鴎 その(6)
ハッとした結は小さく、「ごめんなさい、大声を出して」、と謝ったが、
「それでも駄目です」
と続けた。
困惑が引くと、鴎はじわじわとこみ上げる何かを感じた。
明らかにいつもの結の様子とは違っていたのだから、うんと頷いていればいいものを、聞き返すのを止められなかった。
「どうして?」
質問していながら、鴎には答えが予想可能だった。その上それが結の口から出る内容と寸分違わず同じだという、根拠のはっきりとしない、けれど絶対的な確信があった。だからこそ、結に対して抱えたことのない感情のねじれがその角で鴎を突くのだ。
鴎は足を止めて、思いつめた顔の結をじっと見ていた。
これまで向けられたことのない鴎の強い目の色に、結は戸惑ったようだった。
それでも、思いを腹の底に落とし、慎重な声を出した。
「はっきり言うと」
鴎はなんとなく、話したいことはきっとこれに関係があったのだ、と思った。
「私は鴎くんにこれ以上“可能種”のことで関わってほしくありません」
「だから、どうして?」
「危険すぎます」
そうだ、文化祭でも同じことを言っていたから、結のその考えが薄々分かっていたから、予想と丸っきり同じなのだ、と鴎は気づいた。
あのときと違うことは、関わってほしくないと、そう告げられたことだ。
二人の横を通った車がけたたましい排気音を立てる。
うるさい、黙れ、今大事な話をしているんだ。
嫌だ、とその場で叫びたくなるのをどうにか我慢して、鴎は笑いながら答えた。
「そうかな、ただ二人の訓練を見たいってだけだよ?」
「そんな風に一緒にいたら、また鴎君が巻き込まれるかもしれません」
笑顔を崩さないよう意識する。
「前から思ってたけど、結は心配しすぎだよ。確かに危ない目にはあったけど、僕は怪我してないし…」
「この間の戦い、もう少しで殺されていたかもしれないんですよね」
呼吸が止まる。
必死に話しかけている結にわかるはずもないが、それは鴎の最も弱い箇所を的確に抉った。
口を開いても、咄嗟にどう答えればいいのか分からなかった。
精神が一気に落ち着きを失くす。よりによって結は、そのコンプレックスに触れてほしくない一番の相手だった。
その通りだ。殺されかけた。君を助けようと思っていたはずなのに、何もできないで小便を漏らした。ただ見ていただけで、それは自分にとって普段通りなのだ。
鴎がもろにくらった大打撃を、取り繕おうとして取り繕えない間にも、結は話を進める。
「危険なんです、鴎くんは私たちを取り巻くことからもっと離れておくべきだと思います」
「じゃあ話したかったのはお別れの挨拶ってわけ?」
初めて結相手に低い声が出る。黒い瞳が驚きに開かれ、そして悲しそうに歪んだ。
こんな嫌味な言い方、したこともないし、したくもない。
「そんなことありません」
結の表情にも声音にも痛ましさがあった。鴎は自分の発言が彼女を傷つけてしまったことを否応なく悟った。
「…言ったでしょ、それでも生きてるよ、僕はなんともない、違う?」
どうにか会話を元に戻そうと繰り出した質問に、彼女が躊躇うのが腹立たしかった。
首を絞められたから何だというのだ。心配されるような怪我なんてしていない。何ともないのだ。結果がどうであれ、君の役に立てるなら。
「鴎くん、私はもっと落ち着いて話を…」
「落ち着いてるよ、僕は」
これが張本人でなければ失笑していたかもしれない。それくらい鴎の声は張りつめていた。結が喋るのを遮り、一気にまくしたてる。
「落ち着いてた、結がそんなこと言わなきゃ、一緒に帰ろうって言うからもっと楽しくなると思ってたのに、もう関わるななんて、じゃあなんで話しかけたんだよ」
「関わるななんて、ただもっと自分のことを大切に」
「同じじゃないか、”可能種”のことがなかったらいつ話すっていうんだ、今日だって用事はそれなんだろ?」
平静ではない自覚はあっても、止められなかった。
息を荒らげた鴎を見る結の瞳がひどく悲しそうで、自分を抑えて黙っているのは難しかった。
「…私の切り出し方が無神経でした。でも、本当に大切なことなんです」
結の対応は大人で、自分はどうしようもなく子供だ。恥ずかしさと怒りで頬が紅潮する。
無理に鼻で嗤った。
「これから話さないやつに大切なことなんて言ってどうなるっていうんだ」
馬鹿げた排気音がもう一度聞こえて、結は泣きそうな顔になった。
「そんな、鴎くん、私は…」
その結の制服のポケットから、着信を示す音が発された。
肩を小さく震わせた結がそこを見た隙に、鴎は早口で言い終えた。
「もうバス停近いよね、今日は帰るから」
「鴎くん…!」
その声に追いつかれる前に、鴎は走り出した。結が一人で立っているのを見たくなくて、振り返らなかった。
足音がしないのを確認して、その場に止まる。
肩を引っ張るリュックも、これくらいで値を上げる肺も、何かも掴んで壊してしまいたかった。
最低な気分だ。
弱さを指摘されて、女の子に八つ当たりをして逃げた。それも結に。
リュックの肩ひもを力任せに握る。
最悪だ。
今日が、こんなに自分のことが嫌いになる日だなんて思いもしなかった。なにが運だ。
最後に見た結の顔が忘れられない。
あんな顔をさせるくらいひどいことを、自分は彼女に言ったのだ。情けなさには際限がないのだろうか。
強く目をつぶって、絶え間なく押し寄せる後悔を塗りつぶした。今は何も考えたくない。
自己嫌悪の第一波が収まるまでの長い間をじっと待つと、鴎は重たい体を殴りつけて歩き出した。
謝らなければいけない。今から走ってでも。許してもらうためならどんなことだってするべきだ。だけど。
だけど、言われた通りにはしたくない。
“可能種”に関することに関わってはいけないのなら、ただでさえ少ない結と接する機会は数え切れる回数になってしまう。その先には疎遠な関係だけが待っているはずだ。
身勝手だと分かっているジレンマに苛まれ、自分が“可能種”だったらよかったのに、と鴎は心の底から思った。
“可能種”だったら、弱いからなんて彼女に心配されることもなかった。彼女の危機に颯爽と現れて、力になることだってできたかもしれない。
少なくとも危険を理由に、結の近くにいられないことはなかったはずだ。
彼女たちが速く動けるからといって、うらやましいと思ったことはなかった。しかし今は、持ちうるすべてを差し出してでも手に入れたかった。
変わることができないだろうか、自分の体も、あんな風に。
そんなないものねだりをしたとき、鴎の頭に、かつての経験とそれに関する考えが閃いた。そして状況がひどく適していることにも気づく。
都合の良い考え方だろうか、それでも、地に落ちた気分の自分は、一度思いついた以上簡単に手放せない。
電話番号は知らない、言付けを頼める相手もいない。今から訪ねてみるしかない。
そうと決めると、期待がじわじわと膨らむ。
もしかしたら、と思った。もしかしたら、運が悪いと決めるのはまだ早いかもしれない。思いつめた表情のまま、鴎は走り出した。