木曜 放課後(2)
教室へと戻る道筋、“楔”という単語の説明を思い出す。“可能種”が存在し続けるための理由、生きがい、目的。自分が結にとってのそれだという庵の言葉が去来すると、猛烈に照れくさくなった鴎は、庵の憶測でしかないのだと自分を納得させ、それ以上考えるのをやめた。しかしながら、足取りは浮ついている。
三度教室を訪れると、結が相変わらず教室の掃除をしていた。およそ存在感というものを主張しない佇まい、見つめていても次第に薄れて見失ってしまいそうな儚さは変わらない。その姿は鴎に、この少女が生死の境目にいることを思い出させるのには十分だった。やはり自分が“楔”だというのは何かの間違いではないかと思いつつ、鴎は結に掃除の手伝いを申し出た。
結局、チャイムが鳴るまで各クラスの教室を片付け、学校から人がいなくなるのを待って屋上へ向かった。
二人が扉を閉め屋上に足を踏み入れると、ちょうど強い風が吹き抜けた。これだけ高く、開けた視界はやはり珍しい。そしてこの巨大な建物に今は誰もいないのだと思うと不思議な感慨に襲われる。
学校の敷地内で視認できる箇所は、月光に照らされた屋上や廊下の窓側ぐらいで、グラウンドの木々は闇に溶け込むというより、闇を作り出しているといった風情だ。しかしそれらの、圧迫を伴う存在感とは別に、この見晴らしのよさは鴎に解放感を与える。
柵に近づいてそんなことを考えていると、風が優しく顔をなでるのを感じ、吹いてきた方向を向く。そこには、あの薙刀の石突を地面に打ちつけ、目を瞑る結の姿がある。何をしているのか説明は受けたが、これも何度見たって慣れないだろうな、と、思う。
昨日、同じ屋上でいざ見張りを始めようというときのこと。
南と北の校舎をどちらも監視するのなら、待機するのは廊下の方がいいのではないか。そう尋ねた自分に結は首を振ると、右手の甲を上にして正面へ差し出した。すると何もないはずの右手に、カエルへ一撃食らわせたあの薙刀が、真ん中から次第に形作られるようにして姿を現した。
鴎はその光景だけでも呆気にとられたが、結の奇術はそこからが本番だった。取り出して見せた薙刀の刃の逆側、石突を屋上の床に突き立てると、目を瞑り動きを止めた。そうすると結の髪の毛がふわりと浮き上がり、続いてその服が風に煽られるようにパタパタとはためいた。その現象は次第に結のみならず周囲へ波及した。鴎自身も髪が少し舞い上がり、そこで初めて結を中心として風が発生しているのだと気づいた。しばらくするとその現象が収まり、結はこちらを振り返った。
「風をこの校舎に巡らせたので、内部の動きは感知できます。監視はこちらからで十分でしょう」
しごく簡潔に説明した結に、鴎は黙って頷くことしかできなかった。
そして今も、結は同じ作業をしているようで鴎はそれをぼんやりと眺めていた。
「終わりました」
「お疲れ様」
今日もまた、そんな言葉をかけることくらいしかできない。短い会話を交わすと二人とも黙り込んだ。
月光に鈍く光る大きな薙刀を見ていると、ふと疑問が浮かぶ。
「さっきの風を出すのって、“可能種”の人はみんなできるの?」
結は横に首を振った。
「今のは“遺産”の力です」
「遺産?」
聞きなれない印象を受けるのは、その言葉に独特の意味が含まれているからだろう。
「”可能種“が”万能種“に近づいて消えてしまったとき、その場に何かが残ることがあります。それは”遺産“と呼ばれていて」
結が手に持った薙刀を軽く動かすと、じょうろから水が注がれるように、穏やかな風が鴎の横を吹き抜けた。
「このように不思議な力を持っています。一つ一つでその内容は異なり、“可能種”の間でも貴重なものとして扱われています」
今度は鴎に見えるように、結は手の平を上にした。薙刀は現れた時と同様端から掻き消えていき、小さな髪留め、六枚の花弁が翠色の球体を囲む意匠のものが残された。
結はそれを髪に差し込みつつ、
「校舎に風を送り込んだのはこの“翠嵐”という“遺産”の力で、私一人ではできません」
「ふぅん……」
解説を頼んでおいてなんだが、非現実的すぎて生返事しか出てこない。カエルを目にしたときからの、どこか夢の続きを見ているような気持ちを改めて感じた。
「便利なもんだねえ」
そこで鴎は、あることに気づいた。
「その“遺産”って顔を変えたり、記憶を操ったりするものもあるの?」
「私は見たことがありませんが、あると思いますよ。“遺産”は多種多様です。叔父が“遺産”にできないことは、死者の蘇生くらいだと言っていた記憶があります」
「じゃあこっちに来た人が使ってる可能性もあるってこと?」
そうだとすれば、今の調査方法は無駄になる。とっくにその“遺産”を使って自分の正体の隠蔽工作を済ませているだろうからだ。
しかし、結の首の動きによってその懸念は打ち消される。
「処理対象が持ち出した“遺産”は先方から報告されています。そういった機能はありません。貴重なものがあれば六城の家に任せず自分たちで回収するはずですから、情報は確実だと思っていいでしょう」
それを聞いて漏れかけた安堵の息を抑える。自分が独自に行動していることを話すのは、ある程度情報がまとまってからだ。このことを知ったら結はきっと止めるだろう。それでは意味がなかった。
幸い結は、鴎が単に“遺産”へ興味を持っただけだと考えたようで、その話はそれ以上発展しなかった。
監視のために柵に近づくと、今日は結が敷物を持ってきていた。前回は長いこと風に晒された屋上に腰を下ろすのは躊躇われ、結局立ったままだったので何度も姿勢を変えなければいけなかった。
これで服を汚さずに済む。礼を言いながら一緒に座り込んだ。
遠くから響く車のブレーキ音は、屋上の静けさを際立たせる。監視を初めてから三十分ほど経過すると、鴎は次第に退屈になってきた。初日もそうだった。最初こそ緊張しながら廊下の隅々に目を光らせていたが、実際には数時間もの間何も起きなかったわけで、雲が流れていくのを眺めていただけだった。今日も次第に北校舎への集中力が薄れていくのを感じる。そもそもあんなに巨大な何かが現れれば、注意していなくたって分かる。誰でも気は緩むだろう。
時折雲に遮られる月光を浴びながら、隣に座る結をちらりと見た。その視線は真っすぐに校舎へと向けられていて、鴎のように緩んだ気配は微塵も感じられなかった。こんなことでも生真面目にこなすのだなあ、と、関心半分、反省半分で、鴎はもう一度気合を入れなおし校舎に視線を向けなおしたが、そのうちまた意識が不定形になっていった。
このままではだめだ、と、考えた鴎は、結と話をすればいいと思った。打ち解けるいい機会だ。しかし、いざ話すとなると、庵から聞いたこと、触れがたい話題ばかり浮かんできて、なかなかきっかけを掴めない。一度そうしようと思い立った手前、こちらが何か話しかけなければという義務感に似た焦燥に駆られ、鴎は話題を探す。
しばらくそうしていると
「里見君」
突然名前を呼ばれドキリとする。跳ねた心臓を押さえるようにしながらそちらを向く。
「な、なにかな」
「暇ですね」
鴎は思わず口を半開きにして結を見つめる。一昔前のアニメなら木魚を叩く音だけが響く数秒間。しかし、結もあの真面目腐った顔で自分と似たようなことを考えていたのだと思うと、時間差で笑いがこみ上げてきた。
「そうだね」
笑みを浮かべながら頷く。
「しりとりでもしない?」
結は鴎の提案に賛意を示すと、「そちらからどうぞ」と先攻を譲った。
鴎は、ひょっとして自分が眠りかけていたことに結は気づいていたのかもしれないと思いつつ、
「じゃあ、りんご!」
しりとりを始めた。