってください、こちらD3、たった今屋敷玄関から人影が出てきました」
「一人か?」
「玄関から確認できる限りですが一人です」
どうやら内輪での相談が長引いただけの話らしい。時計は十数秒の超過を示している。
約束は約束だ。
「D4、人質の目を抉れ」
「こちらD4、了解」
写真だけを送り、文言での通達は行わない。その方が余程警告としての効果が期待できる。向こうも行動を起こしづらくなるだろう
これから六城家と通話するのは十五分後だと確認し、無線機を下ろそうとしたところで、砂をかぶせたようなノイズが響く。
「こちらD3、目標は車に向かっていません。繰り返します、車に向かっていません、家の裏手に姿を消しました。確認できる位置に移動します」
「何…?」
菊之丞の呟きは無線機に拾われず、屋上の広さに吸われて消えた。