鴎 その(4)
床の振動が尻を衝く。跳ねる幾つものバスケットボールが不規則なメロディーを奏でる。
それを体全体で聴きながら、鴎は体育館の床に座っていた。
体育は二クラス合同で、どちらも文系の三,四組がバスケットボールをする。
生徒たちは思い思いのペアを組むと、体育館の各所に散らばってボールを投げ合っていた。試合を始める前のウォーミングアップだが、出るつもりのない鴎と、友人の小和田陸人は座ってそれを見ていた。体育教師は自分たちの部屋にこもっているので、そうしていてもばれないのだ。
「あぁ~だるいなあ」
一年の初め、サッカー部に三か月だけ加入していた陸人は、鴎に近い心的傾向の持ち主だった。つまり、遊びのうちの運動は好むものの、練習の規則や厳しさを伴うと途端に面倒になる。
部活動に所属していたころは何とも思っていなかったが、一度帰宅部の楽を知ってしまうと、言われた通りに走り込みをすることなどは苦行だった。
組んだ膝の中に置いたボールを転がして遊びながら、陸人は雑談を始める。
「昨日洋画見てたんだけどさ、途中で主人公とヒロインが喧嘩すんのね、方針の違いで」
「うん」
「で、口もきかなくなってたんだけど、主人公が無茶なことして敵の組織に狙われるわけよ」
「ピンチじゃん」
「そうそう、そしたら今まで廊下ですれ違っても無視してたヒロインが走り寄ってきてまくしたてるわけ、あなた何考えてるの、死ぬつもりなの、って」
「話せてよかった」
「キスされんのよ、主人公に」
「えっ?」
「黙らないならこうしてやる、って感じで、ぶちゅ~っと」
「フレンチ・キスじゃん」
「なんだそれ。とにかくちゅうしてんだよ。え、お前ら喧嘩してたじゃん、ついさっきまで、って俺は思うんだけど、もうヒロインものりのり。マイクがむちゅっ、もちゅっ、って音拾うくらい」
「ああ、なんか拾うよね、キスの音。あんな音するもんなのかな」
「さあ。とにかく、サンバで踊ってるお姉さんももはやし立てるくらい情熱的なキスしてよ。離れたらヒロインがうるうるした目で、帰ってこないとスクランブルエッグにしてやるから、みたいな」
「おいおい、俺はハードボイルドだぜ」
「何言ってんだお前」
「…」
陸人は床に着いた両手で体を支えると、持ち上げた頭で天井を仰ぎ見た。
「それ見てたら思った。俺もチュウしたいって」
前置きがものすごく長かったが、その感想が結論でありすべてなのだろう。
「はあぁっ」
取り入れると体調が悪くなりそうな、どんよりとしたため息が陸人から発される。
鴎は少し距離を取りながら、意見に関しては全面的に同意していた。
これまでの女子との肉体的接触なんて、たかが知れている。運動会だかのダンスで手をつないだくらいではないか。
口に出すほどの度胸もスケベ根性もないが、自分も女の子とチュウがしてみたい。フレンチ・キスでなくていいから。
「誰でもいいからキスしてえ」
その意見には同意できない。誰でもいいとは思えなかった。
では誰がいいのか、と考え、そういえば両手を握ったことも、握られたこともあったと思い出す。
「この際土生ちゃん先生でもいいわ」
土生先生は五十六歳の現国担当の教師だ。既婚者であり、お子さんもいると聞いている。同年代の異性とニ十分以上話したことのない青二才が、でも、扱いするのは思い上がりというものだ。
「土生先生も相手は選ぶでしょ」
「なんだとてめえ」
にやけた陸人に肩パンされる。
鴎は立ち上がるとバスケットボールをついてみた。空気が余り入っていないのか、跳ね方が悪い。それでも力任せに叩いていると、陸人も立ち上がった。
「参加すんの?」
「うん、やっぱする」
あのまま座っていると、どうしてだか切ない気持ちになりそうだったので、それから逃げたかった。
鴎は陸人とボールを奪い合いながら、自分はキスがしたいから結の傍にいたいのだろうかと考えてみて、恥ずかしくなってやめた。