庵 その(5)
「まず最初に、これから行うのは一方的な通達であり、君たちが口を差し挟めば通話は即時終了する」
質問を頭でまとめていた庵は、舌打ちでそれを脇にやる。
「こちらは里見鴎の身の安全と引き換えに、以下を要求する。そちらの“虎伏せ”が通話終了後五分以内に自身の車に乗車すること、またその後三十分以内に県境の内加山に到着すること。まず、これが確認できなかった時点で人質の右目を抉る」
携帯を持つ結の手が震える。クレアはショックから完全には立ち直っていなかったが、姉の傍に寄るだけの気丈さはあった。
「”虎伏せ”の移動が確認できれば、場所をこちらから指定し、六城家当主に対して直接交渉を開始する。丸腰で席に着けとは言わないが、大量殺人鬼の乱入は阻止する。先ほどの条件はそのためだ」
庵は揶揄に眉一つ動かさなかったが、その瞳は一秒ごとに熱を失っていった。
「そちらの早急な対応を期待してこちらも段取りを伝えておく。当主は白虎の“遺産”の他、何も持たずに単独で出向いてもらう。なお、“遺産”と人質を交換するかは現時点では明言しない、以上だ。これをもって通話を終了する」
言葉通り通話状態が解除され、間抜けな音が響いた。それと同時に走り出そうとする結へ、庵が鋭い声を放った。
「鴎君を殺す気か」
動きがぴたりと止まり、唇を噛み締めた結が振り返る。
「お前が今冷静になるのは難しい、俺に任せて黙っていろ」
その目の色に若干の不審を抱きつつも、庵は姪から視線を離す。
重なる時間指定はこちらの焦りを煽るためだろう。実際、車を用いて加賀山へ移動するのに三十分では充分とは言えない。時間通りに間に合うか怪しいだけでなく、屋敷で何かあってもすぐ戻るのは難しい。
”可能種”にとっては、車よりも足を使った方が速く移動できるものの、敵の車に自身の車の前後を挟まれれば、見つからずに降車するのは不可能に近い。人質をとられている場合では歓迎できない選択肢だ。
時間の遅れに対しての報復が、鴎の殺害ではなく傷害を加えることであるのも、厄介な点だった。
鴎が人質として、規格外の力を持つ庵にも有効であることを理解しているから、殺すなどとは仄めかしもしない。仮にそうすれば庵を抑える切り札を失くすだけだ。
ただし、切り札を利かせるためにも、鴎が死なない範囲の傷害を負わせることは、むしろ既定路線かもしれない。実行しない脅しに効果はない。だとしたらどこかで実現不可能な指令が来る。
そこまで分析したあと、庵は今のところ敵の要求に従うしかない、と結論付けた。鴎の所在は不明であり、勝手に行動すれば向こうは躊躇わずに宣言を実行するだろう。
陰険な手口への後ろめたさを感じさせない連中のもとに、結を一人で向かわせるつもりは毛頭ないが、鴎の負傷は必ず避けなければいけないこと、そして結はそのためなら庵の制止を振り切るであろうことは頭に入れておかなければいけない。
「最初の要求には従う。俺は車で家から離れる」
クレアが前に進み出た。
「なら私も…」
「駄目だ」
ぴしゃりと言い放つ。
「経験不足は鴎君の死につながる。どちらも連れていくつもりはない。隠し部屋で連絡を待て」
悔しそうに眉が寄せられるが、今はフォローする時間も惜しい。
「向こうはどこかのタイミングで鴎君を京都に移動させるはずだ、そこで奪い返す」
黙りこんでいた結へ目を向ける。
「それでいいな?」
「…いえ」
縦に動くと予想していた頭が、横に二度振られる。
やっぱり連れて行けと駄々をこねるのかと思いきや、結は無言で代に近づいた。
「お父さんも手を貸してください」
「…!?」
言葉を失う庵の前で、代は静かに首を動かし娘と向かい合った。
「それってお願い?」
こいつは、それが今娘にかける言葉か。
沸騰した頭で横顔を睨みつける前に、結の声が聞こえた。
「いいえ、六城家当主としての依頼です」
結は奇妙に熱を感じさせない声音で続ける。
「鴎くんには印をつけていますね?」
「うん」
悪びれもせず即答する。
「報酬は“夜刻天”の依頼中の貸与、並びに依頼後の譲渡および“渡景綱”の所有権の認許、そして研究室の提供です」
「おい…」
「もともとそれが目的だったのではないですか」
「その通りだね」
代は首に手を当てると立ち上がった。
「それで依頼の内容は?」
「叔父の行動の補助を、行動中は叔父の指示を聞いてください」
「分かった、依頼を受けよう」
「おい…!」
結を思い留まらせようとした庵は、ひどく不安定に揺れる瞳に思わず言葉を飲み込む。
「敵は叔父の力を把握して、それでも勝つつもりでいると考えるのが自然です。だったら、その計算はもう一、人即戦力の“可能種”を投入することで狂わせることができます」
表情は冷静であり、発言の内容も間違ってはいないが、喋る本人にどこかおかしな調子があり、庵は即座に返答ができなかった。
しかし、視界の端に映る時計が庵を責めたてる。
「当主としての意向です」
「…従うよ」
背中を預けて戦うなど、冗談ではない。不信感と嫌悪感、抱いているのはそれだけで、好意も信頼も存在しないのだ。
しかし、確かに、こいつがいれば話はまるで変わる。
優先すべきは鴎と結の安全であって、自分の個人的感情ではない。
理屈で不平の頭を押さえつけた庵は表情を殺すと、いつの間にか腰に着けていた巾着袋から軍帽を一つ取り出した。それを受け取った結が、そのまま代に差し出す。
「お願いします」
「うん」
代はそれを掴むと、頭にかぶせた。
「それじゃ行こうか?」
向けられた微笑に、庵は承諾したことをもう後悔していた。