ひび
尻上がりの調子を楽しむ茂に対して、クレアは事態が一気に悪化したのを感じていた。距離を置いた先刻の選択を悔やむ。あれだけ簡単に処理されるのでは、火球を軸とした攻撃は躊躇われた。そうなると残していた手段も有効そうなものは限られる。
閉鎖空間である廊下は火を操る自身の“命題”にもってこいだと考えていたが、多角的な攻撃を行いにくいという形で裏目に出てしまった。
それに目の前の相手からは、“可能種”特有の適応性が発揮されているのが分かる。攻撃をしのぎ続ける立場なのが関係しているのかもしれないが、理由が何にせよ、クレアとしては望ましくない。
勝負を決めるのに最も相応しいのは、まだ見せていない柱の攻撃だ。しかし、これを防がれるといよいよ手詰まりになるという予感が足元にある。
弱気さが火球での試していない攻撃を選ぼうとしたとき、窓ガラスに映った自身の姿が目に入った。白色は身に纏う者を鼓舞している気がした。
黙って刀を握る。期待に応えると決めたはずだ。何が何でもこの男を仕留めて、あの子のもとに駆け付ける。段取りにおける一番大切な部分はそこだ。
だらだらと続けて勝機が見えるとも思えない。戦闘開始からそれほど時間が経過したわけではないが、クレアは一か八かの攻勢に出ることを決意した。
後ろを片付け、クレアの方を向いた茂は、今度は前方から火球が迫るのを確認した。
馬鹿の一つ覚えが、と内心に吐き捨て、刀を振りかぶったとき、広がる熱に背後を焼かれた。
前後に発生した二つの火球での挟撃。順に切り捨てるだけのことだと結論付けようとした思考が、何かに反応した感覚に押しやられる。茂は腰に刀を構えると、前へ向かって突進した。当然ぶつかりかけた火球に向けて刃を振り上げ掻き消すと、その奥からもう一つの火球が現れた。
やはり、二つではなく三つ。前方の火球が影を作り、それに続く火球を隠していたのだ。先ほどまでと同様のやり方では排除が間に合わずに食らっていただろう。しかし、頂点に達した感覚器官は遮られていたそれを鋭敏に感じ取った。
「咬牙四連!」
上げていた刀を振り下ろしながら攻撃を発する。掻き消された一つ目の火球を越え、次の火球まで不可視の刃が伸びる。奥の金髪ごと真っ二つだ。
次の瞬間、床から噴き上げた炎柱が斬撃諸共茂の確信を消滅させた。
かかった!
クレアは一気に開けた視界から、柱が茂の攻撃を阻止したのを見て取った。
柱の弱みは発動前に足元に熱波が生まれ、避けられてしまうことだ。庵との訓練でも改善のため努力したが、今夜には間に合わなかった。
そこで庵から受けたアドバイスをもとに結と考えついたのが、その熱を火球で誤魔化すことだった。
茂が火球は三段構えだと気づくにしろ気づかないにしろ、先に放たれた前方から対処するのは予想できる。柱はその斬撃を吹き飛ばすために、火球の下に用意しておいた。
一歩間違えば、火球越しに目に見えない攻撃がクレアを襲っていただろうが、賭けには勝った。
猛進する自分、背後から距離を縮める火球、相手が刀を振る時間は一度分しか残されていない。
クレアは勝利を目前にし、茂の脳神経を敗北の二文字が駆け抜けた。
「咬牙八連!」
声量はやけくそ気味だったが、捨て鉢の判断ではなかった。追い込まれた茂は、だからこそ記録を更新するときだと、不思議な穏やかさで確信した。
僅かに振られた刀から、特大級の刃が発された。それは茂を囲うように展開し、近寄るものみなを切りつけた。
そこらじゅうの壁、床、そしてクレアに斬撃が食い込む。
クレアはほとんど断ち切られた左腕と、背中まで貫通した、わき腹からへそにかけての傷口、そこから飴玉ほどの丸い赤色が零れるのを見た。
コマ送りになった視界の中、茂の背後にあった火球も萎んでいくのを見る。瞬く間に逆転した形勢はどこか他人事染みていて、コップを倒した机から床へ落ちる水の速度で、意識はブラックアウトへ向かう。
それをどうにか食い止めたのは、近頃は姉妹の無表情から気持ちがわかるようになった事実と、ひび割れに装飾された穴たち、その先に見える光景だった。
力を振り絞り、火球を造る。“道引行灯”はどこかに行ってしまい、天井近くが精一杯だ。
勝利の余韻を邪魔された茂は不快そうに刀を振るった。音が走り、過剰な数の切れ込みがクレアの頭部と火球、そして天井に切れ込みを入れた。それは建物の重みを支えていた筋というべき箇所だった。
次の瞬間、破断されていた天井に最後の一押しが加わり、轟音と共に崩落した。