鴎 その(3)
頬に冷たさが触れて、鴎は物思いから離れざるを得なかった。
当たっているのはジュースの缶だった。
「なんであんたがいるの?」
座る二人の間に頭が差し挟まれ、黄金の糸が視界の半分を埋める。
いつの間にか、クレアが近くに来ていたのだ。
「クレ、ちょ、つめたっ」
「ほれ、ほれ」
クレアは缶を揺らすと鴎の頬にピタピタと当てる。その度に肌が悲鳴を上げた。
なんではこっちのセリフだ。喧嘩していたのではないのか。
どうやらそれは事実らしく、クレアは鴎の方を向いたままだ。
無視するつもりだろうか、だとしたらそれはよくない、と鴎が目で訴えると、分かっているから黙れ、と目で返事をされた。
「あー、その、確かに」
ドラマなら咳払いでもしそうな不自然さで、クレアはまだ顔を向けないまま姉妹に声を掛ける。
「洗濯機を回してなかったのは私のミスだし、それを曖昧にしたのも、よくないことだったなー、って、さっき反省した、うん」
ちらちらと顔色を窺っているが、これでばれていないつもりなのか。
「許してー、くれないかなー。お詫びにジュース、買って来たんだけどなー」
手に持ったビニール袋には、いくつかの缶が入っていた。
結は黙ってバッグを探ると、見栄えの良い紙箱を取り出した。はがきほどの大きさの蓋を開けると、個包装された、恐らくはチョコ菓子が並んでいる。
その中の一つを手に取ると、何が待っているのかと緊張するクレアに差し出した。
「言いすぎましたね、私。許してくださいね」
クレアの顔にはけで明るい色が塗られたが、鴎の存在を思い出し、抑え目の配色になった。
早足でベンチの前に座ると、鴎に手ぶりだけで指図して端へ寄らせた。出来上がった三人目の席に座り、結のチョコを受け取る。お返しに持っていた袋をその膝へ乗せた。
結が袋の中に手を入れるガチャガチャとした音に、何となくそちらを見ていると、
「何見てんの?これ結の分だから。あんたも欲しいなら欲しいって」
「鴎くん、どうぞ」
胸の前を行くチョコと缶ジュースを持った結の手に、クレアは苦そうな顔をした。
「ありがとう」
その様子を見ていると、鴎は、喧嘩の理由が下らないものだったことは、むしろ当然か、という気がしてきた。
「私には?」
「もちろんありがとう」
満足そうだ。
「でも、本当に今度からは気を付けてくださいね。私だけじゃなくて叔父に迷惑がかかる問題ですから」
「…はい」
しょげているクレアと、静かにお説教をする結を見ていると、なんだか安心した。
「何見てんの?」
顔に出ていたらしい。
クレアが肘で首を絞めてくる。
「あんたがそうやってどことなーく上から目線で見てるとき、顔に全部出てんの」
「ぐへっ、いや、だって喧嘩したっていうから、てっきり」
のんびりした気分に浸りすぎて、口を滑らせてしまった。そのあと露骨に黙ってしまったのも悪い対応だった。
「何、ほら、言ってみなさいって」
「クレア、苦しそうだからやめてあげてください」
解放されたが、視線は二人分に増えていた。三人でぎゅうぎゅう詰めのベンチに逃げ場はない。
「…その、伊那さんのことでぎくしゃくしてるんじゃないかって。あれから二人とあんまり話せなかったし」
クレアはまた首絞めをかけたそうな表情だったが、フン、と鼻を鳴らすと、ベンチに腰を掛け直した。
「約束してましたから」
「約束?」
結が頷く。横でクレアは仏頂面だ。
「私たち、親が理由で出会ったけど、それからの関係は二人の間のことなんだから、親のことが何か分かっても、気まずくなったりはやめよう、って」
そのことを思い出すと嬉しくなったのか、結は少しはにかんでいる。クレアは増々不機嫌そうな顔なので、ああ、言いだしたのはクレアなのだ、と鴎は思った。
「そっか、良い約束だね」
きっと、いや、勿論、結ほどではないだろうが、それを聞いた鴎も、胸には仄かな熱が生じていた。
クレアはそれがお気に召さなかったらしい。
「だからねぇ、あんたのそういうとこが」
鴎の肩に腕を乗せたところで、結の声がかかった。
「二人とも」
クレアと一緒になってみると、またチョコレートのお菓子が差し出されていた。
「もう一つどうぞ」
その笑顔にはさすがのクレアも何もできないのか、大人しくチョコをとった。鴎もそれに倣う。
缶ジュースを飲むとチョコが中々溶けにくいことを発見したクレアは、結局七本の内三本を飲んで気分を悪くしてしまった。別れ際に手を振る結の横で、自分の腹をさすっていた。