鴎 その(5)
一日の授業が終わり、移動する生徒の波に揉まれながら、鴎と陸人は教室を出た。
「じゃあな」
「うい」
陸人とは帰る方向が違うので昇降口で別れる。
空に浮かぶ雲は少ない。つまり日差しはほぼそのまま鴎に降り注いでいるが、汗をかくほどではなかった。昼時になると暑さを感じはしても、この時間ならまだ冬服は丁度いい。
テニス部がコートでボールを弾き合うのが、松だか杉よく分からない木の間から見えた。物を知らないと、こういうときうっすら残念に思う。
あんな風に活力を運動に打ち込む同年代がいるのに、自分はふらふらしていていいのかと、教師の姿を借りた、追いかけてくるのが誰か分からない類の焦燥感が詰問してくる。
家では自分だって筋トレをしているからいいのだ、と雑に言い訳をして、鴎は目をコートから引き剥がした。
代わりに駐車場に並んだ車を見ていてもあまり面白くはなかった。車には興味がない。裏門の方へ視線を飛ばしたところ、結が立っているのが見えた。
じっと足元のアスファルトを見つめる姿は誰かを待っている風だった。
鴎は、クレアだろうか、のあとに、今日はすごく運がいいな、と思った。
ゆっくりと近づく。
何だか最近はこんなことばかりしている。
靴底が小石を噛む音に頭が上がった。肩辺りまで伸びた毛先が揺れる。
「鷗くん」
結は小走りで近寄ると、緩い笑みを浮かべていた。瞳は引き込まれる黒色だ。
口がちっともうまく回らなくなる。
結局言葉未満の音を出して、首をブンブン動かした。
「一緒に帰りませんか」
「えっ、あ、うん」
待っていたのはクレアではなくて自分だったらしい。今日は本当に運がいい。
周りには他にも帰る生徒がいるが、高校生の余裕なのか、男女一緒に歩く二人を見ても無反応だ。そのことを一番意識しているのはきっと鴎自身だろう。
駐車場の外縁に植えられた木々が影の列を作る。木漏れ日が時折差し込むと、その度にどうしてかドキリとした。
自分の髪型、服装が気になる。トイレに寄っていればよかった。目の前の女の子が女の子なだけに、一層そう思う。
横を歩く結の顔をちらりと見て、やっぱり大人びたな、と思った。顔つきから幼さが抜け、瞳の力強さが増した気がする。
それでも、出逢った頃のような冷たい印象はむしろ薄れていた。
二年生になった実感が湧かないという共通の思いをとっかかりにして、他愛もない話があちらこちらに飛びながら続く。
「インターネットの誕生日は十月二十九日らしいですよ」
「へー、僕近いや」
「十三日ですよね」
「あれ、教えたっけ?」
結は小さく笑った。
「この間教えてくれたばかりです」
記憶を探ると、五月の結の誕生日で話したような、話していないような。
「うーん、すごく忘れっぽいね、僕」
また笑い声。
「聞いたときもそうでしたよ、鴎くん。自分の誕生日なのに、あ、ちょっと待ってね、って」
話す結がとても楽しそうで、鴎はその顔を見ているだけで今日一日が終わってもいいと思った。
「どうかしましたか?」
小首をかしげる結に、黙って見つめすぎたと気づいた。慌てながら尋ねる。
「いや、あの、用事があるんじゃないか、って」
「ありませんよ」
「え?」
なら、どうして話しかけたのだろう。
楽天的な方向に転がろうとする思考に、なんとか歯止めをかける。
「嘘です、本当はあります」
ホッとして、がっかりする。
「なにかな」
「それは」
口元の笑顔はそのままでも、顔に影が差したように思った。
「最後にとっておいてもいいですか」
「う、うん」
話しづらいことなのか。
黙って二人で道を歩く。それは後々大切な時間になる気がしたが、不自然な沈黙でもある気がして、鴎は口を開いた。
「クレアはいないんだね?」
「今日は駅に遊びに行くつもりだったんです。だけどクレアが一人でバスに乗ってみたいって言いだして。私がちょっと心配になってしまったら、それでムキになって、学校が終わってすぐ走っていってしまいました」
「結構無鉄砲だね」
「大丈夫でしょうか」
「平気な顔で待ってる気もするし、いくら払えばいいのか分かんなくておろおろしてる気もする」
同意見だと困り眉が言っていた。
「どうしようもなくなったら電話してくるんじゃない?」
「そうかもしれませんね」
放課後に駅とは、女子高生っぽい。
「今日はあの訓練はないんだ?」
あの訓練とは、結とクレアが、結の叔父から受けていた戦闘訓練のことだ。以前放課後に話していたとき、訓練の時間ということでお開きになったこともある。
「頻度は少なくなりました。当面危険はないと判断したみたいです」
声が硬くなる。叔父との仲はまだ気まずいままなのだろうか。
鴎は敢えて明るい調子で言ってみた。
「今度あるとき教えてよ。僕もどんな風か見てみたいな。ちょっと参加してみたいし」
「駄目ですよ」
強い否定の言葉に、鴎は驚いて口を閉ざした。