庵 その(4)
外がすっかり暗くなるまで続いた、代と目を合わせない二人きりの時間は、玄関から聞こえた物音によって終わりを迎えた。
視線を向けた先に、制服姿の結、そしてクレアが立っていた。
代がちらりとこちらを見る。
ああ、そうだ、と庵は内心答えた。
胸の中がどうなっているにせよ、結がそれを抑えた顔つきをしているのは、庵が事前に代の来訪を連絡していたからだった。“遺産”のことは警戒されていると考え利用せず、門の前に手紙を落としておいた。
無防備なままお前に会わせるような真似はしない。
庵は素知らぬ顔で置時計に目を向ける。勿論この方法では一方的な伝達に終始するので、これから先の応対は当主次第だ。
代はすぐに庵から目を離すと、結に声を掛けた。
「こんにちは、結ちゃん」
「こんにちは」
結の声には親戚への温もりは感じられなかった。
自分の知らない間に、娘がすっかり無機質な態度を身に着けてしまっても、代の温顔は変わらない。
庵としては、読み取れる情報量が少なすぎる気がして違和感が覚えたが、今確認することではないと沈黙を守った。
「今日はちょっと話があって来たんだけど」
代が言い終わる前に、結の後ろから金色の髪の持ち主が進み出た。
庵は代を盗み見て、確信した。代は異国で生まれた娘のことを知らない。
知ってなお平然とすることもこの男ならできるだろうが、今回は違う、自分だけはそれが分かるのだ。
やや首を傾げると、代は二人の娘を視界に収めながら質問をした。
「結ちゃんのお友達?」
よく黙っていられるな。自分ならこの一言で八つ裂きにしている。
ややあって震える声が聞こえた。
「グレース・ハーパーのこと、おぼえていませんか」
そして、今度も間を置いて、
「…そうか、君は」
小さな呟きは場に滞留し、誰もが口を閉ざした。
この沈黙を破る責任のある男は、落とした視線を上げると、笑みこそ消していても穏やかな表情のままだった。
「英国で命題について調査をしていたとき、初めに声を掛けた女性だ」
ソファから離れると、クレアの正面に立つ。
「国は三つくらい訪れたけど、海外での活動拠点を得るために多用していた手口だった。良家の娘の信用を勝ち取って、関係を持つ。資金も、そこそこの情報も、労力に対して簡単に手に入った。自分が妻帯者だってことも、相手の背景事情も斟酌していなかった」
代の口から聞くべきだと思っていたことだった。少しでも拒むのなら、どんな手段も厭わないつもりでいた。
しかし、いざその場面に遭遇してしまえば、庵は部屋を出なかったことを後悔しないではいられなかった。
「グレース・ハーパーにも愛を伝えた。瞳の澄んだ色が頼りなさそうなイメージだったから、身一つで海外に足を運ぶ屈強な男を演じた。それが図に当たって、彼女の歓心を買うことに成功した。半年ほど滞在していたら相手の一族が僕に気づいて、雲行きが怪しくなった。いつか迎えに行くと約束して国を出た」
代はクレアから目を逸らさなかった。
「そのことは忘れていた」
クレアは母親と同じ澄んだ目で、代の目を見据え、そして逸らした。
「…もういい」
言葉を落とすと、背を向け、結の斜め後ろに下がった。床に向けた顔は髪で隠れていたが、歯を食いしばっているのが隙間から見えた。
部屋の空気は一段と重さを増したが、代と庵が生み出したものとはまた異質でもあった。
長い無音の間、自身も考え事をしていた様子の結は、それを終えると進み出て、代と真正面から向かい合った。
「用件は何ですか」
「…頼みごとがあってね」
どの口が言うのか、と自分でも思っているのだろう。代が浮かべた小さな笑みには自嘲の色が多分に含まれていた。
しかし、結に手を緩める気配は感じられなかった。
そのことが心に棘として触れた気がすると、庵はそれ以上感傷的な気分に身を置くことをやめた。
ここから先は現当主と旧当主の会話であって、自分は補佐の立場だと肝に銘じなくてはならない。例え代の口からどんな要求が飛び出たとしても。
そんな庵の想念も、結の沈黙も、代の薄笑いも、クレアの俯きも。一切考慮しない外部からの介入が、携帯の着信音として響いた。
音の発信源は結のものだった。
「ごめんなさい」
結はそう言って携帯の電源を切ろうとしたが、画面を見て手が止まった。
随分わかりやすくなった、と思う。それに関しては、悪いことではないはずだ、とも。
相手が誰かは代にも分かったらしい。ソファに座りながら口を開く。
「出てくれた方が僕もありがたい」
「…すぐに済ませます」
片手に握りしめると、部屋を出てすぐの廊下で止まった。
「もしもし、鴎くんですか」
この距離だとよほど潜めないと声は届く。それに気づいていないのは、相手が相手なのもあるが、結の精神状態も見た目ほどに落ち着いてはいないということか。
そんなことを考えていると、不自然な間のあと、結がまた部屋に戻った。
三人分の疑念を受けた顔は蒼白で、庵は椅子を蹴って立ち上がった。
「六城家の諸君、聞こえているな」
スピーカーに設定された携帯から鴎のものとは似ても似つかない低さが流れる。
「里見鴎は今我々の手の内にある。有体に言えば人質だ」
庵の注意がその音声に傾けられたのは当然であり、携帯を部屋の中央に向けて差し出す結の、表情の微細な点から、代だけがその心情を推し量っていたのは、本人の独特な対人能力の成せる業だった。