戦場の支配者
一瞬、“虎伏せ”かという恐怖に襲われただけに、その正体が自分たちからすれば弱々しい人間だと分かると、恭治は怒りよりも困惑を覚えた。そして必死な顔を見たとき、何となく事態が飲み込めた気がして、放っておくことにした。何もできない相手を虐める趣味はない、それに少年が達也の友人だったのを思い出したからでもある。
二度目の衝撃の後、何かが砂地を滑る音がした。茂が八つ当たりしたのだろう。その音にも振り返らず進んでいると、また肉がぶつかる音、そして茂の叫び声が聞こえた。
「こいつは殺すぞ!」
情けないやつだと言ってやりたかったが、沸騰した薬缶は慎重に扱わなければいけない。選んだ言葉を告げようとして、思考が悪寒を運んできた。
「……待て!」
校舎の屋上が光ると、音と共に茂の左腕が吹き飛んでいた。
鴎は激昂した茂に睨まれ、軽く小便を漏らしていた。真っ白になった頭には後悔すらも浮かばない。視界の端で光る刀はこれから何が起きるのかを鴎に語ろうとするが、それも拒絶して汗と涙まみれの体を硬直させる。
「……待て!」
叫び声が合図だったかのように、一瞬に詰め込まれた音が響くと、茂の腕が中ほどで飛び散った。
鴎は自身の首を掴んだままの左手と一緒に地面へ落ちる。尻に芯まで通う痛みがあったが、今目にしている光景の前では大して存在感がなかった。
事態に追いついていない呆けた顔で、血が噴き出す左腕を眺める茂と鴎の頭の上に、何かが通り過ぎる影が落ちた。
前触れなくシャッターが下りる音がして、鴎は目の前が真っ暗になった。遅れて爆発音が耳に届く。
達也が茂の手を撃ち飛ばし、掴まれていた少年が地面に落ちたとき、彼らの上空を緩やかに回転する車が通過するのを恭治は見た。恭治と伸太はその軌道を追うように頭を動かす。
何か仕掛けが施されていたらしい車は、これから恭治たちが乗り込むはずだったバンに激突し、爆発した。今日聞いたどれよりも激しい音ともに、噴き上げた高熱が立っている場所まで届く。恭治たちが顔を腕で覆うと、背後で金属音と悲鳴がした。
体が凍てつく。
聞き間違えるはずがなかった。何度悪夢で繰り返したことか。脆くも崩れ去るものを感じながら、恭治は振り返る。
茂は残っていた右腕も切り飛ばされ、返す刀で袈裟切りにされていた。その体が膝をつくより前に、銀と白の男は宙に浮かんでいた茂の“長髭丸”を片手で掴むと、ちらりと刀身に目をやった。
「咬牙百連」
まさか、ありえない、そう思うより先に口が動いた。
「跳べっ」
男は麦穂でも振るような軽々とした動作で、“長髭丸”を右から左へ動かす。
斬撃の波が空間を埋め尽くした。
その場で跳躍した二人の足元を、無数の刀刃が擦過する。それらが行き過ぎると同時に、恭治の体が吹き飛んだ。足蹴りによって飛ばされた方向に、伸太と折り重なって倒れる。
「げっ……」
呻く伸太の上で、恭治はすぐさま上体を起こした。しかし男からの追撃はない。呆然としかけ、肩に乗せていた結が奪われたことに気づく。
男は地面に落ちたときから座りこんだままの少年に近づくと、抱えていた結を押し付けた。
「だっこしてじっとしとけ」
少年はまるで目が見えないような素振りで体を跳ねさせたあと、近づいた肉体の熱に少しばかり落ち着きを取り戻し、恐る恐る声を出した。
「庵さん……?」
十年前から今日に至るまで最強の名を欲しいままにしてきた男は、無言で立ち上がるとこちらを向いた。靄が染み出ている鬼の面、散弾銃を吊るすホルスターが揺れ、数えきれない肉を切り落とし血を吸った刀が月光を飲み込む。風に揺れる銀色の美しさは、死に行く者への手向けなのかもしれなかった。
恭治は、体が、浅くなった呼吸を、それでも懸命に続けようとしているのを感じた。終わりが近いと勘付いているのだろうかと思った。