うろたえ
「では、文化祭だからといって、もう高校生だということを忘れることなく、節度を守った行動を心掛けるように」
耳を聾する爆音と共に、男子生徒たちが走り出した。奇声を全身に浴びた担任は諦め顔で職員室へ帰っていった。
鴎はおもむろに席を立つと、約束した相手の元へ向かった。その途中で目が合ってしまい、そうなると容易には収まらないと声高に主張しながら、胸が躍り出さんばかりに飛び跳ねだした。
「お化け屋敷ってほんとにお化け出るの?」
「…経験したことが無いからといってあり得ないとは断言できません」
油の切れた関節を何とか動かしながら歩いてきた鴎に、クレアも気が付いた。
「ねえ、あんたお化け見たことある?」
「…僕に見えなくたって酸素はそこら中にあるわけだからね」
期待していた簡潔な回答を寄こさない二人に不満げな顔をしたあと、クレアはまだ椅子に座っていた結を立たせた。
「ほら!今朝からボーっとして、あんた今日が何の日か分かってんの?」
「…幽霊の日ではないことは確かです」
クレアは肩をすくめると、鴎の方に視線と水を向けた。
「今日は…」
今日は江袋高校における第四十八回目の文化祭初日だ。普段教室に詰め込まれている生徒たちは、そこから解き放たれると同時に日頃自身に課していた精神的な抑制も外して、ひと時も黙ることなくそこらを歩き回っていている。
区画によっては満員のエレベーターも斯くやの人口密度を叩きだす人の群れの中を、クレアを先頭かつ中央に置いた三人は進む。
「やっぱり最初はお化け屋敷でしょ!」
そう口にしながらぐんぐん足を踏み出すクレアの半歩後ろで、鴎と結は気まずい空気を共有していた。
あれからまともに会話をしていない。あれから、とは無論、硬直したまま向かい合った放課後のことだ。
放送を受けて無言で校舎を出ると、遅くなった結を心配したらしい庵の車があり、鴎は同乗の誘いを失礼の無いよう、しかし固辞し、見送るとそそくさと家に帰った。
そして昨日結が学校を休んでしまったので、今朝まで交流は途絶えている。
家で冷静になると気が変わり、一緒に行動するのが嫌になったのではないかという疑念は否定できなかったが、まずこちらから動かねば、という思いもあり、鴎は慎重に口を開いた。
「もう体調は平気なの?」
優に五秒は経過してから、結は正面から視線を鴎に移した。
瞳の色を認めた途端、一段と騒がしくなった胸に意識を以って蓋をし、こちらも目を合わせると、結が控えめな声を発した。
「…叔父のことですか?」
「…え?」
「キャプテンじゃなくて健康の方でしょ。ポンコツ翻訳機じゃないんだから」
ああ、という表情をした結は、鴎にもう一度顔を向けた。
「三十七度二分です」
「えっと、そっか」
平熱を知らない鴎では判断のしようがない。
結は時折気が抜ける発言をするが、ここまでではなかった。また前を向いた横顔をちらりと見遣りながら、本当に平気なのだろうか、と少し心配になる。
二年生のクラスが企画したお化け屋敷は、三人がたどり着いたときにはもう列ができてしまっていた。
「多いねえ」
廊下に占める教室一つ分の長さはあるそれを目の前に、クレアは渋い顔をしている。
「これ興味あるの?」
「…待ってもいい?」
「私はいいですよ」
「僕もいいよ」
三人で後尾に回ると、文化祭のパンフレットの山が積まれた机があった。
失くした生徒のためだろう。そういえば朝配布されていたが、持ってくるのを忘れていた。
何の気なしに鴎が一番上に置かれたパンフレットを取ろうとすると、結も同じように手を伸ばした。指と指が重なる。
二人とも驚愕に顔を染めながら手を離そうとして、しかしあまり急ぐと相手に悪いと思ったのか、動きが止まる。互いに手を突き出して重ねる形になった。
そのまま固まってしまった二人に、クレアは呆れ顔を向けた。
「何してんの?」
そう訊ねられても、緊張を引き写しているのだろう結の手は強張っていて、無理に剥がすような真似をすると傷つけてしまう気がした。
無言で助けを求めると、クレアはため息を吐きながら、自分も二人の上に手をのせた。
「えいえいおー」
声に合わせて重ねた手を上下させ、離す。釣られた鴎と結も同じ動作をして、ようやく手が解放される。
「ちょっと、あんたまだ熱あるんじゃないの」
「三十七度二分です」
「それさっき聞いたんだけど…」
クレアを見る結は、心なしか目が据わっている。
「平熱です、平気ですっ」
「ほんとに?ふらついてない?」
「ふらついていませんっ」
それを証明しようと歩き出した結は、パンフレットの置かれた机の脚につま先をぶつけ、派手な音を立てながら一緒に倒れ込んだ。
「…だめだこりゃ」