少女のお願い
「昨日言ってくれたこと、昨日も言ったけれど、嬉しかったんです」
指先から伝わるひんやりとした温度が手のひらの感覚器官を呼び覚ます。長らく忘れていた柔らかさは鴎に衰えぬ衝撃を与え、思考は急速に幼児化した。
この手の間の湿り気はどちらから生じたものなのだろうと思いつつ、自分に違いないと自答するほど力んだ結果の変顔で、鴎は結を見ていた。
「今の私はこんな返事しかできません。まだ鴎君に話していないことがたくさんあるからです。でも、だから鴎君を軽視しているわけじゃないんです。大切に思ってないわけじゃないんです。あんまり嬉しかったから、どんな顔をすればいいのか分からなくて、今朝はあんなに見苦しい姿をお見せしたんです。ごめんなさい」
「あの、ちっとも気にしてないよ」
「ありがとうございます。昨日の前から、ずっと前から、鴎君が危険なことに関わるのが怖くて仕方ありませんでした。怪我をしてほしくないんです。だからって私たちに関わるななんて言いたくもないんです。一緒にいたいんです。一緒にいてください。怪我をしないでください。明日は待っていてください。戦っているところには来ないでください。次の日に学校で待っていてください。待っていてほしいです」
長々とした意思表明を終え、上げた顔中に頬から広がった赤みがあった。それでも鴎の両眼を両眼で捕らえて離さない。奥深い輝きの底に、ねじ伏せられた恥じらいが見えた。
「お願いします」
「えぁ、うん…」
男らしさというものが、こんな場面でどれだけ怯まず物事にあたることができるか、の尺度であるとすれば、鴎は結に完敗だった。死にかけのアヒルでももう少し勇ましい声を出す。
そんな嘆かわしい態度でも、結が鴎の返事にコクリと頷く姿はどこか満足気で、
「では戻りましょう、クレアが待っています」
くるりと向けた背中越しにそう言った。皮膚が解かれた手の感触に名残惜しげな声を上げる。
数分前までの気持ちなど何処へやら、筋肉が消失したのかと思うほど頬が弛緩して、頭の中が目の前の女の子のことでいっぱいになっている自分はどれだけ単純なのだろう、と鴎は思った。
それでも、ネジと骨だけで構成されているのかもしれない足を動かして追いかけた背中が、今朝のよろめきをまだ残していることに気づくと、やはり心の締め付けは緩んだ。
昼食を食べていた教室に戻ると、ずっと待っていたらしいクレアがいた。腕組みをして、何とか苛立ちを抑えようとしているのが引きつり気味の笑顔から見て取れた。
「もちろんジュース一口くらいくれるよね?」
「あ、買ってない」
ぴくぴくと口角だけ動かしていたが、結から説明を受けると、短く「ふーん」、とだけ呟き、後は何も触れなかった。
それからの文化祭は、心安らかとは言えなかったが、一日目も二日目も何事もなく過ぎた。それが夜に訪れる嵐の前の静けさであることは各人が確信していた。