二年生 十月末
「数学の課題やった?」
朝っぱらから嫌な話題を出すやつだ、と、里見鴎はしかめ面で心中を表現してみせた。
発言者である小和田陸人には読解能力が欠けているらしく、平然として鴎の返事を待っている。
「まだだよ」
「だるいよなあ、あれ」
陸人は鴎の前の席から椅子を引っ張り出すと、背もたれに顎を乗せた。
「最近はもうずっと課題ばっかしてるわ。二年でこれって、三年になってからのこと考えたくねぇ」
ため息を吐きながら言われると、こちらも同じ気分になる。
「なんか楽しいことがなきゃやってられないね」
「あんの?」
「ないけど」
はぁ、と今度は控えめに吐き出すと、ぼそりと呟いた。
「彼女いたらなあ」
全国に散らばる、青春の華やかさを知らない青年たちの意見の代弁だ。
「年取ったら勝手にできると思ってたよ」
「ほんとだよ。まさか中学卒業してもできないなんて想像もしてなかったわ」
それは自己評価が高すぎないだろうか。
二人でぼやいていると、後ろで姦しい声が上がった。
見ると、男女数人が何やら話している。
「お前さ、樫本と寺井が付き合ってるの知らねえだろ」
「…え?マジ?」
ちょうど今、視線の先で会話をしているのが樫本と寺井だ。初耳の情報に、感嘆じみた声が出る。
「はぁ~」
「俺も知ったの昨日だけど」
部活動に所属していない二人には、浮ついた話が聞こえてくるのも遅い。
「…ふーん」
別にうらやましくないけど、と聞こえるように返事をするが、内心うらやましくて仕方がない。
自分が体育教官だったら、不純異性交遊なんて禁止にするのに。
妄想の中で愛し合う二人の仲を引き裂いていると、きっと同じことを考えている陸人の濁った目がこちらを向いた。
「水飲みいこうぜ」
「うん」
教室はカップルのイチャイチャをからかうムードになっていて、独り身の寂しさしか知らない体には嫌な染み方をする。
「修学旅行って京都だろ」
「多分そう」
他愛もないことを喋りながら廊下を歩いていると、向こうからふわりとした黒髪と、さらさらと流れる金髪の持ち主が歩いてくるのが見えた。
逃げ出したくなる。
「旅先で素敵な出会いないかなあ」
どんどん距離が縮まり、すれ違ったのは、話している二人がふと顔を上げたときだった。
よりによってここでなくともいいだろうに。
黒い瞳は薄い反応を示すと、特に気を留めることなくまた前へ向けられた。
きっと睨まれるよりも苦しいだろうと思う。
心臓が体の外から見えるとすれば、剣山の如く針が突き刺さっているに違いない。何度か経験しているが、その度に息が詰まりそうになる。
手を握った女の子に、まるで他人のような反応をされる。彼女にとってはもう他人でしかないのかもしれないとも思うと、やりきれない。
鴎も目を逸らしたが、相手のそれに比べれば随分と分かりやすかった。金髪の少女が眉根を寄せて、居ても立っても居られないという表情をするが、歩みを止めない相方に引っ張られるようにして結局歩き去った。
「あるといいねぇ」
陸人の方に笑って見せて答えるが、本心ではそんなことはどうでもよかった。
頭にあるのは、すっかり疎遠になってしまった六城結が見せてくれた、笑顔と泣き顔と何でもない顔だけだった。