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With the Wind!  作者: 肉丸 もりお
六城庵とその義兄
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鴎 その(2)

 去年の冬頃、経験も技能も上回る“可能種(かのうしゅ)”との戦いを終え、何とか家に帰りついた(むすび)と、彼女に肩を貸す(かもめ)を、ある人物が待っていた。


 鴎にとっては何度も自分の悩み相談に乗ってくれた知り合いの男性である、伊那(いな)。彼が六城家のソファに座っていたのだ。


 場所と人物がつながらず呆然(ぼうぜん)としている鴎の横で、結がつぶやいた。


「お父さん…」

「…え?」


 言われてもう一度見ると、伊那はいつもの年齢を感じさせない笑みで、


「…久しぶり」


 観察ともつかない目を結に送る。


「大きくなったね、結ちゃん」


 結は返事をせずに、黙ってその顔を見ている。


 二人の間で視線を行き来させた鴎は、驚きで埋まった頭に何とか隙間(すきま)を作っていた。


 結の父親は十年以上前に行方不明になったと聞いていた。それが、自分が何度も顔を合わせた伊那だったのか。確かに身元はまるで知らなかったが、そんな気配は感じなかった。

 身じろぎ一つしない結の様子を見ると事実なのだろうが、にわかには受け入れがたい。

 そもそもどうして今現れたのか。生きていることを娘にも知らせていなかったのはどうしてなのか。


 次々と発生する問いは、声になる間に消え失せた。

 廊下の奥から、人の足音が聞こえたからだ。


「どうした?」


 居間を前にして固まっている二人に声を掛け、自分も覗き込んだのは、結の叔父である六城(ろくじょう)(いおり)だった。

 鴎は直感的に、まずいと思った。はっきりとした理由は(ともな)わないが、よくないという思いが浮かんだ。


 庵が見せた驚きは、鴎に比較してごく短いものだった。半瞬の無表情の後、激高(げきこう)が取って代わる。鴎は以前にも庵が怒る(さま)を見たことがあるが、瞳からはそのとき以上の荒れ方が伝わってきた。


 そういえば、あのときも話題は結の父親のことだった、と思い出す。結の父親が、隠し子をつくっていたことだったと。


 ぶつける先に対面した今、沸き上がる怒りは際限(さいげん)がないようだった。


「庵くんも、何年ぶりかな」


 伊那はそれに動じることなく、落ち着いた声を投げかける。それが庵の燃え盛る()に爆薬を投げ込む行為だと、鴎にも分かった。


 二人を押しのけ真っすぐに進む庵には、他の何も目に入っていないようだった。


「そのスーツはひょっとし」


 腰を上げて立ち上がった伊那の顔に、庵の殴打が繰り出された。鈍い音に、鴎は背中を震わせた。

 よろける伊那の服の(えり)を掴むと、壁にその背を押し付ける。


「てめぇは…」


 胸にこみあげた熱い鉄が、庵の言葉を押し留めていたようだった。


「てめぇは何してたんだ、この十年」


 視線に込められた敵意、憎悪を受けてなお、伊那は緩く笑っている。


「いやぁ、僕も色々あってね。ちょっと」


 殊更(ことさら)挑発する風でもなく、日常的な会話の延長を思わせる声だが、だからといって庵を鎮静(ちんせい)させる効果はなかった。


「ちょっとだと…」


 既に限界だと思われていた目つきが更に険しくなる。気が弱い者なら失禁する(にら)み方で、庵は憎しみを伊那にぶつけた。


「あんたが、あんたがいない間に」


 そのときだけ、失ったものの空白を直視した痛切(つうせつ)さが(にじ)んだ。鴎の肩につかまる結が、手を握りこんだ動きが伝わった。


「姉さんは死んだんだぞ…!」


 二人のやり取りに狼狽(うろた)えるだけだった鴎が、場違いな切なさを感じた。

 庵の声には、彼が姉を慕っていたことを伝える震えがあり、それは詳しい事情を知らない鴎の胸をも打った。


 伊那は少し視線を逸らしたが、正面から庵に向き直ると、


「まさか君がそのことを僕のせいにするとはねえ」


 庵は襟から離した右手を振りかぶった。もう一度伊那が殴られる鴎の想像は、その伊那が繰り出した蹴りに裏切られた。


「一発は殴られてやったんだ」


 庵の腹に伊那の膝が食い込む。

 庵は微かによろめいたが、立ち直るのが早いが、今度は(さえぎ)られることなく左手で殴りつけた。横に倒れた伊那に馬乗りになろうとして、額に掌底(しょうてい)を食らう。


 もみくちゃになる二人を止める力など、鴎にはない。初めて見る大の男二人の殴りあいの迫力に、体が(おび)える。どうにもできずに突っ立っていると、隣から叫び声が発された。


「やめて!」


 それは鴎が耳にしたどんな言葉よりも強い悲壮(ひそう)さを含んでいた。


 伊那も庵も、その声にピタリと動きを止めた。


 結は一人でそちらへ向かおうとして鴎から離れると、二歩も行かない内に床に膝をついた。


「結…!」


 慌てて腰を屈めた鴎は、結の両眼から涙が溢れるのを見た。驚きに息を呑む。

 庵はその光景に傷ついたような顔をして、伊那は目を逸らした。


「なんでっ、こんなっ」


 嗚咽(おえつ)の合間から、声にならない声がした。


「お、お母さんは」


 それ以上はしゃくり上げる音しか聞こえなかった。


 伊那は膝立ちのまま動かない庵から距離を置いて立ち上がった。


「またそのうち来るよ」


 去り際にそう言い残すと、後は床に崩れ落ちている結にも、その横に座るしかできない鴎にも背を向けて、居間を出ていった。


 泣き疲れた結がそのまま気を失うように眠ってしまったことに気づくまで、庵と鴎は途方に暮れた。

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